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文献名1暁の烏
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3(三)神罰と御気付よみ(新仮名遣い)
著者井上留五郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ161 目次メモ
OBC B116500c113
本文のヒット件数全 1 件/教祖=1
本文の文字数4028
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本文  吾々の信仰は、神様を畏み敬うという程度以上、神様を愛するという真信仰の域に進まねばなりませぬ。霊界物語真善美愛、卯の巻(第五十二巻)真と偽の章下に
「高天原に在って大神を愛し奉るという事は、人格の上からみて、大神を愛するの謂いではない、大神より来る所の善そのものを愛するの意義である。また善を愛するという事は、その善に志し、その善を行うや、みな愛によってなすの意味である。故に愛を離れたる善は決して如何なる美事といえども、善行といえども、みな地獄の善にしていわゆる悪である。地獄界において善となす所のものは、高天原においてはたいてい悪となる。高天原において悪となす所のものは、すべて地獄界にはこれを善とさるるのである。云々」
と説示されてありまして、愛善を体得し信真の域に進むには、神罰なるものの真意義を諒解しておくことは、一つの肝要事であります。
 神罰という言葉は一般に濫用されがちでありますが、仁慈無限の大神様が、その珍の御子であるところの人間に対し、神罰の降下は容易にあるものでないということは、既に詳しく説示を受けているところであります。普通、神罰と称する出来事は、主として
甲、 不正邪悪の人、即ち地獄界に籍を置ける場合。
乙、 それまでにはなくとも神の道に暗く、身魂に曇りを来たし、いわゆる中有界に籍を置ける場合。
丙、 正しく善良にして天国に籍を置ける人であっても、ちょっとした不注意から身魂の衰耗または虚隙を生ぜる場合。
に来る災禍的異変を指したものであります。甲の場合においては、全く神に背き内面常に暗黒にして、相応するところのものはみな地獄的精霊のみであるから、種々な異変の来ることあるのは当然であります。乙の場合においては、ある時は神に向かい、ある時は神に背き、神格の内流はなはだ不充分であって、常に身魂に暗影の箇所が多いから、悪霊に乗ぜられ或いは外界の刺戟に作用されて種々なる病気が起こるのであります。丙の場合においては、神光の調和不充分となり、そのはなはだしき時は暫時間といえども神格の内流をさえぎるから、心に虚隙を生じて疾病その他邪霊に憑依さるるのであります。「抜刀の中におるようの精神でないと、油断がありたら、悪の霊がこの中に立ち寄る人民に憑りて云々」との神示がますます痛感さるる次第であります。
 かく追究してみると、神罰と称する現象はみな自ら招ける災禍であって、哲理上より云うところの悪因悪果であります。即ち神罰の真の意義は、心罰則身罰であります。その上身魂の因縁、積み来れる罪穢について思い及ぼせば、神様に対し奉りて夢にも不足小言は云われないわけであります。
 また昔から、天の為せる禍いと云う言がありまして、ことに天変地災に対して用いらるるところであるが、この天の意義を誤解してはなりませぬ。本来天即ち主の神様が為さるのではなく、天の定め給うた道に背くからその結果として、大なる悪因は大なる悪果として来るのであります。これすらも大神様は大難を小難に小難は無くするようにと、常に大御心を配らせ給いつつあるのであります。
 神罰と云うことについては、常にこの根本義を忘れてはなりませぬ。
 また大本信者の常套語となりておる御気付と云うことも、ヤハリ不注意より来るいわゆる悪因悪果の現象であるのは無論でありますが、吾々は自分がこれに遭遇した時はもちろん、たとえ他人の身の上に来たりし御気付についても、常に自分のこととして深く反省し遷善改過に努めねばなりませぬ。さすれば神示の如く、人の批評どころか黙っていて改心が出来るのであります。霊界物語第四巻至仁至愛の章下に
「神は洽く宇宙万有一切をして美わしき神国に安住せしめ、勇んで神界経綸の大業に奉仕せしめんとし、昼夜の分ちなく苦心焦慮す。汝神人ら、神の心を心とし万有一切に対し、至仁至愛の真心をもってこれに臨み、かつ忍耐に忍耐を重ね、克く神人たるの資格を保全せよ」
「神の慈愛は敵味方の区別なく、正邪理非を問わず広く愛護す」
と国祖大神は宣示し給うのであります。
 また神の国第五十一号、教祖伝(七-八頁)のうちに、開祖様の左のご訓示があります。
「神は罰を当てんぞ」
「みんな神が罰をあてると思いなはるけいど、神の所業じゃおざへんでー、みな自分の罪業がめぐって来るのどすぜー。実は神様がその罪障を背負いなして、大難を小難に祭り替えてやろうと云われるのどすけいど、敵対うているうちは、しょうがござへんでなア」
附記
   罪悪に対する天国及び地獄の律法
 天国では、罪を祓い清めてなるべく罪悪者を作らぬように、神律が行われているのであります。
