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霊界物語あらすじ

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ここに掲載している霊界物語のあらすじは、東京の望月氏が作成したものです。
まだ作成されていない巻もあります(55~66巻のあたり)
第37巻 舎身活躍 子の巻 を表示しています。
篇題 章題 〔通し章〕 あらすじ 本文
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霊界物語も凡百の艱難を排し、ようやく第三十六巻まで完結を告げた。四百時詰め原稿用紙四万五千枚、着手日数は百八十日におよんだ。
しかしながら過去・現代・未来における顕・神・幽三界の際限なき物語であれば、とうてい三輯や四輯で大要を述べ尽くすことはできない。
神命によれば、三十六巻を一集としてもこれを四十八集を口述しなくては徹底的に解くことはできないとの話である。そこで神界をお願いして十輯・百二十巻くらいで神示の大要を口述したい。
ついては、瑞月王仁が霊界に仕えた経路をあらかじめ述べておく必要があるとみとめ、第四輯『舎身活躍』の初めにおいて穴太の幽祭修行の状況や、綾部に来たって出口教祖に面会し神業に奉仕した次第を述べて、読者の参考に供することにした。
『舎身活躍』は『海洋万里』の継続的物語である。神素盞嗚尊は数多の神人を教養し、これを宣伝使として四方の国々に遣わして八岐大蛇や邪神悪狐の霊魂を言向け和した。
そして出雲の日の側上において村雲の剣を得て天照大御神に奉り、五六七神政の基礎を築き固め、天下万民の災害を除いて救世の大道を樹立したもうた長大な物語である。
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予言者郷里に容れられずという古来のことわざのとおり、瑞月王仁が突然神界より神務に使役されるようになってから親族知己朋友その他の人々からあらゆる悪罵嘲笑や妨害等をうけながら、神命を遵守して今日まで隠忍してきた種々雑多の経緯は到底一万や二万の原稿で書きつくせるものではない。
ゆえに『舎身活躍』の口述のはじめにあたり、最初の霊的修行の一端を述べてから本問題の神代の物語に移ろうと思う。
幸い今日となっては自分の郷里の人々は、無宗教者といえども一人も反対を唱えたり悪罵嘲笑をするものはなくなってきた。むしろ瑞月の精神を了解し、かえって賛辞を送るようになったのは、まったく時の力である。
しかるにいつの世にも反対者というものは絶えないものである。大正の初頭から勃興し始めた大本の教えに対して、学者・宗教家・新聞記者などがずいぶん攻撃の矢を放って吾人の主張を破砕しようとしていた。
吾人は今後においてもますます、大本に対して大々的な迫害の手が加わることと確信している。
天の瓊矛のように、大本はイラエばイラウほど太く膨れて固くなり、かつ気分のよくなるものである。善悪吉凶禍福は同根である。筆先にも『悪く言はれて良くなる仕組じゃぞよ』とあるのも至言である。
このごろ丹波新聞という地方新聞が霊界物語を評していわく、『一丁ほど先から見えるような原稿を書いている』と。この物語は人間の頭脳の産物でない以上、神の霊光が原稿の上に輝いて遠方から拝めたのであろう。
著者の人物が大きいから原稿の字が大きく見えたのであろう。いやいや、そう慢心してはならない。神様の偉大なる神格が現れて筆記者の写した細い文字が丹波新聞の記者の眼にみえたのであろうと、神直日大直日に見直し聞き直し宣り直し、善意に解釈しておく。
実に天下一品の賛辞を与えてくれた大名文章だと感謝しておく次第である。呵呵。
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01 01 〔1013〕
わが富士山は古来数多の歌人によってその崇高雄大にして日本国土に冠絶し、日本一の名高山と称され、天神地祇・八百万の神の集まりたまう聖場となり、特に木花咲耶姫命の御神霊と崇敬されている。
現在の富士山は、高千穂の峰がわずかに残っているだけである。十万年以前の富士山は昔天教山といった。そのころは西は現代の滋賀県・福井県まで、北は富山県・新潟県、東は栃木・茨城・千葉、南は神奈川・静岡・愛知・三重の諸県より、百四五十里もすそ野がひいていた。
大地震のために南方が陥落し、今は太平洋の一部となっている。
富士山のすそ野があった地域が高天原と称され、その土地に住んでいた神人が高天原人種または天孫民族ととなえられた。
周囲ほとんど一千三百里の富士地帯は青木ヶ原と総称し、世界最大の高地であった。五穀や果実に恵まれ、真に世界の楽土ととなえられて生存競争もなく、神の選民として天与の恩恵を楽しみつつあった。
現代の富士山の頂上の高さあたりが、古代の富士山地帯の三合目あたりにあたっている。天孫民族は古代の富士山の四合目以上の地帯に安住していた。ほかの国々から見れば、雲を隔ててそのうえに住居していたのである。
皇孫瓊瓊杵尊が葦原の中津国に天下りたまひき、という古言は、古代の富士山の富士地帯より低地の国々へ降ってこられたことをいうのである。
現代のヒマラヤも古代の富士山の二分の一にも及ばなかった。仏者の須弥仙山も天教山をさしていた。現代の清水湾および遠州灘の一部は、富士山の八合目に展開してた大湖水であって、筑紫の湖と称えられていた。
また同じ富士山地帯の信州諏訪の湖は、須佐の湖といった。
筑紫の湖には金竜が数多棲息して大神に仕え、世界の気候が順調になるよう守護していたのである。そして素盞嗚尊の神霊がこれを保護し給い、富士地帯の二合目あたりに位置を占めていた。
太古の大地震によって中心点ほど陥没し、周囲は比較的陥没の度が少なかった。現代の山城・丹波などは地球の傾斜の影響で少しく上昇したほどであった。
丹波は元田場と書き、天照大御神が青人草が食べて活きるべき稲種を作り給うたところである。ゆえに、五穀を守る豊受姫神は丹波国丹波郡丹波村比沼の真名井に鎮座ましまし、雄略天皇の御代に伊勢の国山田に御遷宮になられたのである。
また小アジアのアーメニヤおよびコーカス山、エルサレム、メソポタミヤおよびペルシャ、インドの一部は、古代は富士山地帯のごとく雲上に突出していた。富士山の陥没とともにこれらの地も今の高度に陥落したのである。
エルサレムは現今の位置ではなく、アーメニヤの南方に当たるエルセルムであった。現今のペルシャ湾が死海であった。この物語は古代の地理によって口述しているから、今日とは非常に位置や名称が変わっていることをあらかじめ承知してもらいたい。
『舎身活躍』の最初に当たって富士山を述べたのは、瑞月が入道の最初、富士の天使松岡神に霊魂を導かれて太古の状況を見せてもらった因縁による。
