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文献名1大地の母
文献名2第9巻「丹波の曙」
文献名3龍宮の乙姫
著者出口和明
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
OBC B138909c01
本文の文字数25286
本文のヒット件数全 4 件/稚姫君命=4
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本文  直一行が沓島へ発った翌五月十五日、龍は北西町の大槻家を訪ね、姉米への用事をすませて帰りかけると、奥の間から鹿蔵が出て来て、懐手したまま睨みつけた。
「おい、お龍、伝吉を明日中に連れ戻せやい」
「そんなこと言うちゃっても、無理ですわな。連絡のしようもない海の無人島じゃし……」
「そんな連絡のつかんとこへ、誰にことわって、わしの大事な息子を連れ出した」
「わたしに言うてもろても知りまへんわな。教祖はんかて、神さまの御用で……」
「何を。婆とお前は親子やないか。知らんちゅうことがあるかい」
「お米姉さんとも伝吉兄さんとも親子ですわな」
「何ぬかす。わしらは因縁から言うたら、敵の間柄や。お前の亭主の慶太郎にでも迎えに行かせい。明日中に連れ帰って伝吉の顔見せなんだら、わしにも覚悟があるぞ。龍門館の奴等にそう伝えとけ」
 龍は鹿蔵に重なる恨みがある。子供の頃に大槻家に預けられた。自分たちはさんざ白い飯を食べていても、幼い澄と龍のひもじさなど思いやってもくれなかった。母直を座敷牢に入れたのも鹿蔵。その母に会いに行って鹿蔵に折檻され、悔しさに死のうとした。母に鎌を差し入れ牢を破り、つかまった時、その鎌で鹿蔵を殺そうとしたことすらあった。出口家の屋敷を鹿蔵に売り払われ、親子姉妹ちりぢりに、母の居所さえも知らずに暮らさねばならなかった。
 それからだって、どれだけ理不尽な言いがかりに苦しめられてきたことか。
 忘れようとしていた長い長い間の恨みが一度によみがえり、龍は鹿蔵をきっと睨み返した。
「そんなに大事な息子なら、柱にくくりつけても止めちゃったらよかったのに。義兄さんが止められなんだものを、わたしらが連れ戻せるものですか。それに、留守の間の養いは渡してあるげな。無理を言うにもほどがあります」
「なんじゃて、あんな端金で養いを渡したつもりか。こいつ、さんざわしに恩を受けとりながら、そんな立派な口がきけた義理か。お前のような犬畜生は殺してやる」
 鹿蔵が怒りにまかせてなぐりかかる。
「お龍、逃げい」
 米の叫びを皆まで聞かず、龍ははだしで飛び出していた。

 その夜の八時頃であった。神経痛でうなっていた王仁三郎がようやくまどろんだと思う頃、激しく蒲団が引きはがされた。はね起きて寝ぼけまなこで見ると、大槻鹿蔵が鉄棒を突き出して、立ちはだかっている。
「おい、会長はん、話がある」
「痛っ、う、うーむ、どんな話や知らんが、寝とる病人叩き起こしてえらい乱暴な挨拶や。話なら母屋へ行こ」
 足を引きずりつつ、渡り廊下を通って七畳半の部屋へ行く。澄に茶を入れさせて、鹿蔵の話を促した。
 俺お前の仲の鹿蔵が切り口上になった。
「会長はん、わしんとこの後継ぎをどこへやってくれたんや。金明霊学会では、会長の命令で他人の息子をどこなと連れ出してもよい規則がござるのか」
「さあ、とにかく沓島を目指したことは確からしいが、それから先のことはわしにも分からん」
 鹿蔵の声が荒れた。
「分からんやと……お前はん、責任ある会長が、知らん顔の半兵衛でわしをあしらうつもりかいや、さあ、どうしてくれる」
「鹿はん、わしが名前だけの会長やちゅうことも、一たん、こうと決め込んだら人の言うことなど聞く教祖はんやないことも、あんたが一番よう知っとるやんか。まあ、お茶でも飲みなはれ」
「そんなことで、茶を濁そうと思うて……」
 鹿蔵はややおとなしくなり、茶受けの沢庵をかじり、澄のいれた茶をすする。
「玉露ほか飲まん口やが、たまに番茶の出ばなもうまいわい」
 やれ、これで収まったかとほっとすると、鹿蔵はやおら声を張り上げた。
「一昨日の晩、お直婆さんは、わしのことを露国身魂の大江山の酒呑童子じゃとぬかしくさった。婆さんは吾一人の力で足らぬので、わが産んだ子をおびき出して、親子腹を合わしてこのわしを呪い殺すつもりじゃろう。道理でわしは頭がくらくらするし、膝ががくがくして急に弱ってきた。もしわしがぽっくり死んだら殺人じゃし、死ないでも殺人未遂じゃ。しかもわしの子をかどわかして行方知れずや。誘拐罪でもかまへん。警察に訴えちゃるがどうじゃ」
 あまりの屁理屈に、王仁三郎はふき出した。
「大槻はん、そら苦しい言いがかりやのう。呪われんでも、あんたかて年が年や、いつぽっくりいくや分からん。それにあんたの大声はみな聞いとるさけ、反対に脅迫罪でやられるで」
 鹿蔵は横を向いて咳込んだ。
 澄の入れかえた茶をすすり、鹿蔵は陣容を立て直す。
「さて、わしがここへ来た本当の要件は、お龍のことやでよ。お龍の奴、わしが息子をとられた悲しさに、ちょっと老いの愚痴をこぼしたと思え。そしたらお龍がどう口を返したと思う。『留守中の養いはたっぷりもろとるくせに……』それも大声で近所中に言いふらしくさった」
「ちょっと待て、大槻はん、わしもお龍さんからそれは聞いとる。ただあんたにちょっと言い返しただけやないか」
「阿呆ぬかせ。わしは自慢やないが若い時から耳が遠い。そのわしの鼓膜が破れんばかりにわめきよった。近所中に聞こえん筈がない。たった一日五合ずつの米代ぐらいで、養いが聞いてあきれるわい。まるでわしがゆすりたかりをしとるみたいや。三合や五合の米代なんか、何ほしかろやい。さあ、龍を出してもらお。返答次第では打ちのめしてやろうと思て、この鉄棒を下げて来たんじゃ。さあ出せ、龍を出せ」
「お龍はんかて生きた人間や。打たれると思って出てくる馬鹿はない。それに相手はたかが弱い女やないか。それも妹相手にいばったかて、大槻鹿蔵の名はあがらんやろ」
「え、なになに……」
 都合が悪くなると、耳に手を寄せ聞こえぬふりをする。さすが因鹿、若い頃の凄味はなくなったが、あの手この手で粘ってくる。
 この調子で居据わられたら、坐っているだけでも大儀な王仁三郎、いい加減神経がまいる。かと行って、義兄を放り出すわけにもいかぬ。その弱みを承知の上、じわじわと持久戦に出るつもりだからたまらない。金をやれば立ち去ることは分かっているが、いったん折れれば際限なくたかってくるのだ。
 また鹿蔵が大声でわめく。
「よし、分かった。ここの奴らは、ぐるになって龍を隠しとるのじゃ。そっちがその気なら、龍を成敗するまで、二十日でも三十日でもここ動かぬわい」
