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文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名36 わたしのことよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c08
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本文  わたしの思い出にあります。その頃の家は長い貧乏でひどくいたんでおりました。屋根には大きな穴があいておりました。
 雨の降る日には雨が流れるように洩れました。雨の降るたびに家の中の土間がだんだん掘れて、いつかそこに小池ができるようになりました。
 あの凡帳面な母にとりまして、それはどれだけ気がかりでご苦痛なことであったことかと思いますが、それを修理なさるゆとりもなく、そのままにされなければなりませんでした。
 そのようなことも分別ないいとけない私は、雨が降ると家の中に池ができたと言って嬉しがり、早速に尻をはし折り裸足になって、ビチャビチャとその中を歩き廻ってこころ勇んでおりました。雨の降る日には、また家の前の小溝──それはほら、ずっと後まで石のお宮さんの前にありました狭い溝っこ──あすこに西門のあった辺りから水が流れて来まして、その流れにどこかの田から落ちて来たのでしょう、小魚がくだってきました。私はすぐ上の姉のおりょうさんを呼んで、二人で前の溝にせきを作り、魚つかみをしました。そうしてピチピチする魚をつかんで、家の中の土間にできた小池に放して泳がせました。これが幼ない頃の私の楽しい遊びでありました。
 メダカは幾匹も入れました。モロコも入れました。時には鮒子や鯉子やと言って少し大きな魚も入れました。魚がはねたり、ゆうゆうと泳ぐのをどんなに楽しんで見たことでしょう。
 それから子供のころ誰でもいちばん楽しいのは、産土さんのお祭りと、お正月でありましょう。綾部の町でもお正月がくると、隣り近所の女の子はみんな綺麗な羽子板で羽根をついて遊びました。私は家が貧しくて羽子板など買ってもらえんので、家にあった何かの板切れを鎌でカンカン削って羽子板の形に作り、それから青野の二の宮さんの庭に無患子の樹のあったのを思いつき、二の宮さんに走ってゆき、神社の庭の無患子の実をひろってきて、それに鶏の羽根をくっつけて、自分でなにもかも作り、それでみんなと同じように夢中になって羽根をつきました。
 私のつくったのはそれは不細工なものやったと思いますが、他の子がどんな綺麗な羽子板で遊んでいようと、けなるいとも思わず、ひがむことも知らず、ただもう羽根をつくことが楽しくて、遊びほうけていたのです。

 母さんが朝早く商売に出掛けられますと、私とおりょうさんは家の格子に体を寄せてじっと外を見ていたものです。そんな時、学校のはじまる前の朝のひとときを、私の家の前を学校に行く子供がゾロゾロと出掛けて来ました。それを見ているとなんとなく急に悪戯がしてみたくなってきました。私の性来の権兵衛で何んということなしに悪戯がしてみたくなってくるのです。私はトットッと表に走って出ると、通学の子供たちの前に立ちはだかり、両手をパッとひろげると「ここはうちの家の前や、よう通さんぞ」と<八方>をしてきめつけました。子供たちが右に廻ろうとすれば右に廻り、左からぬけようとすれば左につめよるので、子供たちはどうにも困って、すごすごと引返してしまいました。次の日も同じように格子の間からのぞいていますと、子供たちは私の家の下から遠く西門のあった方を廻ってゾロゾロと行きます。これは遠廻りをしているぞと、坂をタッタッタッとかけ上がって、こらっ、と両手をひろげてとおせんぼうをしました。今から考えてみますと、私は六、七才の頃で、その子供たちはみんな私よりは年上の子ばかりです。中にはずっと大きい子も混っていました。その子供たちが又トボトボと引きかえして行きますと、こんどは親をつれて出て来ました。「おすみさんや、済まんけどよ、どうぞうちの子を通してやっとくれ」と親たちから言われると、私も「はい」と言ってうなずき、家の中に這入りました。しかし次の朝になるとまたとおせんぼうをし、朝々をしばらくこんな権兵衛がつづきました。
 そんなことがあって私は、とにかくチビのくせにどえらい権兵衛というので“新宮の男八兵衛”と言う名をつけられて通っていました。私が綾部の街を歩いていますと、「そら新宮の男八兵衛が来た」「喧嘩八兵衛のおすみさんが通る」と言うて騒がれ、大人たちまでも表に出て来て「なんした罪のない可愛いい児やいな」言うて「おすみさん喧嘩してゆきい、おすみさん喧嘩して泣かしてやり」と面白がって私をおだてていました。
 私はおだてられているのも知らず、いい気になって「よし来た」と言っては、男の子でも誰でもかまわず組みついてゆくので、大人たちは「おすみさん敗けるな、もっとやれ」と言って囃したて、私は調子にのって権太をするのでした。
 男の子など相手に喧嘩するときは、パッと小石でも砂でもつかんで、こまのように素早く、投げるので、「こらかなわん」と言って逃げて行きました。袂の中に小石を入れて歩き、袂の横からパーンとぶっつけるので、十五、六の男の子でも私をおそれ、数人の男の子と一度に争って勝鬨をあげたこともありました。しかしあるとき反対に十五、六人の男の子に追いまくられ、背戸まで逃げて来て中へ入ろうとしたとたんに、スッテンドウとつんのめって、体は半分背戸の中、足は外へ出たまま背戸を閉められて、大したしくじりをしたこともありました。