『舎身活躍』は瑞月が明治三十一年の五月、再び高熊山に神勅を奉じて二週間の修行を試み、霊眼に映じさせていただいたことや、過去・現在・未来、現・幽・神の三界を探検して神々の御活動を目撃した大略を口述する考えである。
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01 02 〔1014〕
青垣山を四方にめぐらした山陰道の喉首口、丹波の亀岡にほど近い曽我部村の大字穴太は、瑞月王仁の生地である。
この地に生を享けてほとんど二十七年は夢のごとくに過ぎ去り、二十八歳を迎えた明治三十一年如月の八日、浄瑠璃のけいこ友達と知己の家で葱節をどなっていた。
そのとき、宮相撲をとっていた若錦という男が数名の侠客を引き連れて演壇にのぼり、瑞月を担いで桑畑の中へ連れて行き、打つ、殴る、蹴るなどの暴行を加えた。
嘘勝ら瑞月の友人が喧嘩に入り込んで乱闘を始め、宮錦らを追い散らした。瑞月は割木で頭を殴られ、頭が重く、友人らに助けられて自分の精乳館に連れてこられた。
寝込んでいると母がやってきて夜具をまくり、昨晩の喧嘩のことが知られてしまった。母は、父が亡くなったせいで近所の者に侮られるのだと加害者を恨んでいたが、これを聞くと自分も気の毒になり、傷の痛みはどこかへ逃げてしまった。
実際には自分が侠客気取りで喧嘩の仲裁をして回ったり、弟が賭場に入っていたのを引き出したりことから、あたりで鳴らしていた侠客の親分・勘吉に睨まれたことが原因であった。
そうして侠客の娘・多田琴とわりない仲になり、琴の父・亀について侠客の道を学んでいた。亀は瑞月を自分の後継ぎにしようと考えていた。
自分は貧家に生まれて、強者が弱者に対する横暴を非常に不快に感じ、憤っていた。父が亡くなってからはその思いが吹き出し、侠客と命がけのやり取りをして彼らをへこませていたから、睨まれていた。
もしも神様の御用をしなかったら、三十四五までにたたき殺されていたかもしれないと思うと、神様の御恩がしみじみとありがたくなってきた。
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01 03 〔1015〕
親戚の次郎松は勘吉の美人局にかかって、金をゆすられていた。ある晩、次郎松は勘吉一家に家に押し込まれて往生していた。次郎松の老母は、自分に助けを求めてきた。
自分の母と祖母の不安も顧みず、男を売るのはこのときと野次馬を分けて次郎松の家に入り、次郎松をゆすっている勘吉に啖呵を切った。
勘吉は、喜楽を叩きのめせと子分たちに号令をかけている。子分の一人がけしかけられ、震えながら、お願いだから外へ出てくれと声をかけてきた。自分は懐手のままドスンと座り、空威張りをしていた。
そこへ嘘勝がやってきて、勘吉が美人局で次郎松をゆすっていることを大声で触れた。自分の弟が、次郎松が勘吉に払ったお金をいくらかちょとまかしたことが原因だから、この件は自分が仲裁に入ろうと言い立てたのである。
勘吉は、女を種にして次郎松をゆすっていたことが公になるのを恥じて、急に手打ちを言いだした。そして明日の晩に仲直りの宴会を開くこととなったが、嘘勝は言い訳をつけて断った。
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01 04 〔1016〕
勘吉が手打ちの宴会場に指定した呉服町の正月屋には、お愛という勘吉なじみの芸者がいた。勘吉は、次郎松の一件では喜楽が往生して詫びを入れにくるのだ、とふかしていた。
喜楽は次郎松と、嘘勝の弟・長吉と三人で正月屋にやってきて、勘吉と盃を交わして宴会が始まった。宴会の最中に長吉は正月屋の階下へ下りて行き、お愛に本当の事の次第や今日の宴会の予算をしゃべってしまった。
お愛から文句を言われた勘吉は、長吉に対して怒りだした。自分はそれをなだめ、明日は朝早い用事があるからと次郎松と長吉の二人を連れて、正月屋を抜け出した。
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01 05 〔1017〕
自分は二人の酔っ払いを連れてようやく、松の下というさびしい場所にさしかかった。勘吉は、ここに子分と共に先回りして潜み、自分たち三人を叩きのめそうという魂胆だった。
嘘勝はそれを探索し、加勢を集めて山に登り、石や割木を用意して、三人を助けようと準備してくれていた。
自分たち三人が松の下を通りかかると、四五人の黒い影が現れて、いきなり次郎松に殴り掛かってきた。自分は山の手に逃げたが、長吉も囲まれて殴られている。
すると山の上から石つぶてや割木の雨が降ってきた。嘘勝の一隊が、加勢を始めたのであった。さすがの勘吉と子分たちもこれにはたまらず、暗闇の中を逃げ出した。嘘勝は次郎松と弟の長吉を助け出し、ようやく家路につくことができた。
こういうことが何回も重なり、何度も袋叩きの目にあった。そのたびに、自分はなんだか社会に対して大きな使命を持っているような気がして、他人に万一でもけがをさせたら、それが将来の障害になるのではないか、との念が起こってきた。
そうして敵にやられるままに耐えていると、いつも誰かが出てきて敵を追い払ってくれたのである。このようであったから、二月八日も若錦一派の襲来を受けるようなことを自ら招いていたのであった。
精乳館で養生して母が訪ねてきた後、八十五歳になった祖母がやってきて、昨晩のことは神様の慈悲の鞭だととうとうと諭し、くだらない喧嘩などに身をやつさずに誠の人間になってくれ、と戒めた。
自分は胸が張り裂けるように思い、森厳なる神庁で大神の裁きを受けるような心持がして、心の中で改心を誓い詫びをしていた。
その夜更け、胸が騒ぎ心の中は警鐘乱打が響くようであった。そして今が善悪正邪の分水嶺に立っているように思われた。折しも忽然として、一塊の光明が身辺をい照らす如く思われてきた。天授の霊魂中の直日の御魂が眠りから覚めたのであろう。
そして父ばかりが大切の親ではない、母や祖母をこれまで軽んじてきた自分の思い違いを悟った。またならず者を相手に挑み争った行為は立派ではなかったと反省した。
人のなすことを妨げるのではなく、自分は自分の本文を尽くし、現行心一致の模範を天下に示せばよいのだ、人の善悪を裁く権利など自分は持っていない、ということに思い至った。
懺悔と悔悟の念に五臓六腑をえぐられるような苦しさを感じ、ついには感覚を失ってしまった。このとき、芙蓉山に鎮まりたまう木花咲耶姫命の命により、天使松岡の神が現れ来たって高熊山の霊山に導かれて修行を命ぜられることになったことは、第一巻に述べたとおりである。
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01 06 〔1018〕