「ともかく大将の留守中やさけ、帰ってくるまで待ってくれや」
「今すぐ、婆を呼び出せ」
「用があるなら、あんたが会いに行ったらどうや」
「え、なになに……」と、耳に手を寄せる。同じことを何度も繰り返す。
 夜半に米が迎えに来て、悪態つきながらようやく帰って行く。

 五月十六日、沓島へ渡島前に舞鶴から発した王仁三郎宛の直の手紙が届いた。「二十日たったら小船を出して迎えにくるように。もし姿が見えねばさらに二十日後に」と。
「ば、ばかな」と王仁三郎は手紙を握りしめる。

 夜ごと鹿蔵は龍門館へ押しかけた。その度に、龍は恐れて隠れ回る。
 王仁三郎ではどうも調子がとれぬらしく、今度は役員たち相手に因縁をつけ始めた。役員たちにしてみれば、七十近い老人だ。しかも教祖の女婿、手荒には扱えぬ。下手に喧嘩を買ってもしはずみに傷でもつければ、博奕宿をしている鹿蔵のこと、落ちぶれたとはいえ恩を売っている若い者の四人や五人はあろう、後の祟りが恐ろしい。
 信仰のためなら警察も軍隊も向こうにまわして恐れぬ役員たちも、ほとほと困り抜いた。
 五月十八日の夕方、龍は向かいの安藤金助に呼び止められた。
「お龍はん、あんた鹿蔵はんに何しちゃったんやいな。横町の風呂屋でみんなに言いふらしとるでよ。『毎晩、大本へ行って責めとるのや。みなが出て来てべんちゃらしくさる。甘い玉露は出しよる。なかなかこわもてにもてて、気持ちがすいすいする。龍が姿を見せるまでは毎晩行っちゃる。この拳固をくらわして、龍の息の根とめちゃる。とにかく、わしが新聞にのるような大事件を起こしたるさかい、楽しみに待っとれ』言うて、どえらい剣幕じゃわな。どんなことしちゃったか知らんが、用心せなあかんでよ」
 怒りで震える両手を握りしめ、龍は帰るなり叫んだ。
「お澄さん、わたし、もう覚悟ができた。殺されてもかまわんさかい、今晩こそ鹿蔵の前にでてはっきり決着つけます」
 澄の眼がきらめいた。
「そうや。ばちっとしばいたろ。うち一人でもやっちゃろと思とったとこや。先生が『穏便に、穏便に……』言うて止めてやさかい舐められる。あっちが鉄棒でなぐる気いなら、こっちはあの手や」
 龍が驚いて聞いた。
「あの手って……何するつもりやいな」
 久し振りに母でも妻でもない喧嘩八兵衛の昔にかえって、澄は生き生きと言った。
「男はなあ、誰でもあそこが弱いんや。ばーんと急所蹴とばすのが一番こたえよるで」
「お澄さん、わたし、鹿蔵となぐり合いするつもりやない。逃げ隠れするのはもういややさかい、はっきり話し合うて決着つけたいだけじゃ」
「そんなことぐらいで納得する鹿蔵やないわな。どっちでもよいけど、先生には言わんときなはれや。すぐ止めてじゃさかい……」
 雨模様のまだ宵のうちから、鹿蔵がやって来た。下の四畳半で、四方平蔵、森津由松相手に、例によってからみ始める。
 二階の神前では、教祖一行が出発して以来、役員が交代して絶えず大望成就を祈っていた。地方の支部でもそれに習った。ちょうど中村竹吉と伏見から移住してきた小島寅吉が祈念している最中であった。
 王仁三郎は、隣室で寝ていた。この頃の不穏な空気に教祖の留守中何かあってはと、わざわざ臥龍亭から床を移していたのだ。
 出口慶太郎と龍夫婦が外から入ってきた。
「義兄さん、おいでなはれ」
 龍はさりげなく挨拶する。
「はい、お帰り」
 物わかりのいい隠居のように、鹿蔵は短く刈った頭を下げ手招きした。龍は素直に前へ坐る。と、鹿蔵は龍の袖をつかんで片膝立て、
「こら、お龍、わしがいつ大本から扶持もろた。さあ、返答せい」
「わたしは、そんなこと言うた覚えはございまへん。伝吉さんの養いをもろてる言うただけですわな。それが悪いのやったら、今夜は逃げも隠れもせえしまへん。ゆっくり話を聞かせてもらいます」
「おのれ、生意気な」
 言いもはてず、鹿蔵は思うさま龍の鼻の下をなぐりつける。ぎゃっと鋭い悲鳴。
 夫慶太郎がとび込んで鹿蔵のこぶしを押え、平蔵が背に組みつき、森津由松が腰にぶら下がる。
 三畳の間で機を織っていた澄が飛び出すなり、小気味よい音を響かせて鹿蔵の頬を平手打ち。なぐられて我を忘れた龍も、こぶしを振るって鹿蔵にとびつく。
「やめい、お前ら……止せ、澄」
 澄独特の表現を借りれば、この時、王仁三郎は「病床からぬたくり這って」来て澄を引き倒し、馬乗りになったという。
 獣のように吠えながら、鹿蔵は暴れて行燈を蹴倒した。あたりはまっ暗になる。
 階段を駆け下りて誰かがとんできた。闇の中に恐ろしい絶叫が上がる。続いて鈍い打撃の音。それらはまったくの一瞬だった。
 生ぬるいものが四辺にとび散る。
 慶太郎が鹿蔵の腕をはなして、またも襲いかかる男の右膝を蹴り上げた。転倒する男。誰が誰やら分からぬ怒号と悲鳴。倒れた男が起き上がって、階段を駆け上がる音。
「警察や、森津、巡査を呼べ」と、王仁三郎の声。
「畜生、殺しちゃる。鉄棒を持って来い」とわめくのは鹿蔵。
「灯をつけい。誰か行燈を……」
 暴れる鹿蔵に引きずられつつ、王仁三郎が叫ぶ。
 澄が火打石を打ち、ようやく行燈がつけられた。見ると鹿蔵の額が割れ、鮮血がほとばしり出ている。
 龍が晒を引き裂き、王仁三郎がその布片で鹿蔵の血を拭ってやろうとすると、「さわるな、ひいーっ」と泣きながら鹿蔵は布片をひったくり捨てて、両手でべたべたと血を顔中に塗りひろめる。
 それから双肌ぬぎになってしなびた弁天の入れ墨を出し、部屋の真ん中に大あぐら。まだしたたる血潮を畳になすりつけ、しゃくり上げつつ啖呵を切る。
「さあ、殺せ、切るなと突くなと、どうなといたせ。大勢寄ってたかって、この年寄り一人を手篭めにあわしよった。うーん、もう堪忍ならぬわい」
 中村竹吉と小島寅吉が二階から下りてきた。
 中村は、気づかわしげに鹿蔵の傍に寄った。
「どうしちゃったい。あれ、えらい血や。これはすぐ医者を呼ばんと大変じゃわな」
 一同は白け切った顔を見合わせた。行燈の灯こそ消えていたが、鳥眼の平蔵は別として、二階から下りて鹿蔵を打った男が二人のうちのどちらかぐらい、誰もがはっきり感じていたのだ。気づかぬのは、逆上した鹿蔵だけである。
 隣の牛田巡査が駆け付けて、一目で事情を察したらしい。慣れた手つきで鹿蔵の血を拭き傷口を調べて、おもむろに言った。
「大槻はん、どうしてや」
「あたりきや。訴えたる。警察でも裁判所でも訴え出たるわいな。こ、この傷見ちゃったじゃろ。こいつら、ぐるになってわしを殺すとこや……」
「訴えるなら訴えてもよいで。けどなあ、あんた、毎晩お龍はんいじめに来とる噂を近所から聞いとったんじゃでよ。脅迫罪で何とかせなと思とった矢先じゃ。一体どっちから手を出したんじゃいな」