 またある時、投げられた石が、まが悪く私の後頭にカツンと当りまして、それでもやっと逃げのびてヤレヤレと思うと、何やら着物のうしろが冷たいのです。腰の辺もどうも冷たくて変だと思い桑畑の中に入り着物を脱いで見て驚きました。着物の背のところが真赤に染まっていて、不思議に思って頭に手をやってみると、さっきコツンと投げつけられた石で大怪我をしていることが判かりました。今思いかえしてみましても、あれだけの怪我でよく帰れたと、ゾッとします。
 家に帰ると、すぐに母に分かってしまいました。母は私のその姿を見るなりびっくりされ「こちらが悪いのだから文句も言えないが、ひどいことをされたなア」、「しかしこの着物、対手の親に見せてやりたい」と、あのつつましい母に似ず、きつく申されたことを憶えています。
 その他、私の幼少の頃は口に出すのも恥ずかしいような手に負えない悪童振りで、トミさんと言う男盲が三味線をもって門付けなどをしておりましたが、ある時トミさんが向こうから来るので、「おりょうさん、ちょっときてんか」と、おとなしいおりょうさんの嫌がるのを無理に呼び出し、片方の縄の端を持たせてジッと息をこらして待ちかまえました。トミさんはそれとは知らずに、縄にひっかかり足をすくわれて倒れ、私は手を叩いて笑いこけ、トミさんは大声で「大方こんなことをするのは新宮の男八兵衛やろう」とわめきながら行ってしまう。私がなおも、そっと後をつけて行くと知り合いの家に寄り「新宮の政五郎さんとこの男八兵衛の奴が、わしを縄でひっくり返しやがって、しようがないのや」と言うて、ブツブツぼやいています。私はそれを聞くとまたその後ろにソッとしのび寄ってトミさんの丁髷をサッとつかんで逃げる。さあ怒るわおこるわ、こんどは杖を振り廻しておっかけて来ました。
 私はこんな悪戯をしたのに、みんなからは「そやけどあの子の顔を見たら憎めんな」と、人気者になっておりました。
 自分としましてはこの頃はまだ、貧しいうちにも子供としての楽しみがありましたし、その上、夜は仕事から帰られた母さんに抱かれて寝ることが出来ました。はじめは何かと寂しいので権太ばかりしましたが、馴れてくると山に枯木を採りに行ったり、一日じゅう山をかけ歩いて木の実を拾って来て母を喜ばせました。
  つぎつぎと思い出ひろがり幼などき山に柴刈る姿うかびく
  みぞれ雪寒さいとわず山の中ごそごそ廻りて樫の実ひろいし
  樫の実を袋に入れて持ち帰り代用食にいつも食べたり
  わらび蕗たんぽぽ嫁菜りょうぶ芹あさりて幼き日を暮したり
 稲山へ枯木集めに行った時、それはそれは沢山の湿地茸が出ているのを見付け、大きな株のまま家に持ち帰り、おりょうさんと二人で炊いて食べました。その時のなんとも言えない味わいは忘れられないくらいです。
 そんなことを楽しみましたが、あるとき火のついた柴がくどから落ちて傍の藁にもえ移り、火事になりかけ、運良く裏の人が見付け組頭も飛んで来て消しとめてくれたことがありました。その時、組頭の人が「こんな子供に留守番さしとくのは危険なことやし、第一近所迷惑や」と言われ、「あのな、お母さんがもどらはったら、一ペん用があるから直ぐに来てもろてや、忘れんとそう言うといてや」と言って帰りました。
 私は母が帰られると、昼間の自分らのボヤを出したことは言わんと「あのな、お母ちゃん、組頭のおっちゃんがお母さんもどりなはったら直ぐ来てもろておくれいと言うてはったえ」と言いましたので、母は早速に何やろうと思うて行かれましたが、帰られるなり裏の家に行って、「わしはどうしたらええのやろう」と言うて涙声で話していられましたのを憶えております。
 そう言うことがあって、それから私たちは昼間は大槻鹿造の家へ行って母さんの帰られるのを待つことになりました。鹿造の家へ行くといつでも「おゝ、おすみか、ちょっと肩を打てい」と私は小さい手ながらよく鹿造の肩を打たされました。私が肩を打っていると鹿造は「おすみよ、お前は可愛い顔をしているから町家へ嫁にやって、そこから金と酒をせびってくる。おりょうは田舎の百姓家へやって其処からお米や野菜をもらってくる、どうや、ええ思いつきやろう」と、悦に入っていました。それから又「俺の言うことを聞かんと摂州へ年期奉公に出してしまうぞ」「摂州へ行くとな、お前達は小さくて目方が軽いから、米搗きをやらせられる時はな、背中に重い石を負わされて一日米踏みをさせられるんや、豆のめしを喰わされてな」と言うのでおびえたことが、耳の底にこびりついています。
 私はいつでも鹿造が肩を打てと言うと、きさくに打っていましたから鹿造は「おすみ、お前は良い子だから牡馬のきん玉や、馬の角や豆の葉の雑煮をやるぞ」と憎らしいこと言うてからかっていました。
 その頃、西町の大槻鹿造のところに寄ってくるのは妙にばくち打ちのような無頼漢ばかりで、そのうちでもとくに三人で何か相談事をしていました。
 それは大槻鹿造に山家の銀十、位田の儀三郎で、鹿造はつんぼ、銀十は目がほとんど見えない盲同然、位田のギサは片足、これは病気で片足がくさってきた時、自分で鉈を振って股の所からたたき切ったというきつい男で、これら三人が、いつも西町の今盛屋といった鹿造の家の長火鉢を囲んで悪い相談ばかりしておりました。何か他人の弱味を嗅ぎつけては悪因縁をつけ、恐喝するので、綾部の人は若し、三人が満足な体の持主だったらどんなことを仕出かすだろうと、ひそかに恐れていましたが、特に鹿造は因縁をつけるのがうまいので、いん鹿と仇名をつけられていました。
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