喜楽の姿が消えたことで、最初は母や兄弟も、女のところへ憂さ晴らしにいったのだろうと思って気にも留めていなかった。しかし二日経っても三日たっても帰ってこないで、そろそろ近所の大騒ぎになってきた。
皆それぞれ、占い師や祈祷師のところに行って、喜楽の行方を探索しようとしていた。七日目の十五日正午前に、喜楽は帰ってきた。
家族は喜び、近所の人々は詰めかけて、喜楽を問い詰めた。自分は神様に連れられて修行に行ってきたのだ、とだけ答えたが、神勅を重んじて後は無言で聞いているのみであった。
飯を食って一日寝たり、父親の墓に参ったりしていたが、十七日の朝から自分の身体はますます変になってきて、四肢は強直し口も舌も動かなくなり、身動きがまったくできないようになってしまった。
家族は医者を呼んだり祈祷師を呼んだり手を尽くしていた。自分は耳だけ鋭敏になり、周りのことはすべて聞こえていた。しかし医者も祈祷師もさっぱり効験がなかった。
次郎松は、狸が憑いているに違いないと言って、青松葉に唐辛子や山椒を混ぜいぶし出そうと準備を始めた。自分はこれでは殺されてしまうと思い、全身の力をこめて起き上がろうとしたが、びくともしない。
次郎松が火鉢に火をおこして唐辛子と青松葉の煙を団扇であおぎこもうとしている刹那、母がそれを止めて嘆願し、母の目から落ちた涙が自分の顔をうるおした。
そのとき上の方から一筋の金色の綱が下がってきた。それを手早く握りしめたと思ったとたん、不思議にも自分の身体は自由自在に活動することができるようになった。一同は歓喜の涙に打たれ、自分も復活したような喜びに満たされた。
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02 07 〔1019〕
友人の斎藤宇一の奥座敷を借りて、いよいよ幽斎の修行に着手することになった。宇一の叔母の静子、妹の高子、多田琴、岩森徳子、上田幸吉その他に三人の者が修行者となった。
瑞月は小幡川で拾った仮天然笛で羽織袴を身につけて厳粛に審神者を修した。初めてで様子がわからなかったが、多田琴が神主の座に着くと、組んだ手を前後左右に振り回して飛び上がり、戸も障子もふすまもガタガタになってしまった。
一週間もすると多田琴が口を切り始めた。多田は日一日と発動が激しくなり、言葉も円滑に使うようになってきた。このころは、激しく発動するほど偉い神が来たのだと勘違いしていた。
多田琴は白滝大明神、斎藤静子は恒富大明神だと口を切って飛び上がり始めた。今から思えば笑止だが、初めて会った発動、託宣を目の前にして、人間も修行さえすれば老若男女の区別なく神通が得られるものだという確信はついた。
神主たちの発動騒ぎに昼も夜も家のぐるりは野次馬が集まっていた。多田は発動したままほかの修行者を連れて実家に帰ってしまった。自分は連れ戻そうとしたが体が動かない。
宇一が瑞月の審神者となって確かめると、瑞月の口が切れて、松岡天使であると名乗り、天下の万民を助ける神の使いは、よほどの修行をせなくてはならない、この方の言うことに叛いてはならないと言いだした。
宇一は修行しても自分にはなかなか神様がかからないので、なんとか口が切れるようにしてくれ、と松岡神に頼み込んだ。松岡神は、神が五万円やるから穴太の地を買収して大神苑を作れと宇一に命じた。
宇一は五万円と聞いてにわかに喜びだした。松岡神は、相場に詳しい大霜天狗を瑞月にかからせてやるから、相場のことを尋ねて五万円儲けるがよいと言い渡した。
とたんに宇一の一家は態度を一変し、今まで喜楽と呼び捨てにしていたのが、上田大先生様とあがめだした。宇一の父・元市はさっそく瑞月に大霜天狗の神主となるよう要請した。
大霜天狗は、小判を埋めたところがあるからそこにこの神主の肉体を連れて行って掘り出させる、と言って引き取った。自分は大霜天狗の言を疑ったが、元市はすっかり信じ切って喜んでいた。
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02 08 〔1020〕
自宅へ帰って寝ていると、誰かが自分を揺り動かした。にわかに自分の身体は機械のように自動的に立ち上がり、自然に歩き出した。産土の社のそばの殿山という小さい丘の山に導かれた。
臍の下から円い塊がゴロゴロと音をさせて喉の近辺まで上がってきた。大霜天狗、と口を切って怒鳴りたてた。大霜は、金を掘らせてやるから道具を用意して奥山に行け、と命じた。
自分はやむを得ず険しい道を道具を持って奥山へと進んできた。大霜天狗に命じられた場所でつるはしを握ると、手が勝手に動き出して地面を掘り始めた。
大霜天狗が休憩しているときに、こんな場所から金が出てくるはずがないと思っていると、大霜は自分の疑いを非難した。そして神様の道に入った自分は金など要らないといっても、無理やりつるはしを振らされて地面を掘らされた。
結局、金は出ないまま岩盤に突き当たり、つるはしの先も坊主になってしまった。自分が大霜を責めると、大霜はお前の心を試したのだ、といって消えてしまった。
仕方がないので道具を持って山道を戻ってくると、途中で元市と宇一が待ち構えていた。結局、家に戻って本当に金が掘り出せなかったことが判明し、元市親子の信用を失って修行場を断られてしまった。
多田琴は中村へ帰って、四五人と共にさかんに鎮魂や帰神の修行をやっていた。自分は自宅で自修をすることになった。
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02 09 〔1021〕
元市は修行場の貸し出しを謝絶し、自分のことをののしり始めた。静子を中村から引き戻し、高子はそのまま中村で神がかりの修行をしていた。一方で息子の宇一は親父の目を盗んでまた喜楽のところへ出入りし始めた。
するとまた大霜天狗が喜楽にかかり、口を切って宇一に席払いを命じた。宇一は審神者気取りになって、前回の小判堀りの失敗をとがめたてた。
大霜は、改心ができていないから戒めを与えたのだ、と返した。そして改心ができたらいくらでも金を与えてやる、というと、宇一は必要だから欲しいのだ、と食いついてきた。
宇一は、父親が相場で財産を失くして肩身が狭い思いをしているから、それを埋め合わせるお金をもらえたら喜んで信仰します、とお金をねだった。大霜は殊勝な心がけに免じて十万円を与えると、大店の番頭が財布を落とした場所を託宣した。
これを聞いて宇一は大霜のいうとおり禊や祝詞を一生懸命上げ、喜楽に早く行こうとせきたてた。自分は、大霜の言うことは本当のようには思われない、と愚痴を言ったが、宇一はお金の話に乗り気で、信仰を盾に喜楽を促した。
二人は大霜に言われた峠道を下りてきた。暗闇の中に、財布のような黒いものが落ちていたので、二人はそれに手をかけた。財布と思ったのは、牛の糞であった。