「鹿蔵さんがわたしをなぐったのが最初です」
 龍が冷静に言った。
「ふむ、まず大槻はんが女をなぐる。この鉄棒はあんたのやろ。立派な凶器持ち込んどるやないか」
「……」
「それで、このあんたのおでこを割ったんは誰やいな」
「お龍や。この女がわしを木槌みたいなもんでなぐりつけくさったんや」
「ほんまか、お龍はん」
 龍がうなずいた。
 一同が何か言いかけるのを、王仁三郎は眼で押える。この場合、犯人を女にしておいた方が有利だと、とっさに考えたのだ。
「凶器を見せなはれ」
 巡査の言葉に、一同の眼は龍からいっせいに中村竹吉に移った。中村はそ知らぬ風に天井を見上げる。
 牛田巡査は困ったように言った。
「ともかく凶器だけは、後日のために預かっておきますで。お龍はん、どこへ隠しちゃった」
「あ、あれです。土間に……あそこに投げ捨てた下駄ですわな」
 お龍が指差したところに、男下駄が片方ころがっている。森津由松が拾い上げ、巡査に渡す。下駄の角のあたりは確かに血に濡れ、鼻緒のあたりまで飛び散っている。
 澄が声を張り上げた。
「なぐったのは、うちがお龍姉さんより先やで。義兄さんのド頭ぴしゃぴしゃ叩いてやったんや。もっとどつくつもりやったけど、先生が引き転ばして止めちゃったさかい、まだすっきりせんわいな」
 牛田巡査が急いで口をはさんだ。
「すると、こうやな。大槻はんが今夜も鉄棒もって、お龍はん責めに来た。うーん、何日ぐらい来とったわけや」
「今夜で四日目ですわな」と龍。
「原因は何やい」
「誘拐罪や。ここの婆あがわしの後継ぎの伝吉連れて龍宮とかに行きおった。あとの養い料ちいっとばかりよこしたぐらいで、このあまっちょが……」
 言い募る鹿蔵に、牛田巡査が苦笑した。
「つまりは親子喧嘩に兄弟喧嘩や。しかし四晩もおどしたあげく、妹のお龍はんをなぐっとる。そこで、お澄はんとお龍はんが、かっとしてなぐり返した。まあ、言うたら女の身で、正当防衛というわけや」
「……」
「お龍はんが訴え出れば脅迫罪も成り立つでよ。裁判になったらどっちが勝つやら分からんわな。まあ、今夜は帰って傷の手当てをして、ゆっくり考えたらどうや。わしが送ってやるわいな」
 どうも不利と鹿蔵は判断したらしい。鉄棒とこうもり傘を杖について、わざとよろよろしょぼ振る雨の中を出て行った。

 翌日、王仁三郎は負傷見舞いの品をみつくろって、北西町を訪ねた。表からは繭を煮る匂いが流れ、女たちが糸を引いている。裏口から入って米に昨夜の詫びを言い、奥の間をのぞいた。
 耳の遠い鹿蔵は、王仁三郎の呼びかけも聞こえぬらしく、熱心に何かしている。見れば神床をひっくりかえして、筆先やら守札をとり出し、一つ一つ鼻をかんだり痰を吐いたり。悪態吐きつつ神号の軸までひきおろして、その後に伊勢皇大神宮の守札をはりつけた。
「やれ、これですいっとしたわい」
 振り向いて、王仁三郎と鼻つき合わせ、ぎょっとした。
「やあ、会長はん、見とったか……」
「どっちなとあんたの心次第やが、この神床は、教祖はんがお米はんの九年間の病気を鎮めた時に祀りなさったものや。気違いが治ったというのは、憑いていた霊を肉体から切り離したこと。けど霊はすきさえあればまた古巣へもぐろうとしよる。怖い神さんをあんたが除けてしまえば、喜ぶのは元の憑霊……」
「五年間もあれからたっとる。くそ婆あの神さんよりか、ずっと上等の、皇大神宮さんのお札はったんや。何こわかろう」
 当の米が茶を入れて持ってきた。
「お米はん、こんなことさして、よいのかい」
「好きにしちゃったらよろしいわな」
 米は涼しい顔で言い、汚れた筆先を庭先に投げ出し、後片付けにかかる。
 役員たちの稼ぎでもおっつかぬほど、直は筆先を量産する。腹の虫の居所が悪い時は、王仁三郎も直のことを「紙食い虫」と憎まれ口をたたく。あまり人のことを言えた義理ではない。
 気をとり直して、鹿蔵の額を見た。
「怪我はどうです。痛みますかい」
 鹿蔵は急に頭をかかえて坐り込んだ。
「うーん、痛い痛い痛い……さっきまで寝とったんや。疼いてたまらんわい。医者に行くにも、まず薬代を貰わにゃならぬ。女の分際で男の面体を傷つけるなど、ふらち千万な奴。これから警察へ行って白い黒いを分けてもろて、臭い飯を一年も食わしてやらねば腹いせできぬわい。下手人の龍を連れてこい」
 鹿蔵のいきり立ちようは激しく、このまますみそうもない。帰って役員たちと前後策を議した。
 龍が言う。
「母さんの留守中に、役員に傷をつけては気の毒です。私が罪をかぶります」
 慶太郎が妻をかばって、中村を睨んだ。
「いや、お龍はなぐられて打ち返しはしたが、下駄で叩いたのは中村はんです。そうでっしゃろ。ちゃんとこの眼で見ましたで」
 他の居合わせた人々もうなずいた。中村は、顔をこわばらせてうそぶいた。
「知らんでよ。決して覚えはありまへん」
「それでは仕方ない、お龍さんに罪をきてもらうほかはないのう」
 試みに王仁三郎が言えば、中村は頬をゆるめ、
「身魂の御因縁で御苦労さまでございます」
「偽善者と狂人、愚者は救いがたしや」
 王仁三郎は席を立った。けなげなお龍。それにひきかえ、教祖や教祖の子らのためなら命もいらぬと広言している中村の、この卑劣さは見るに耐えなかった。
 鹿蔵、中村のやりきれぬ狂態、沓島へ行ったなり消息の知れぬ直と市太郎と伝吉。三人の神業成就のため徹夜の祈願をこめる役員たち。
 王仁三郎は次第にふくれあがる不安に身悶えた。
「教祖一行は一週間か二週間で帰ってくる」と小松林命は言ったが、それも信じきれなくなってくる。小松林だって、時には騙し、時には間違うことだってあるのだから。
 両艦隊の激突を目前にしたただならぬ日本海上である。水もない岩ばかりの沓島で、どうやって堪えているだろう。もし邪神に魅入られて龍宮城へといざなわれれば、喜んで直は海にも入ろう。沓島の海域に溺れてただよう三人の死体が眼にちらつきさえする。何故、三人を止めきれなかったのだ。
 痛恨にうちのめされつつ、痛む足腰を引き、王仁三郎は夜の本宮山上にのぼった。
 五月十九日、ふり仰ぐ空には、十五夜の月がみずみずしく青い光を下界に投げかけている。沓島の三人も、この同じ光に濡れているだろうか。
 久し振りで愛用の石笛をとり出し、りょうりょうと吹き鳴らした。お歯黒をつけ、打裂羽織に鞄一つ、自負に燃えて綾部入りした七年前のおのれの姿が浮かんでくる。
 ――この者でなけらいかぬ。かけがえのない身魂であるぞというその舌の先から、艮の金神はこの長い年月、王仁三郎を苦しめ続けてきた。「悪の鑑の御苦労なお役」「小松林のやり方は害国の守護、まねはできぬ」などと言い、その上、沓島篭りを前についに隠居役を申し渡して、働き盛りの王仁三郎の活動を封じた。もっともその時、王仁三郎の審神もまた、直を悪魔・偽予言者と断じていたのだ。けれどそのそばから淋しさ、苦しさが湧き立ってくる。