 地獄の規則とは、罪を罪として罰するのであって、神政の完成に伴い次第に軽減され、後には無くなるのであります。この映写として現界においても、法律の徳化論が高唱さるるようになったのは、誠に喜ぶべきことであります。
 このことは小天地たる人間の個体について考えてみれば、よく判るのであります。人が過食した場合あるいは毒物を食した時には、下痢嘔吐を起こしてこれを祓い清むるに努めるのであります。また黴菌などが体中に這入ると、これを殲滅せんがために発熱等の症状が起こります。この嘔吐、下痢、発熱等は病気であっていわゆる神罰に相当するのであります。しかし精霊即ち本守護神の本意ではないのであるが、かくせねば大難として身を亡ぼし、或いは大障害を来たすからであります。常に過食せぬよう、毒を摂らぬよう、黴菌に犯されざるよう万事に注意するのが天国の神律であって、嘔吐、下痢、熱等の方法により駆除につとむるのが地獄の規則であります。(しかし現界においては今のところ地獄の規則も必要であります)
 霊界物語真善美愛卯の巻(第五十二巻)第九章黄泉帰のうちに
「前にも述べたる如く、神は宇宙を一個の人格者と見なしてこれを統制し給うが故に、いかなる悪人といえども、一個人の身体の一部である。何ほど汚穢しい所でも、そこに痛みを生じ或いは腫物などが出来た時は、その一個人たる人間は種々の方法を尽してこれを癒さん事を願うように、神は地獄界に落ち行く、即ち吾が肉体の一部分に発生する腫物や痛み所を癒さんと焦慮し給うは当然である。これをもっても神がいかに人間を始め宇宙一切を吾が身の如くにして愛し給うかが判明するであろう。惟神霊幸倍坐世」
と説示してあります。吾々はこの大御心を奉戴して、愛善の徳を積まねばなりませぬ。
 人類愛善会第一回総会(大正十五年四月十八日)の時の聖師様のお訓示を左に摘録しておきます。
「前略……天国の神の世界には愛と善とよりほかにはない。愛は即ち善であり善は即ち愛である。神の愛善はどういうものであるかというと、総ての脅喝的ー今の既成宗教のように、戒律とかいうもので脅喝しない。今は戒律で人間を怖がらし、天国とか地獄とかを拵え、善を為せば天国へ行く、悪を為せば冥官が厳めしい顔をして裁くというように、今の教えは脅喝的に出来ている。(記者曰く、霊界は想念の世界であるから天国とか地獄とかはあるにはあるが、それはみな自分の心から出現して来るのであります。この真諦を誤ってはなりませぬ)しかし神には脅喝というものはない。ただ愛する一方です。泥棒のようなものでも、またどんな悪人でも、こちらから親切にしむけて行くと、その人は恩を覚えており、どんな善人でもあまりこちらから強う行くと恨んで来る。しかしそれはお互いに同じ人間の事であるが、神の愛というと、敵でも何でも本当に心の中から憎いという心が起こって来ない。そこが本当に純なる神の愛なのです。……神は善人であるから愛するとか、悪人であるから罰するというような事はない。総て愛と善とで向かわれる。この愛と善とを取ってしまったならば、神の神格というものが無くなる。人間も愛と善とが無かったら人間でない。形は人間でも矢張り獣になってしまう。神様もその通りであります。……一体、人類愛善というものは、神の聖霊に充たされたところの予言者、或いは伝達者に類するところの人の心になり、そうして愛善を行う。善人だから愛する、悪人だから憎むというような事ならば、それは本当の愛ではないのであります。愛という事になって来れば、善悪正邪の判断がつかないものである。つくものならば愛というものは、千里ほど向こうに行ってしまっている。また神様が罰するとか戒めるとかいうような事があれば、神そのもののご神格というものは、千里ほど向こうに脱出してしまっているのである。この世の中は愛と善とで固まっている世の中でありますから、何事も総て愛善の神様に任して、そうして取り越し苦労をしないよう、過ぎこし苦労をしないよう、──過ぎこし苦労というものは、済んでしまってからの事である。あいつはああいう事を言いよったとか、あいつの讐をとらんならんとか、ああせなんだら今まで大分財産も出来ておったのに、というような事で、また取り越し苦労をして、明日の事を、明日はどうしようかと考えておっても仕方がない。千里の路を行くのにも、左の足から右の足という風に出して行けばよい。行くところは東京なら東京と決めておいて、一足一足を注意して行く。積極的刹那心をもって進んで行く。そうすれば、影が形に伴う如く、愛善の心が起こって来る。取り越し苦労と過ぎ越し苦労を忘れて来たら、一切の欲も起こって来ぬ。怨恨も忘れて来る。また妙な欲望もなくなる。大本の方から云うと、それが惟神の精神である。……また自分が愛善をやっているとか、自分が善をやっているとかいうような時には、自己愛がその中に入っておって、本当の愛善になっておらない。世のため社会のためとみな考えておりますが、その考えがある間はなっておらぬ。すべて何もかも無になってしまう。無になった時に愛善が身体に入って来る云々」(大正十五年五月一日号 人類愛善新聞参照)
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