宇一はがっかりして、もう神懸りはやめようと喜楽に言った。二人は力なく穴太に帰ってきた。
こうして神様は天狗を使い、自分たちの執着を根底から払拭し去り真の神柱としてやろうと思し召し、いろいろと工夫をこらしてくださったのだと二十年ほど経って気が付いた。
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02 10 〔1022〕
葦野山峠の西坂で牛糞をつかまされ、自暴自棄になって二三日は祝詞も修行も注視していた。三日目の晩にまたもや臍下丹田から霊が喉元に上がってきて叫び始めた。
大霜天狗と名乗る神霊は、葦野山峠の失敗を触れて回ってやろうか、とからかい始めた。喜楽は、神霊は大霜天狗ではなく、やっぱり松岡様ではないかと詰め寄ると、神霊は実は松岡だと明かして大笑いした。
喜楽の文句はまったく聞く耳をもたず、松岡神は喜楽の身体を使って夜十二時ごろに自宅を立ち出で、亀岡の産土・矢田神社の奥の滝に水行を命じた。そして一週間の滝行を行うことになった。
七日目ににわかに恐ろしい思いに捉われ、怪しいものを見たが、一声腹の中から『突進』という声を聴くと落ち着くことができた。滝への途上、稲利下げの婆に会った。
滝に来てみると、亀岡旅籠町の外志ハルという神下しの女が行を行っており、喜楽が審神を行った。外志ハルが正気に戻ると、お互いに神様の話をしながら旅籠町に回り、夫の筆吉にも面会して、道のために協力し合うことを約束して穴太に帰ってきた。
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02 11 〔1023〕
矢田の滝の修行が終わってから宮垣内の自宅でいよいよ神業に奉仕することになった。さまざまな病人が来て鎮魂や神占を乞う。たちまち御神徳の評判が遠近にとどろいて評判を呼び、朝から晩まで食事をする間もないほど多忙を極めた。
またぞろ次郎松がやってきて難癖をつけ、湯呑みの中に入れたものを当てろという。喜楽は神様の教えを伝え人の悩みを助けるのがお役目だと諭すが、あまり騒ぐので、霊眼で湯呑みの中に銅貨を十五枚入れたことを当ててやった。
すると次郎松は狐を使っているとわめきだしたので、霊学の透視術について説明したが、さっぱり理解してくれない。次郎松は狐使いだと近所を言いふらしてあるいたが、参詣人が減ることはなかった。
また侠客の牛公が難癖をつけにやってきたが、喜楽は無抵抗主義で無視していると、しまいには屁をひりかけて去って行った。弟の由松は、無礼な牛公に罰も当てないと神様に怒って、祭壇を返してしまった。
その夜、由松の枕元に五柱の神々が現れて由松を戒めたという。しばらくは由松は殊勝になって祭壇の掃除などをしていたが、一週間もするとまた、次郎松と一緒になって神様の悪口を触れ回り始めた。
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02 12 〔1024〕
喜楽は斎藤宇一を伴って、亀岡の伯母を訪問した。伯母は大の稲荷信者であり、天理教にもかぶれていた。いつも喜楽のことを甲斐性無しだとこきおろしていたのに、喜楽が祈祷で評判を取っているとなったら、打って変わって丁重に迎えて歓迎した。
しかし喜楽が神懸りのときに飯を食べないと聞くと、偽物だとののしり始めた。神懸りは人並みはずれて飯を食わないと本物とみなされない、という地方の迷信のためである。
宇一はそれを聞いて伯母の家を出て行ってしまった。喜楽も抜け出して、宇一に追いつく。そのまま、宇一の知り合いの別の稲利下げのところに調査に赴いた。
そうしたところ、小谷重吉という稲利下げは逆上して苦しんでいるという。重吉は世話役の馬吉や宇一を金縛りにして大声を上げて責め立て暴れていたが、喜楽が霊を送って霊縛した。
天の数歌で重吉を起こしたが、半分天狗に憑かれたまましゃべっている。問答している途中、裏口から飛び出し、どこかへ行ってしまった。後で聞けば、天狗が住んでいるという岩山に逃げ込んでいたという。
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03 13 〔1025〕
松岡天使の命令によって、喜楽はただ一人で初めて大阪の布教を試みようと、汽車に乗ってやってきた。煙突の煙や行きかう人馬の音に圧倒されながら、多田亀の元の妻で多田琴の母である、お国という女の宅を頼ろうと探していた。
多田琴が布教がてらお国の元に行っていたので、協力して大宣伝をしようと思ったのである。
しかし想像だにしない大都会でたくさんの家や通りがあり、住所を探し当てることができなかった。ふと、自宅の隣家出身の斎藤佐一という人が、夫婦で天満橋近くに餅屋をしていることを思いだした。
初めての人力車に乗って、佐一の店に行った。佐一老夫婦とは久しぶりに顔を合わせたが、喜楽が祈祷を始めたことを知っており、お茶を出して親切にもてなしてくれた。
佐一は宿を紹介してくれた。そこに二週間ばかり滞在したら、家屋敷を抵当に入れて借りた持ち金はすっかりなくなってしまった。
大阪への別れに、天満天人様に参拝したところ、小林易断所と書いてある店の爺が声をかけてきた。易者は喜楽が丹波から来たことを当て、今大阪へ出てきたのは時機が早く、十年ばかり丹波で修行を積んだうえで再度大阪に来るように、と告げた。
易者はこれからの喜楽の艱難辛苦は並大抵のものではないが、神様のため、世の中のためだから辛抱するように、と涙ながらに諭した。喜楽は思わず落涙にむせんでいた。しばらくして頭を上げると、小林勇といった老易者の姿は跡形もなく消えていた。
不思議にあってしばらく呆然としていたが、松岡天使の教訓が今さらのごとく胸に浮かんできた。
邪神のすさぶ今の世に、至粋至純なる惟神の大道を研究し、身魂を清め、立派な宣伝使となって世界を覚醒させなくてはならない。神の僕となって暗黒世界の光となり、冷酷な社会の温味となり、身魂を清める塩となり、癒す薬となれ。
四魂を磨き五情を鍛えて誠の大和魂となり、天地の花・果実と謳われ喜ばれ、世のため道のために尽くさなくてはならない。今後十年の間は研究の時期であり、その間に起こる艱難辛苦は非常なものだ。
さりながら少しも恐れるに足らない。神様を力に、誠を杖にして猛進せよ。一時の失敗や艱難で心を変じてはならない。五六七の神の御心を遵奉し、世界へ拡充せよ。神々は汝の身を照らし、身辺に付き添って使命を果たすべく守りたまうであろう。
特に十年間はもっとも必要な修行時代だ、というものであった。
これより社前に額づき、拍手再拝して天津祝詞を奏上した。
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03 14 〔1026〕