 沓島の海で直が死ぬなら、自分も身を投げて死んでしまいたい。
 身も魂も病んで、吹きならす石笛の音さえ震える。無音の声が空を伝って響き渡った。
 ――そなたの血統、みたまの因縁が負わねばならぬ辛いお役であるぞよ。世を持ちここまで乱らかした神々の罪をあがのうて、千座の置戸を負わねばならぬのが、その方の役。素盞嗚尊の宿業なのじゃ。
 はっと王仁三郎は石笛をおく。わしの血統が……そうか。母世祢とわししか知らぬ父の血を、艮の金神は見抜いていたのだ。
 実の父にも知られず、ひそかに生み落とされた喜三郎……。権謀術数渦まく雲の上から、血統の一粒の種を地に降し、野におい立たせ、やがて悪の鑑となし、神意にそむいて体主霊従の世を開いた人類の罪を負わす。ああ、もしかしたら、初めから贖い主としてわしを拵えた。……艮の金神の仕組んだ芝居なのか。
 無茶苦茶や。教祖はんが人形なら、わしも人形か。神さん同志の間で勝手に善悪の烙印を押した玩具にされるのはごめんや。水呑百姓の伜として、わしは充分にがい水を呑んで育った。この上、何が悲しゅうて他人の罪まで……。
 何者かに食ってかかりながらも、王仁三郎は気づいていた。確か明治十五(一八八二)年、亡き有栖川宮熾仁親王は、天皇の名代として、露国の皇帝アレクサンドル三世の即位礼典に渡露、太子(皇帝ニコライ二世)に大勲位菊花大綬章を贈っている。また皇帝よりはアレクサンドル・ラウスキー勲章を受けたと、当時の古新聞をひっくりかえして読んだ覚えがあった。
 つまり、筆先でいう露国の極悪神の血統と父の家とは、人民を支配する世に立つ側として、艮の金神の眼からは同列なのだ。立替えられるべき筆頭なのだ。
 神は世界の雛型を日本に、日本の雛型を丹波の片田舎の大本に仕組んで、その中で善悪を立て分けようとする。会長の改心が一日おくれたらそれだけ長く世界の人民が苦しむなど、あまりのばかばかしさにむかっ腹を立て、直や役員らの迷信ぶりをあざ笑ってきた。けれど神は、王仁三郎の中にうつる世界の悪と、はびこる支配者たちの利己の心を見抜いたのではないか。
 今かりにその雛型として悪の役割を受け入れるとして、では艮の金神は悪の血統の王仁三郎をどう扱いたいのか。年をへた悪の根を一挙にうち切り、おびただしい血を流して滅ぼしたいのか。立替えとは何だろう。贖いとは……。
 王仁三郎の心は初めて素直に筆先に向かった。
 その一節一節を思い浮かべようと、冴え渡る月に眼を移す。と、月面をかすめて黄金色に光る雲が走った。同時に南空の果てに湧き上がった黒雲の一塊がみるみる凄まじい邪気をはらんで頭をもたげ、爪をのばし、火焔を発して月に迫る。すうとのびた黄金色の雲は、一瞬くっきりと龍の姿を現わし、襲いかかる黒雲に組みついてゆく。月は立ちのぼる黒煙に没して、あたりは闇となった。が、王仁三郎の霊眼は、邪気となり、大蛇となり、八尾の悪狐とも変じた黒雲が黄金色の龍ともつれあう、恐ろしい死闘を見る。月光が黒雲を射て光を増すや、雲は形を崩して北へ走る。身をくねらせて龍が追う。やがてすべての雲は形を失い、山の果てに消えていった。
 王仁三郎は肩の力を抜いた。我知らず全霊の力をふりしぼって、組んだ指を空にふり向けていたのだ。わずか数秒間の出来ごとだったに違いない。今はこともなく澄んだ月、夜空であった。

 翌日、王仁三郎は役員たちを集めた。
「まず、嬉しいことを報告しておく。『近日中に日本海で大海戦があり、バルチック艦隊が全滅する』と神さまから見せられた。このことはそれぞれの胸に秘めて、世間に言いふらさぬように。さて、教祖さんらが沓島に篭って、もう六日目になる。音信はないが、さぞかし飲食に困り、体も衰えとってやろ。なんぼ神さまの御命令か知らんが、わしらとしては、あんな水のない無人島に四十日間も捨てておくことはできん。いわば人道上の問題や。すぐに船を出して、無理にも連れ帰りたい。体がしゃんとしたさけ、迎えにはわしが行ってもよい」
 中村竹吉が、王仁三郎の提案を一蹴した。
「バルチック艦隊が全滅するちゅうような、そんな阿呆げたことはござらん。そうなると、大本のお仕組みが嘘になる。きっと小松林の悪神に騙されとるんじゃろ。今度こそ、日本ももうかなわんというところまで行くわいな。丹後の宮津へも攻めかけるに違いない。沓島の艮の金神、変性男子稚姫君命出口の神とあらわれて、それに雨の神・風の神・岩の神・荒の神・地震の神・残らずの金神・世の立替えのわかりた神さんがお手伝い遊ばして、いっぺんにくれんとひっくり返しなさる仕組みじゃ。今度三人さんがおいでになったのは、正真の艮めの御用でござる。食う物や飲み物で困ってござるようなチョロこいことではないわい。生神さまの教祖さまがおいでになってござるのじゃから、人間心を出さず、二十日たったところで迎えに行けばよいのじゃ。会長さんは、どだい肝が小さい。しじみ貝で海をかい上げるようなことを思うてござるが、三千世界の立替えの大本に坐る人がそんなことでは……ははは……」
 中村の豪傑笑いに王仁三郎も思わずふき出し、あきれて言葉がない。
 四方平蔵がしたり顔でつけ加える。
「日本の大臣らが『さあ、かなわん』と言うようになったら、仕方なしに大本の高天原へ訪ねてくる。そこで三千世界の立替えのことを教えてやる。法律も変えさす。天皇陛下の洋服も和服に改めさして、角文字を廃止させて『いろは四十八文字』に立替えさして、世界の物はみな出口の神の物にして、その上改心ができたらいっぺんにくれんと返して、日本の国を助ける仕組みですわな。お筆先を真剣に何度も読んでみたら、その仕組みがわかります。出口の神の筆先にあらわれたら、それが天の規則やろ、間違いござへん」
 他の役員たちは、中村・四方大幹部の迷論に、うっとりと聞き惚れた。
 田中善吉がまじめな顔で言う。
「むかしのまことの神々さまは、お姿はみな長物やそうですなあ。天照皇大神さまも、月の大神さまも、龍宮の乙姫さまも、お姿はみな大蛇ということや。そうでなければ、とても三千世界の立替えはでけまへん。大蛇がいっぺんすーっと通ったら、世界がいっぺんに泥海になるということどす。今度の世の立替えには、世に出てござる神さんや苦労なしの安神では間に合わん。艮の金神出口の神の御威徳で、世界がいよいよ良うなりまっしゃろなあ」
                                       潮騒のとどろく沓島の磯で、直は一心に筆先を書き続けていた。
 ――艮の金神国常立尊、出口の神と現われて二度目の天の岩戸開きをいたすについては、昔の世の元からこしらえてある因縁の身魂をこの大本に引き寄して、それぞれに御用申しつけるぞよ。昔の天照皇大神宮どのの折の世の立替えよりは、何かのことに骨が折れるのであるぞよ。