大阪を去る前に佐一の餅屋を尋ねたところ、そこで一夜の宿をいただけることになった。いつしか佐一の一間に雑魚寝で寝入ってしまった。
西日の中、淀川のほとりにたたずんで大阪城を眺め、感慨にふけっていた。すると十二三歳の少年が番頭風の男に追われている。聞けば、店先の薬を盗んだのだという。
少年は、母が病気で苦しみ、貧乏で薬も買えずに苦しんでいたところ、どうしても薬が欲しくなって手が出てしまったのだという。喜楽は五十銭出して、少年のために薬を買ってあげた。
番頭風の男は怒りに口汚くののしりながら、五十銭をひったくるように受け取って帰ってしまった。喜楽はその無情さに歯ぎしりしながら見送っていた。
そして、この貧しい少年の境遇を見ても、鄙も都も暗黒世界は同じものだとため息をついていた。すると、佐一の妻のお繁婆さんにゆすり起こされた。今の夢は、神様の御心で喜楽の心に戒めを与えられたものだと気が付いた。
また郷里には母や祖母のあることを思いださしめ、早く帰国させようというお計らいであったことが、後日感じられた。
丹波への帰り道、夜の山路の岐路で迷っていると、怪しい白衣の旅人が現れ、案内をするように進んで行く。怪しみながら着いていくと、眠気に襲われて道端の六地蔵の屋根の下に横たわり、眠り込んでしまった。
ふと目を覚ますと、怪しい女が赤ん坊を背に負い、『南無阿弥陀仏』と唱えながら地蔵の数多から水をかけて祈願しているようである。喜楽は恐ろしくなったが、気を落ち着かせ、恐ろしい思いをしながら山道をたどって一目散に馳せかえった。
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03 15 〔1027〕
田植えの時期で参詣人もまばらな折から、身なりいやしい一人の婦人が、両眼のあたりを包帯して杖をついてやってきた。来意を聞けば、眼病を直してほしいとのことであった。
夫に死に別れて墓参りをしていたところ、墓から立ち出た怪しい影に驚いて眼病を患い、赤子も乳がとぼしいばかりに十日ほど前に死に別れたのだと語った。
喜楽は、大阪からの帰りに六地蔵で遭遇した怪しい女はこの夫人であったことを悟り、また自分の影に驚いて眼病になったと思うと神様に対して申し訳ない気持ちになった。
直ちに井戸端で禊をなし、祈願をこらしたところ、石田小末というその女の眼病はたちまち治ってしまった。
石田小末はこれより幽斎を修行し大いに神術の発達を得た。高等眷属の神霊が懸って幽界の有様を表示したが、百日ほどして、大阪の姉の家に行くといって喜楽に別れを告げたままになってしまった。
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03 16 〔1028〕
稲の植え付けが終わり、麦かちを手伝っていると、三人の男が自分を尋ねてきた。旭村の岩田弥太郎、射場久助、入江幸太郎であった。
弥太郎の妻のお藤が二三か月前から霊感者となって一日に飯を五六升、酒を三升も平らげるようになり、養蚕の蚕をつまんで食ってしまう、白木大明神と名乗っていろいろ指図をするようになった。
病気を治すので参詣人が集まるようになってきたが、隣村の稲荷おろしから訴えられたりなど、困っているので何とかしてほしいとのことであった。
喜楽は頼みを聞き入れ、小末を連れて弥太郎の家にやってきた。小末に霊視させると、お藤には狸がついていることがわかった。
お藤は神がかりになって喜楽の姿を見ると、丁寧に手をついて、神界の御用ができるよう大神様に取り次いで欲しいと頼み込んだ。
小末が帰神状態になり、白木明神と名乗る憑霊に対して、能勢妙見の新滝の四郎衛門狸であることを見抜いて詰問した。お藤の憑霊は観念して素性を明かした。
狸は、人について病気を起こさせ、医者の薬をのませて実地に試験することで薬の知識を得たという。そこで霊界の医者になろうと思ってさらに人の身体を稽古に使っていたが、誤って二人の人間の命を取ってしまったという。
その罪によって教会の守護神の役をはく奪されてしまった。たまたまお藤の肉体が薪割に来て、酒に酔いつぶれて倒れていた隙を狙い澄まして取り付いたのだという。そして喜楽に、名を与えてもらって神界のお役目を与えてほしいと頼み込んだ。
その夜は射場久助の家に泊めてもらい、岩田藤に修斎を与えた。翌日、小末と一緒に穴太に帰ってみると、四五人の修行者を巡査が引っ張って行こうとしていた。御嶽教太元教会の杉山という男がそこに立っていた。
喜楽は巡査と杉山に対して霊学上の議論を闘わして、ようやく巡査は納得して帰って行った。
杉山という男は、余部の高島ふみという稲荷下げの若い女の教会の受付などをやっていたが、高島ふみといい仲になり、ふみの夫に追い出された。そこで二人は同じ町に広い家を借りて信者を集めていた。
杉山は、喜楽のところへ信者を取られていたので、なんとかたたきつぶしてやろうと巡査を説きつけてやってきたのであった。
喜楽は三四年前は父の祈祷を頼むために高島ふみの教会に通っていたことがあり、杉山とも旧知の仲であった。しかしそのときに教会の受付の爺さんから、高島ふみの神がかりは偽物であることを聞いてしまっていた。
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03 17 〔1029〕
あるとき、杉山が教会を新築したいので寄付を募るための演説を信者にしてくれ、と喜楽に頼んできた。そのとき喜楽はまだ若く、父の病気も直して欲しかったから、まじめに演説の腹案を考えていた。
しかし祭典の際に高島ふみを観察していると、受付の爺さんの言った通りに偽の狐の尾を使って神がかりの振りをしていることが見て取れたので、急に演説の気乗りがしなくなってしまった。
しかしこのときの演説にはなぜか、杉山をはじめ信者たちも非常に感服していた様子であった。しかしその後、別の信者がいい加減な託宣に騙されたと高島ふみのインチキを衆目の前ですっぱ抜き、それ以降この教会は次第にさびれてしまったのである。
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03 18 〔1030〕
斎藤宇一の親父の機嫌が直り、また屋敷を修行場として貸してもらえることになった。霊をかけて火鉢を動かしたり、机を宙に上げたり土瓶を廻したりなど、霊学の研究に面白く没頭していた。
多田琴や石田小末の憑霊は、京都大阪に出てこれを見世物として興行すれば、金儲けと神様のお道の宣伝と一石二鳥だと喜楽を急き立てる。
喜楽はそんな芸をして見せるのは神様に対して申しわけないと思っていたが、しきりに勧められるので、それで神様のお道が開けるのであれば、と決心して産土神社に参って伺ってみた。