 明治二十五年から出口直の体内に入りて、世界にあることを知らしたが、今に続いて知らしておるが、三千世界の世の立替えと申すのは世界の人民の霊魂の立替えのことであるぞよ。世界の霊魂がみな総ぐもりになりてしもうて、言いきかした位には改心の出来る霊魂はないようになりておるから初発に出口直は神に意見をいたさなならんおん役であるということが口と手とで知らしてあるが、むかしのみろくの世は結構でありたなれどくれていきよるとくもりがでけてきて、天照皇大神宮どのの折にも世の立替えを致したでありたが、天照皇大神宮どのの折はここまでもなかりたなれど、今度の二度目の世の立替えは骨が折れるというものは、この世をこしらえた元の世界をこしらえた生神を世に落としておいて、(この世をこしらえた生神には)この世が来るのがよく分かりておりたから、みろくの世のやり方でやらねばいかんと艮の金神が八百万の神に申したら、そのようなやり方では他の神がようつとめんと、皆がもくろみて大神さまへお願いなされば、大勢と一人は代えられん、艮へ押込めいと大神さまの御命令でこの方は艮へ押込められて、我の強い霊魂は皆押込められて、陰からの守護いたしておりたなれど、この方が申しておりた世がまいりてきて今の体裁。
 先の見える元こしらえたこの方を押込めておいて、露国の極悪神のたくみは、この地の出来んこの世が泥海の折にたくみておることを、大神さまは御存知であるゆえに、いったんはこの世がこうなることは御存知であるから、日本の国には深い仕組みがしてありてのことであるぞよ。
 この世をこしらえて、ここまで開くのは一通りの霊魂ではこの世界をこしらえるということは出来はいたさんぞよ。前の天照皇大神宮どのの折の世の立替えは、今度のような苦労はなかりたなれど、前の岩戸開くのが間違うておりたぞよ。あまり素盞嗚尊が御姉上さまの世をもちなさるのが残念なと申して、あれほど天照皇大神宮どのに敵対うて、堪忍袋が切れて岩戸へお入りになりたでありたのざ。だまして岩戸を開いたのでありたが、岩戸開くのが嘘を申してだまして無理に引っ張り出して、この世は神となりたら勇みたらよいものと、途中に出来た神やら、苦労知らずの守護神が嘘を申して引っ張り出して、それからは、天宇受売命どののうそが手柄となりて、この世がうそでつくねた世であるから、神に誠がないゆえに、人民が悪うなるばかり。
 この世の来るのは大神様が泥海にまします折からよくわかりておるのであるから、素盞嗚尊の霊魂は、この世は持たせられん霊魂であるのに、大神さまの御分霊であるから、御姉上さまを敵対うて外国へ落とされたのでありたなれど、日本の大神さまの御血筋であるから、露国の悪神がうまいことに抱き込んで、学を持ってきて、日本では表へ出されん霊魂を上へあげて、この世を、日本の国を学でさっぱり神徳のないことにしてしもうて今の体裁。
 日本の国は、神力でいかねばならん国を、学さえありたら、上へあがれると申して、ここまで学がはびこりたのであるぞよ。学では日本の国は神力を失うから、何かの時節が参りてきて世がくれてここまで開けたなれど、開けたのではない。この世はばらけてしもうて、このままでおいたならもう一寸も先へは行けんことになりて、この世へ出て、この世を守護しておれる神には、ちっとも神力ということがなくなりて、二度目の世の立替えをいたさねば、このままでおいたなら、今度艮の金神が世を受け取りて、世をかまわなんだら、どちらの国もつぶれてしまのざぞよ。
 国をつぶしてはならんから、日本の国は昔から深い仕組みがしてありて、明治二十五年から出口直にうつりて、今の世が来るから、ひとから見るとまる気違いでありたなれど、人民の知らんことであるから知らせたのでありて、今に筆先で知らしておりても、まだまことにはいたさんが、今度沓島へ参りたのは何かの時節がまいりきて、世界のこと知らしてあるのが日ましに出てくるから、今度変性男子が沓島へ三十三年から三年の六月の八日に冠島へ参拝、七月八日には沓島開きにまいりて、(三十)四年の四月十日に沓島に参りて。
 今度明治三十八年の四月の十日に参りたのは、変性男子が現われる時節が参りて来て、今度出口直・後野市太郎・出口直の実子の伝吉と沓島へ来たのは沓島が龍宮であるということを現わしに連れゆきたのでありたぞよ。龍宮の乙姫どののおすまいどころはここという事を現わしに連れ参りたのでありたから、三人の行はだいぶ厳しき行でありたが、沓島の淋しきとこへ押し込まれておりたら、艮の金神変性男子の霊魂が稚姫君命の霊魂であるから、今度の沓島の荒海で行の上がりでありたゆえに御苦労でありたなれど、沓島へ落ちておりた元の生神龍宮の乙姫どのが表になりて、艮の金神の片腕に女でもなれる改心は結構なものであるぞよ。
 日の出の神をお使いなされて三千世界を動かすのは、今度沓島へ落とされておりた元をこしらえた艮の金神稚姫君命出口の神となりて綾部の龍宮館の高天原におさまる時節が参りたから、何事も時節が参りたぞよ。ぬしがでになりてくるぞよ。岩の神、荒の神、雨の神、風の神、地震の神、金神の中にもより抜いて行ないの出来ん金神は御用が出来んぞよ。
 変性男子の身魂はどんな行をもさしてあるなれど、今度の二人は御苦労であるぞよ。
 沓島はおん水のないとこであるから、人民の住いは出来んとこであるなれど、けっこうなお水を見つけて、乙姫さまが、ここにあるということをお知らせなさりた。誠というものはけっこうであるぞよ。この世には、水と火がなくては、人民は一日もしのげんであろうがな。

 人間とは妙なものである。伝吉はあれほど夢中ですすった海猫の卵が、すぐに大味で水くさいことに気がついた。種油を岩の窪にうつして点火し、麦粉の入っていた空缶を鍋の代用とし、海水で卵を茹でた。うまかった。
 市太郎も目を細めて食い、おそるおそる直にすすめた。
「教祖さま、茹で卵、一ついかがですい。おいしいですで」
「わたしはいりませんで」
 直は涼やかな目元で答えた。
 その午後、市太郎は思いがけず小松を見つけて神さまに供えようと、小枝を折ってきた。直は嬉しげに押しいただき神号の前に供えて祈願をこめたあと、針のような葉をむしって三人で食べた。しぶく青くさかったが、慣れるとおいしい。
 心から幸福そうに直は洩らした。
「お水もお松も何もかもお恵み下さってもったいないことやなあ」
 直は常々、清らかなお土とお松とお水があればたいがいの病気は治ると信者に教えていた。事実、てきめんに治った。風邪や熱のある病気は、御神前に供えた雌松を煎じて飲めばすぐ熱がひく。白く、粘っこいお土は切傷・火傷・打身・腫物などに塗布し、また水にとかして上ずみを飲むと万病に効く。水もまた万病の薬である。水道の水はくたびれているが、天然の湧き水は精気をもたらす。そう直は教える。一本の松の葉からさえ、直は限りない生命の泉を吸い取っているようであった。
 足るにまかして事足らず、また伝吉には不満が出てきた。いくら卵を食っても、五穀が一食小さじ三杯では、どうにも力が出ないのだ。体は自然に衰弱しているらしく、歩行も苦しい。一日三度の水行も、ひどくものうい。市太郎も同じなのか、笑い声も芝居の幽霊の笑い方のように力ない。
 こんなことでは、この先どうなるやら、またしても不安が高まってきた。直の方は、終始一貫、たゆまず水行・礼拝・筆先を繰り返している。食べ物も食べぬくせに、小憎らしいばかりに衰えた気配はないのだ。
 伝吉は直の前に出て駄々をこねた。
「教祖はん、腹が頼りのうてわしはかなんさかい、もう帰なしてもらいますわ」
 直はあきれて、しげしげとわが子のふくれ面を見た。
「お前はなにを言うてんのじゃいな。そんなら『帰にな』と言うたら、お前、一人で帰んでかい。船はなし、人はなし、便りはできず、どうして舞鶴まで渡る気や。いま帰ぬどころか、神さまのお迎えさえあれば、海の底へでも行かんなんのやで。二十日たって船が来るまで帰ねんと分かっとるのやさかい、ぐずぐず言わんと気持よう辛抱しなはれ。めったにない尊い行をさせていただいているのじゃと思えば、こんな結構なことはござらぬ。わたしは、ありがとうて、神さまにどうお礼申してよいか分からぬ気持ちで暮らしておるのやで。伝吉も心持ちを変えてみなはれ。そうや、腹が頼りないなら、わたしの分を二人で分けてお食べ。わたしはお水をいただいておればよいさかい……」
 直の食べる小さじ三杯分を市太郎と分けて食べたところで、腹の足しにはならぬ。伝吉はうつむいて引き下がった。直の気持ちが嬉しいやら哀しいやら胸につまり、グウの音も出なかった。
 五月二十三日の夕方、即ち沓島へ渡って九日目、またも伝吉は愚痴をこぼした。
「心の持ち方を変えい言うちゃったけど、わしには無理ですわな。どだい、わしと教祖はんはできが違うのや。言うても駄目なことはよう分かっていますで。分かっとるけど、こらえきれんさかい、もうこれからは何遍でも言わしとくれ。帰なしてくれ、帰なしてくれ、帰なしとくなはれ。わしには女房や可愛い子が待っとるのや。どうぞ神さまに帰ねるようにお願いしとくれなはれ」
 伝吉はほんとうに狂い立って叫んでいた。本音を吐いてしまえば、もうこらえ性など吹っとんでいる。その背後で、市太郎が辛そうに身をもんでいた。
 直はほっと溜息をついた。
「ほんに困った者を連れて来てしもうた。わたし一人なら十分の行をさしてもらうのじゃが、それでも神さまはほぼ御用もすんだように言いなさるさかい、二、三日したら帰なしてもらおかなあ」
「そ、そんなこと言うちゃっても……どうやって……」
 伝吉は目の色を変えた。
「神さまにお願いするのやな。伝吉が本気で帰りたいのなら、心の底からお願いしてみな」
 直の先達で祝詞が始まった。伝吉は生まれて初めて本真剣に祈った。岩に食い込む足の痛みも、絶え間ない空腹も意識の外であった。
 祝詞の最中から暗雲がたれこめてきて、激しい風雨となった。沓島へ渡って、あれほど願った初めての雨であり烈風だった。伝吉は体が浮き上がり海へ飛ばされそうになって、岩角に抱きついた。髪から着物からたちまち雨が流れ出す。
 祝詞の声はちぎれ吹きとんでも、直は止めようとしない。根が生えたように正座したまま、凛乎と空を仰ぐ直。その白髪が解けて、さっと耳のはたに舞い立った。
 海は轟き逆巻いて、地は鳴動する。激浪が立ち上がり、かぶるばかりに押し寄せてきた。どどどっと島が震えた。恐れていたことがやってきたのだ。沓島は沈む。否、島ごと龍体と化して荒海を突っ走り出したのだ。
 そう伝吉は思った。ひしと市太郎と抱き合って目を閉じ、歯をくいしばる。
 その時であった。
「御苦労!」
 直の裂帛の気合いがとんで、風雨がぴたっとやんだ。
「どうしちゃったんか!」
 伝吉と市太郎は恐る恐る頭を上げ、あたりを見まわした。黒雲は走り去り、光の筋が幾千となく海上に降りそそいでいた。波のうねりは大きくゆるく、次第に波涛をおさめていく。
 二人は直の横顔を見た。直は濡れた頬を白髪になぶらせ、きっと唇を引き結んでいる。力を尽くしきったあとの恍惚とした双眸から、新しい涙があふれ落ちていた。
 市太郎がしゃくり上げ、わけもなく伝吉まで嗚咽した。二人ともこんなふうに泣いている直を見るのは初めてなのだ。突然襲い、そして去った風雨は、三人の魂をもかき乱したかであった。
 ややあって、伝吉が訊いた。
「……さっき『御苦労』と言うちゃったんは、なんですいな」
「お前たち、今のが分からなんだかい」
「……」
「いま、龍宮の乙姫さまが御挨拶に、ありありとお姿をあらわしなさったのやで。日本を攻める異国の船がたくさん参ったからこれからお手伝いに参ると、言うてじゃった」
「へえ、いよいよ大戦ですな。それでも……お姿はさっぱり見えませなんだわ。何やら恐ろしうて、目も何もあいとられますかいな。市太郎さんはどうやった」
 市太郎も無念そうに首を振った。
「どんなお姿しとってでしたい」
 伝吉は聞きたがる。直はくわしくその容姿を語った。と、伝吉の目に、龍宮の乙姫の姿が髣髴と映じてくる。
「よいか、伝吉や。その姿をはっきり頭に刻みつけとくのやで。龍宮の乙姫さまは、泥海の昔ながらの恐ろしい黄金色の御龍体のままでおられるが、あまりみぐるしい故、それを恥じて、美しい姫のお姿に変じてあらわれなさった。綾部に帰んだら、末代までの証に、お前が絵にして書き残すのやで」
 それから立って、いつもの筆先の座につく。市太郎が、岩の窪みの間から油紙に包んで風雨をまぬがれた紙と筆をとり出した。待っていたように、雲間から月が出た。筆先を記すのに、燈明はいらぬげであった。淡い種油の光と十九夜の月光で、ためらいもなく筆を進める。
 市太郎は、出たばかりの筆先を燈明に近づけて、天地の神霊よ聞けとばかり、大声をはり上げて拝読する。
 ――龍宮の乙姫が上がるおり、出口直どのの手を借りて、いっさいのことを書き残すぞえ。世に出ておれる神、世界の霊魂に知らすぞえ。この方は、欲の深い神でありて、あまりに我が強いため、昔の元からの肉体のまま、姿は大蛇というようなみぐるしき神でありて、長らくの間、冠島、沓島の淋しき海の底のすまい。何ほどの宝を抱いたとて、海の底では何一色光の出るということはないゆえに、こんど艮の金神さま・稚姫君命どのが正真にお出ましになり、世を立替えなさるには、乙姫も初発に我を折り改心いたして、龍宮の宝をみな渡し申すのであるぞえ。