すると自分の腹の中から馬鹿と怒鳴りつけられ、そんなことをしたら凶党界に落としてやるぞ、と戒められ、この計画は取りやめになった。
あるとき多田琴は、園部藩主の指南番であった奥野操と名乗る武士の憑霊があり、荒んで喜楽の鎮魂も効かなくなった。そこで産土の社へかけつけて祈願をこらしていた。
すると石田小末が、武士の霊が鎮まったと告げに来た。行ってみると、奥野操と名乗る武士の霊は、死後自分を誰も弔うことなく迷っているので、祀ってくれれば神の座に直り、教えを守護すると約束した。
そして自分の墓を探し当てたら、その石塔を動かして知らせると告げた。喜楽は霊が教えたお寺や、武士の家来の子孫の家という宅を訪ねてみた。武士の名前はわからなかったが、戒名は的中していたので墓を探し当てたが、石塔はいつまで待っても動かない。
霊眼で調べてみると、石塔の浦に大きな古狸が見えた。喜楽は怒って修行場に帰り、多田琴の憑霊を詰問して霊縛をかけたが、逆に座敷中を飛び回る。喜楽はどうぞお鎮まりください、と頭を下げて優しく出た。
すると神がかりは大口を開けて大笑いし、実は自分は松岡であり、審神の修行をさせてやったのだ、と腹をかかえて笑いこけた。
にわかに部屋が死人臭くなってきた。霊眼で見ると、亡者の葬列が障子の細い穴から入ってくるのが見えた。亡者の先頭は、隣のお紋という娘の顔をしている。不快の臭気が室内に漂い、ランプやろうそくの火も次々に消えてしまう。
禊をして天津祝詞を一生懸命奏上すると、怪しい亡者の影は一人、二人と減って逃げ去ってしまった。
するとお紋の母親があわただしくやってきて、娘が病気になり、うわごとで喜楽の名前を呼んでいると言うのでやってきてみると、修行場で臭った不快な熱病のにおいが漂っていた。
喜楽は天津祝詞を唱えて鎮魂を施すと、お紋は『のきます のきます』と言って門口の方へ二三歩歩きだし、その場に倒れてしまった。それから病気はすっかり治ってしまった。
次郎松はいよいよ喜楽は飯綱使いだと口を極めてののしりまわった。
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03 19 〔1031〕
ふと新聞の広告を見ると、壮士俳優募集と出ていた。自分はそれを見つめていると、多田琴が神がかりになって、霊術を応用して役者になれば名優にしてやろうと強制的に問いかけた。
自分は役者になってみたいものだと思っていたから、一も二もなく喜んで承諾した。しかし入会料として十円を取られた後、臀部に大きな腫物ができてうずいてたまらず、芝居どころではない。
腹の中から松岡神が出てきて、役者になりたそうにしていたから改心のために戒めたのだ、と笑う。丹波に帰ろうとすると腫物は嘘のように治ってしまい、それ以来俳優になってみたいという心はすっかり消え失せ、一心不乱に神界の御用に尽くすことになった。
穴太の斎藤某という口やかましい家の息子を直してやったらい、村の者も気が付いて信仰するだろうと思い、訪ねてみた。しかし追い返されてとぼとぼ帰ってきたところ、今度は次郎松が一人娘が狐つきになってしまったと泣きついてきた。
行ってみると、次郎松も次郎松の老母も、彼らが喜楽に敵対して悪口を触れ回るものだから、腹いせのために娘に狐をつけたのだと思い込んでいる。喜楽は口を極めて二人に霊学の説明をしたが、まったく聞いてくれない。
仕方なく娘についていた狐を祓うと、またしても次郎松は、よくも大事な娘に狐をつけてくれたとあべこべに罵詈雑言をなす始末であった。
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03 20 〔1032〕
話は少しさかのぼって、明治三十一年の四月三日、神武天皇祭の日に、喜楽は早朝から神殿を清めて修行者と共に祭典を行っていた。そこへ、飄然として五十余りの男が訪ねてきた。
男は紀州の出身で三矢喜右衛門と名乗り、静岡県富士見村の月見里稲荷講社の者だという。巡回のおりにここの噂を聞きつけ、総本部の長沢総理に伺ったところ、因縁のある者だから調べてこい、と言われたという。
喜楽は高熊山の修行以来、霊学の問題の解決に精神を集中していたが、身内から村中の者まで、悪罵嘲笑の的となりなんとかして人々の目を覚まさねばらなぬと思っていた。
そうしたところ、長沢総理が霊学の大先生だと聞いて、光明を見出し、旅費を工面して生まれて初めて京都から汽車にのり、静岡の長沢先生宅に到着した。
そのころ長沢先生はまだ四十歳の元気盛りであった。霊学上の話や本田親徳翁の来歴など立て続けにしゃべりたて、その日は自分の住所氏名を告げただけで終わってしまった。
長沢先生の御母堂の豊子刀自は、本田親徳翁の予言した丹波からの修行者はお前さまのことだろう、と本田翁が遺したという鎮魂の玉、天然笛、神伝秘書の巻物を渡してくれた。
翌日は喜楽は自分の神がかりに至ったいきさつを長沢先生に詳細に物語り、その結果、先生が審神者となって幽斎式を執り行うことになった。その結果、疑うかたなく小松林命の御神懸ということが明らかになり、鎮魂帰神の二科高等得業を証す、という免状もいただいた。
喜楽はこれまで、数多の人に発狂者だ、山子だ、狐つきだとけなされてきたので、高等神懸だと判定され、長沢先生こそ大なる力となるべき方だと打ち喜び、直ちに入門することとなった。
それより一週間ばかり世話になり、ようやく穴太の自宅に帰ることを得た。三矢喜右衛門も一緒についてきたが、園部の下司熊吉と結託して、喜楽に対していろいろと反抗運動をなすにいたった。
下司熊は、斎藤宇一の叔母にあたる修行者の斎藤静子を妻とし、一派を立てようとしていた。しかし下司熊は腹心の財産を使いこんでおり、喜楽は斎藤宇一に頼まれて、所有している牛を売って弁済することになった。
しかし下司熊は芝居を打って、喜楽の牛を売った金をほとんど懐に入れてしまった。
その後、下司熊は石清水というところで村の神官と示し合わせて、観音像を埋めておき、お告げの振りをして像を掘り出した。それをご神体として信者を集めて一時は人気を集めていたが、警察に目をつけられてしまいはやらなくなってしまった。
そこで下司熊は再び園部に舞い戻って博徒となっていたが、病気になって夭折してしまった。
弟の由松は、下司熊に牛の代金をだまし取られたことを怒り、そんなことも知らすことのできない腰抜け神だと祭壇をひっくり返して暴れまわった。
喜楽は今後のことを伺うために産土の社に参拝したところ、神勅を受けた。小松林命曰く、一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組みで待っている人がいるから、速やかに園部方面に行け、と大きな声で決めつけられた。
それより喜楽は故郷を離れることを決意したのである。