 乙姫は綾部の高天原に上げてもろうたら満足であるから、あまりうれしくて、龍宮はさっぱり明け渡すから、この世へうずもれておるものは、陸の龍宮へみな上がりてくるぞよ。
 坤の金神さまと世界の地の大神さま(艮の金神)とを、弥仙山の中の宮彦火々出見命どのと頂上の木の花咲耶姫命どのとが和合させなさる御用であるから、和合の守護を乙姫も頼むぞえ。
 無間の鐘もほり投げる時節が参り来て、三千世界の世の立替えをなさるについて、龍宮の乙姫が女であれども片腕となりてお手伝いを申すぞよ。沓島さえもあの淋しきところ、鬼でも蛇でも改心いたさな、世に出ておれる神々眷属、邪魔いたしたり、お聞き入れのない守護神は、海の底に落とされて、待ちこがれておりた松の世が参るについて、乙姫から気をつけるぞよ。今のうち一日も改心がはやくないと、世界の地の大神さまの御守護がありだすと、霊魂の立てわけをはじめなさるゆえ、今度ばかりは間に合わぬぞよ。

 一夜あけた五月二十四日未明。市太郎が大声で言った。
「大槻さん、人の声がするでー」
 伝吉は耳を澄ましたが、聞えなかった。
「神経や。帰にたいと思いこんどったさかい、そんな気がしただけやろ。市太郎さんの耳に人の声と聞こえたのは、ありゃ海猫の鳴き声やろかい」
「いーや、海猫やござへん。確かに人の声やでよ」
 市太郎は海に突き出た岩の一端に走って、見渡した。日の出前の島影に、ぼんやり十二、三隻の船が浮かんでいる。
「やっぱり本当や。沢山の舟が来とるでよ」
 伝吉ははね起きて、市太郎の傍に駆け寄った。二人はおどり上がり、手招きし、狂喜のように叫ぶ。
「おーい、おーい」
 漁師たちはいっせいに二人を眺めたが、何故かあわてて逃れるように移動を始めた。一隻残らず島影に隠れていく。
「しまった……今あれを逃してしもたら……」
 二人は岩の突端から身をのり出し、声をふり絞って絶叫し続ける。やがてへなへなと岩に腰を落とした。二人の漁師の乗った一隻の舟が決意したようにあらわれ、勢いよく漕ぎつけてくる。
「おーい、お前ら、どこのもんやーい」と、漁師がどなった。
「綾部の者じゃーい」
「神さまの御用で来たんじゃな」
 二人は漕ぐ手を止めて、どうやら疑っている様子。
「そんなら北西町の岩吉知っとるかいや」
 伝吉は勢いよく答えた。
「おう、そりゃ隣の者で、相変わらず博奕打ったるわーい」
 疑いは解けたらしく、彼らは舟を岸へつけてきた。
「頼むでよ。わしを舞鶴まで連れて帰んでくれい」と伝吉。漁師は日焼けした顔でうなずいた。
「ええでよ。でも今日はあかん。栄螺をとりながら鏡岩に上り、鯖鳥の卵をとるんじゃ。今夜は鏡岩に寝て、明日の朝には迎えに来てやるわな」
 鏡岩は水行場よりかなり離れた冠島側に臨む海中に屹立した岩。沓島の中でここだけに鯖鳥が棲息している。漁師は二人の顔を見ながら言った。
「やっぱりお前たちのことやな。沓島に露西亜人と日本人が隠れとるいうので、うちの在所で大騒ぎしたんじゃでよ」
 漁師はその事情を語った。
 何日か前に別の漁師が来て、直たちを遠くから発見したらしい。バルチック艦隊近づくで国内が騒然としている時であるから、白髪で色白の直をロシア人と見誤った。さては露探(ロシアのスパイ)と早合点し、彼らは帰って駐在所に通報、巡査は驚いて舞鶴の海兵団に電話し、「ロシア人と屈強の日本人二人が沓島に隠れている」と報告した。海兵団では大騒ぎ、三人の逮捕のために舟を出す噂がやかましくとんだという。しかしこの漁師たちは知らなかったが、綾部を商売の得意先としていた舞鶴の魚屋真右衛門がこの噂を聞きつけ、いち早く海兵団に連絡している。
「沓島にこもっとる人たちは、綾部の金神さんのお婆さんにちがいない」
 そのため逮捕は見合わせて、双眼鏡で挙動を監視することになった。その結果、直が沓島の行場で水行と礼拝を余念なくしていることを認め、当時の地方紙の一部にも報道されたという。
 漁師が鏡岩に向かって舟を漕ぎ去るのを見送り、伝吉と市太郎は喜び勇んでその旨を直に報告した。
「神さまのおっしゃることは、一分一厘違うまいがな。明日は帰れますで」
 三人は岩壁の神号に対して、感謝の祝詞を捧げた。それでも伝吉は、明日が待ちきれなくなった。はたして船頭が明日間違いなく迎えに来るかどうか、口約束が頼りなく心配でならぬ。市太郎にぼやき出した。
「あいつらうまいこと言うといて、まさかまた逃げたんやないやろなあ。念のため、もう一度船賃の入金しておこかい」
「神さまが明日帰れる言うてなさるさかい……」
 そう言いつつも、市太郎の面に不安が走った。
 彼らは直に内緒で海岸つたいにほとんど島を半周、鏡岩の上に出た。下は絶壁で栄螺をあさる二人の漁師の姿が小さく見える。一つ足を踏みはずせば、海底へまっ逆さまだ。伝吉は足が震えて降りることができず、岩にしがみついた。
 市太郎は必死になってつたい降りる。鏡岩の水際に立った。漁師のいる岩まで行こうとすれば、鏡岩を向こうへ突き抜ける小さな洞穴を通らねばならなかった。市太郎はためらった。紫紺の淀みが吸い込まれそうに不気味なのだ。その洞穴の向こうに、漁師の姿は見え隠れしている。打ち寄せる波に膝まで没し、全身しぶきに濡れながら、岩肌を手さぐって、ようやくくぐり抜けた。
 漁師は市太郎に気がついて、大声を張り上げた。
「お前はあの穴を抜けてきたのかい。あきれた奴ちゃのう。あの穴は鰐の巣窟じゃ。在所では命知らずと綽名をとったわしらでさえ、まだくぐり抜けたことはないわいな」
 けれど市太郎は、約束を確かめることを焦っていた。
「今朝約束したんじゃが、明日間違いのうわしらを連れて帰んでくれてかい。船賃の入金しとこうと思うのやが……」
「そんな物いらんわい。請負うたら嘘は言わん。ちゃんと迎えに行くわいな」
 怒ったように漁師は言う。市太郎は疑ったことを恥じた。帰途を気づかう漁師に見守られ、また洞穴をくぐった。帰りは恐怖に手足が強張った。
「艮の金神さま・龍宮の乙姫さま、お許し下さい、お守り下さい」と、心で叫んだ。
 五月二十五日朝九時頃、約束通り迎えの舟が来た。直は漁師を待たして最後の礼拝をする。漁師二人は三人の寝所であった椿の枝を組んだ地点に立って、首をひねった。
「お前たち、ほんまにここへ寝とったのかい。ここは始終波が打ち上げる所やでよ。よう寝とる間に波に浚われなんだこっちゃ。十何日も寝とってなんでもなかったのは、やはり神さんが守ってくれたんやろのう」
 海上はまれに見る凪。遠ざかる沓島に手を合わせて感慨に沈む三人を乗せ、船は滑るように進む。直の命で、残った煎米は残らず漁師に与えた。
「婆さん、バルチック艦隊はほんまに攻めてくるじゃろか」
 あまりに穏やかな海をみつめながら、漁師が問う。