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04 00 - 本文
04 21 〔1033〕
旧歴六月の暑い盛りに、祖母や修行者たちに別れを告げて穴太をはなれ、一人北へと進んで行った。
南桑田船井郡の境界に、虎天関という大井川の清流を引いた有名な水路がある。この傍らに茶店が建っていた。
喜楽が茶店に立ち寄って休息していると、茶店の女主人が喜楽の異様な風体を見て声をかけてきた。女主人の母親は綾部で金光教を信仰していたが、艮の金神様が懸り、神様の身上を見分けてくれる人は東から来る、とお告げがあったという。
茶店の夫婦は、そのために東から来る人を探してここに店を開いていたのだという。
喜楽は綾部の金神様の書いたという筆先を見せてもらい、その内容が高熊山修行で霊眼にて見聞したことと符合していたことに驚き、近いうちに綾部に参上することを茶店の女主人に約束した。
旧八月二十三日に初めて綾部の裏町の教祖宅を訪問し、二三日滞在していたが、金光教の教会教師ら幹部に反対運動をされ、教祖に別れを告げて園部に戻り、宣伝を行っていた。園部では熱心な信者がたくさん集まり、立派な布教所を建てる話がまとまりつつあった。
そんなときに、綾部の出口教祖のお使いとして、四方平蔵氏が訪ねてきた。四方氏によると、幹部たちには内密で、教祖たっての相談で四方氏が派遣されてきたのだという。
そこで喜楽は、敵の中に飛び込む覚悟で綾部に行くことを承諾した。その夜、往復八里の道を穴太に帰って祖母や母に綾部行の報告をなし、産土の大神に祈願をこらして夜が明ける前に園部に帰ってきた。
四方氏と綾部への途上の旅で宿泊した宿にて、天気の予報や四方氏の実家の透視を行って見せた。四方氏にも霊学を理解してもらうために、天眼通を授けた。道々、病気伺いなど霊学の実地を見せると、四方氏はその効験に感心し、教祖の神様を見分けてくれる立派な先生を迎えることができる、と喜んだ。
教祖宅を訪ねると、すでに教祖の熱心な信者が詰めていて歓迎された。金光教の足立氏らは妨害を加えたが、教祖や四方氏らの勢いが猛烈なので、我を折って教祖の命に服従することになった。
艮の金神の金の字をとり、日と月の大神様の名を合わせて、金明会という団体を組織した。四方氏は天眼通を振り回して非常な人気となった。また、四方氏がたったの一回霊学を教わっただけであれだけの神徳をいただいたのだからと、修行者の志願が二十人あまりも出てきた。
金光教の足立氏はあくまでも金光教に拠って反対運動をしていたが、一人も信者が行かなくなり、窮地に陥って金明会に白旗を振って入会を申し出てきた。金明会の役員たちは反対したが、喜楽は足立氏の立場を慮り、役員たちに頼んで副会長として迎え入れた。
金光教と金明会の問題も、和合のうちに解決し、神様の御用に尽くすことを得たのであった。
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04 22 〔1034〕
園部での布教時代にひとつの珍話がある。北桑田方面に布教を試みようと、五箇荘村の手前の村にさしかかったところ、たそがれ時になり、宿を探そうと思ったが、懐には二十銭しかない。
野宿を覚悟で足を引きずって行くと、二三人の村人と道連れになった。話は自然、病気や憑き物のことに移って行った。
村には小林貞三という親爺がいて、十五六年前から不思議な憑き物で困っているという。腹の中から大きな声が出て立派な神様だと自称し、それにしたがって相場を張って身上を大方なくしてしまい、今は駄菓子やボロ材木を商って暮らしているという。
喜楽はそこを今夜の宿と定めてその家の店先を訪れた。喜楽は駄菓子を買って親爺との話をつなぎ、憑き物の相談を受けることになった。その夜は鎮魂帰神を実施することになった。
夕飯後、喜楽が審神者となって法を施すと、親爺についていた霊は激しく発動し、青い鼻汁を盛んに出し始めた。喜楽が名を訪ねると、鞍馬山の大僧坊だと名乗ったが、問い詰めると親爺の身体を宙に浮かせて、審神者の頭の上をかけりだし、目玉を足蹴にしようと狙っている。
喜楽は組んだ手を解いて右の人差し指に霊をかけ、親爺の身体をクルクルと回して荒療治を行った。これに憑霊は観念して、正体を白状し始めた。
霊は、この親爺の叔父であったという。十四五年前に、この親爺が悪辣な手段で叔父の財産を横領したため、叔父は怒りのあまり精神に隙ができ、野天狗に憑かれて山奥で自殺してしまったのだという。
叔父の霊は悔しさのあまり、この親爺が酒に酔って道端に倒れていたところを野天狗と一緒に憑依し、憑神のふりをして相場に手を出させ、親爺を零落させてしまったのだという。
そして、最後に何とか命を取ることを狙っていたところ、審神者に看破されたのだと明かした。
親爺は叔父の霊を手厚く葬ることを約束したので、霊はいったんは退散した。しかし退散は表向きで、やはり親爺の身体に潜んで時々妙なことをやらかすのであった。
この小林という爺さんは明治四十五年ごろに大本に訪ねてきたことがある。今は家も何も売ってしまい、大阪方面に出稼ぎに行ったということである。
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04 23 〔1035〕
小林貞蔵氏の宅で四五日ばかり滞在し、村中の老若男女が信者になった。信者たちからお礼をいただき、北桑田へ渡ろうと海老坂峠にさしかかった。そこで日暮れになり、坂道の途中にある古寺の地蔵堂で横になり、眠りについてしまった。
夜中に坊主に怒鳴りつけられ、出て行くようにと言われたが、神も仏も元は一株だからと一夜の宿を乞うと、坊主はなかなかものの分かったことを言うと感心し、庫裏に招いてくれた。
話してみると奇遇にも、この坊主は喜楽の伯母の兄の子で、子供のころに四五回遊んだこともある人見与三郎という男であることが判明した。
与三郎と喜楽はすっかり打ち解けて、ここに四五日逗留したのち、再開を約して出立した。安懸という田舎の村では、井戸堀人足たちが生き埋めになる事故に遭遇し、とっさに神勅によって指示を出して人足たちを救うという経験もした。
この村は船岡の妙霊教会の信者が多くいたが、そこは喜楽の伯父が教導職であったため、そこでの布教はせずに園部へ帰ってきた。それ以降、この村の人々は妙霊教会への参拝の途次に、園部に立ち寄ってくれる者がたくさんあった。また、小林貞蔵氏も信者を連れて園部に来ていた。
人見与三郎は大正六年ごろ大本に来ていたが、その後再び乞われて元の地蔵堂に帰ってしまった。
明治三十二年ごろ、船井郡紀伊の庄村木崎の森田民という婆さんに稲荷が乗り移ってたくさん参拝者があるというので、信者に紛れて調べにいったことがある。
婆さんは狐の焼き物に向かって神占をなし、信者たちに判じ物の答えを与えていた。婆さんは喜楽が霊学の先生だと見破り、狐の神様が先生に頼んで教導職を授けてもらうように言っている、と告げた。
聞けば、もともと百姓をしていたときに無実の罪で狐の親子三匹を殺し、狐の霊に悩まされるようになった。そこで狐の霊に談判をし、神様に祀るから赦してくれと頼んだところ、世間の仕事を辞めて人助けをするなら赦してやる、という条件で今のような境遇になったのだという。
喜楽は婆さんに自分のことを判じてくれと頼んだ。すると婆さんの狐の神様が言うことには、今、園部で信者たちが先生としてかつごうとしているが、喜楽が納まるべきところはここから七里ほど西北であり、一月後に迎えがくる、また嫁もちゃんと決まっている、とのことであった。
園部に帰ってみると、田植えが終わったころに再度迎えに行く、という四方氏の手紙がきていたのである。
本文
04 24 〔1036〕
金光教の土田雄弘、福島寅之助らは依然金明会に対して反対運動をしていたが、霊学の現場を見て霊感者となってしまった。しかし綾部の修行場も狭くなり、参拝者もたくさんあって思うような稽古もできず、鷹巣の四方平蔵氏宅に修行場を移した。
しかしここも幽斎の発動が激しく苦情が出始めたので、上谷の四方伊左衛門氏の宅に移転した。結果は良好で、二三人の不成功者を出しただけであとは残らず神人感合の境地に到達した。
そこで喜楽は四方平蔵氏を伴って、清水の長沢雄楯先生に報告に上がった。四方氏は霊学の説明を受けてその趣旨を悟るようになり、二昼夜滞在の上別れを告げて綾部に戻った。
帰途、四方氏は京都で汽車に引きずられそうになったり、蛸に当たったり、人力車の車輪がはずれたりなど、あわや大事故という目に一日に三度まであったが、無事であった。
四方氏の信仰の力と大神様のおかげで九分九厘のところを助けられたのは、氏が一心に神様に仕えていたおかげである。
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04 25 〔1037〕
綾部への帰途、喜楽は四方氏とともに土田氏宅を訪ねていた。そこへ土田氏の従弟の南部という男が危篤だという電報が届いた。喜楽は土田氏に頼まれて神界に伺ってみたところ、一週間の命だという。
土田氏によると、南部は金光教の布教師をつとめていたが、身が定まらない男で、行く先々で婦女関連で失敗し、破門されて妹のところで厄介になっていたのだという。
喜楽は、神様に願って三年命を長らえてもらうようにし、その代わりにその間の行状を見届けた上で、その後の寿命を定めることとした。土田氏はその旨を京都の南部の妹宅に書いて送った。
はたして、南部は一週間後に息が絶えたが吹き返し、次第に快方に向かった。土田は京都に行って南部に面会した際、南部が回復したのは綾部に現れた金神様のおかげだと改心を説いたが、南部は土田の言うことはまったく聞かず、自分の回復は金光教のおかげだと吹聴して歩いた。
すると二三か月して南部氏はまた体調がすぐれなくなって重体になってしまった。土田氏は今度は、綾部に向かって祈れ、としか返事を出さなかった。
南部の母と妹は困ったときの神頼みでやむなく綾部に向かって祈願したところ、冬にもかかわらず大きなアブが入ってきて、病床の南部氏の頭の上を三回まわった。
すると南部氏は腹部にたまっていた汚いものを排泄し、それから日を追って快方に向かうこととなった。これが南部氏が大本に入信した動機であった。
喜楽と四方平蔵氏が綾部に帰ってくると、上谷の修行場には邪神が襲来しており、福島寅之助、村上房之助、野崎篤三郎らの神主は大乱脈となり、近郷近在を駆け回って大本の悪口を触れ回っていた。
福島は大音声で、自分こそが真の艮の金神だと怒鳴りたてている。この発動騒ぎに田舎人が珍しがって、毎日四方八方から弁当もちで見物に来る有様であった。喜楽は一生懸命に鎮圧に力を尽くし、ようやく審神者の特権で邪神を鎮めることができた。
足立正信氏は神懸に疑念を抱いていたので、これを機に再び反対運動を始め、金明会の仲は混乱し始めてきた。幸い、四方平蔵氏、四方藤太郎氏らの熱心な調停で、やや反対運動も小康を得た。
福島寅之助氏は正直者と評判を取っていたが、叛旗を掲げたのであった。人間としては申し分ない心がけのよい人であるが、悪魔・妖魅は世人に信用のある善良な人間を選んでうつりたがるのである。
それゆえ、神懸の修行をする者は、よほど胆力があり知恵が働く人でないと、失敗を招くのである。良き実を結ぶ木には害虫がわきやすく、美しい花の咲くものにはかえって虫がつきやすい。正直だから、善人だから悪神がつくはずがないと思うのは、大変な考え違いなのである。
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天上世界にも東西南北の方位がある。愛の善徳をそなえた天人は東西に住む。東方は明瞭に、西方はおぼろげに愛を感じる。
愛の徳から証覚を得た天人は南北に住む。南方は明瞭に証覚を具えた天人が住み、北方はおぼろげに証覚を備えた天人が住む。
主神がいます霊国にある天人と、天国にある天人はみな共に、この順序を守っている。主の霊国は愛の徳である。この徳に依って真光にしたがう度合いにより、天人おのおのに相違があるのである。
天の御国における愛は、主神に対する愛である。ここから来る真光は、無上の証覚である。霊国所在の真愛は、公共に対する愛である。これを仁愛(みろく)と称えるのである。
仁愛の真の光明は、神に基づく知恵である。この知恵を、信というのである。
主神が統轄なし給う高天原の天界は、二つに分かれている。主神のまします天界を霊の国と呼ぶ。天人たちが住居する世界は、天国である。
天国の天人は主神を太陽と打ち仰ぎ、霊国の天人は主神を月と打ち仰ぐ。主神が顕現し給うところは、東である。
このように、天国では太陽、霊国では月と現れ給うのは、愛と信とを摂受する度合いが異なるためである。愛の善徳は火に応じ、信は光明に応じる。霊国と天国が二つに分かれるゆえんである。
天人が現界の太陽と月を見ると、暗く見える。なぜなら、地上における火熱は自愛に相応し、光明はその自愛から招く虚偽に相当するからである。
自愛は、主神の愛とまったく相反する。そして自愛から生じる虚偽は、主神が有する神真と正反対なのである。
主神が具える神愛神真に逆らうものは、天人の眼には暗く映るのである。天国にある天人は主の神を太陽のように打ち仰ぎ、霊国の天人は月のように打ち仰ぐ。
地獄の世界にあるものは、自己と世界のみを愛し、神に逆らうために暗黒迷妄のうちに居り、神に背き主神を後方に捨てておく。これらを鬼霊精霊と称え、地獄の鬼というのである。
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