「二日たったら来ますで。もう日本は大丈夫やでなあ。けれど、神さまは、どちらの国も傷つけとうないのや。露国の悪神の改心を待っておられますのやで」
 船が舞鶴に着いたのは、日の暮れであった。直が沓島の方に向かって礼拝している間に、伝吉は大丹生屋のお内儀に注文していた。
「温飯と魚で、すぐうまい夜飯を食わしておくれい」
 湯気の立つ飯と小鯵の煮つけで夜飯にかかったが、伝吉も市太郎も見ただけで胸がいっぱいになり、二口三口でもう箸が出なかった。
 小憩して出発、真倉の後野市太郎の家で一泊した。体が衰弱している時は急に固い物を食べてはいけないと、朝は萵苣の粥が出た。伝吉は暖かい椀を両の掌で包みながら、ゆるぎない大地の上に安住し、火と水とお土を豊かに受ける日頃の恩を思ってもみないで暮らしてきた自分の過去を省みていた。

 その頃であった。連合艦隊司令長官東郷大将の幕僚秋山真之中佐は連日連夜の参謀会議に身も心も疲れ果て、ふとまどろんでいた。作戦地図上を続々と動いてゆく影――単縦隊をなし、白く波を蹴り立ててそれは対馬東水道を北上する。
「おう、敵艦隊じゃ」
 自分の叫びに、秋山ははっと我に帰った。あまりにも生々しい幻影に、しばし息を呑む。夢ではない。まさしく神のお告げだ。秋山は固くそう信じた。
 かねて対馬海峡説を支持していた東郷司令長官は、秋山参謀の進言を入れ、すべての迷いをふっ切って、作戦はここに定まった。

 五月二十七日午前三時半、哨艦信濃丸はバルチック艦隊の大隊列を海上はるかに望見、ただちに打電。
 ――敵艦見ゆ、敵は東水道へ向かうものの如し。
 鎮海湾に待機していた連合艦隊司令長官東郷平八郎は、大本営に第一報を発する。
 ――敵艦見ゆとの警報に接し、連合艦隊はただちに出動、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども波高し。
 晴れていれば敵艦を捕捉しやすく、波高ければ長途の旅の敵艦隊より迎え撃つ連合艦隊に有利であろう。
 午後一時四十五分、連合艦隊主力隊は南方数海浬、初めて現実の敵影をとらえていた。

「お上、お上、言上し奉る……」
 侍従長の声は震え、目は涙で曇る。日本海海戦の第一勝報を伝える大本営あて東郷司令長官からの電報なのだ。だが陛下は御昏睡のまま何の御返答もない。枕元には、皇后陛下と有栖川宮威仁親王が蒼ざめて看護に侍せられている。もう意識は通じぬかも知れぬと思いながらも、大声で言上せずにはおれなかった。
 陛下は侍従長の奏上にかすかにまぶたを動かせられた。
「海戦は大勝利でございます。お上――」
「勝利か、おう……」
 むっくり起き直られようとする背を、威仁親王が支えた。

 王仁三郎は、『道の大本』の和綴じの末尾に書き加える。
 本書十巻誌し了るや、日本海大海戦あり、バルチック艦隊全滅、敵の司令長官以下捕虜数千名ありとの快報、新聞号外をもって伝へ来れり。
 明治三十八年五月二十九日 大本教学部主教 上田王仁三郎――。
 筆を置いて、王仁三郎は臥龍亭の外を見た。道の大本十巻を脱稿した喜びはなかった。出来れば火の中にでも投じて、この世から抹殺してしまいたい。しかし王仁三郎は信じている。いったん放った言霊がかえらぬように、歌も詩も文章もいっさい筆にした以上は推敲せぬ己れの主義のように、直と筆先に疑惑を抱いてさからってきたこの長い年月は帰らぬのだ。疑い、ののしり、争う心のままにしたためた今となっては悔い多きこの記録も、あるがままの自分の姿として後の世に残しておこう。
 きっちり十巻を重ねてくくり、さりげない新聞包みにして、役員等の目の届かぬ天井裏にしまった。もろもろの恨み、ちりあくたの十巻を終わって片付けると、もう生まれ変わったように心は晴れていた。
 王仁三郎は、直が沓島から持ち帰った分厚い筆先を押しいただいて、真剣にむさぼるように読み始めた。
 ――明治三十四年の四月十日に産水を投じに沓島へまいりた。
 筆先の日付はすべて旧暦だから、明治三十四年旧四月十日を新暦に改めると五月二十七日、出口直はこの日沓島の釣鐘岩の上に立ち、元伊勢の神水を激浪逆巻く龍宮海上目がけて投じ、こう宣言したのだ。
「この水、三年で世界へ回るぞよ、世界が動き出すぞよ」
 それから三年目にして日露戦争が起こった。露国の極悪神は軍隊をもって、日本のみかペテルブルグで無抵抗の自国の民衆に向け発砲、すさまじい流血の日曜日がロシア革命の発端となる。飢えた民衆は誰が敵であるのかその目で見た。世はまさに動き出したのだ。そしてまる四年目の旧四月十日、直は龍宮を開きに沓島へ行き、帰って二日目に日本海海戦が……それが新暦五月二十七日。
 はっと王仁三郎は気づいた。偶然か、神意か、日本海に産水を投じた四年後の同じ日ではないか。おもな役員たちも気づかぬその事実に、王仁三郎は目をみはった。
 王仁三郎は、沓島の行場で書かれた筆先に真剣な眼指しをむける。
 ――今度の御用は因縁なくてはつとまらんぞよ。先になりたら金銀は降るごとくに寄りてくるから、そうなりたらわれもわしもと金もって、ご用さして下されと申して出て来るなれど、因縁なき身魂には、なにほど結構に申しても、一文も使うことはでけんぞよ。これから先になると金銀を積んで神の御用を致さして欲しいと頼みに来る者ばかりであれど、一々神にうかがい致してからでないと、受け取ることはならんぞよ。この大本は金銀に目をかけることはあいならんから、何ほど辛くても、今のうちは木の葉なりと草なりと食べてでも、しのぎて御用をいたしておりて下さりたら、神が性念を見届けた上では、何事も思うように、金の心配もいたさいでもよきように、守護がいたしてあるぞよ。今が金輪際のかなわん辛いところであるから、ここをひとつこばりてまことを立てぬきて下さりたら、神がこれでよいというようになりたら、楽にご用がでけるように、ちゃんと仕組みてあるから、罪穢のある金は神のご用にはたてられんぞよ。
 いつも筆先で気をつけてあるが、この大本は艮の金神の筆先で世を開く処であるから、あまり霊学ばかりに凝ると、筆先が粗略になりて、まことがかえって分からんようになりて、神の神慮に叶わんから、筆先を七分にして、霊学を三分で開いて下されよ。神がかりばかりこると、はじめは人がめずらしがりて寄りてくるなれど、あまりろくな神は出てこんから、終には山子師・飯綱使い・悪魔使いといわれて、一代思わくは立たんぞよ。思わく立たんばかりか、神の経綸を取りちがいいたす人民がでけてきて、このまことの正味の教えをわやにいたすから、ながらく変性女子に気をつけて知らしたなれど、今に霊学が結構じゃ、筆先ども何になると申して、一寸も聞き入れぬが、どうしても聞かな聞くようにして改心さしてみせるぞよ。
 神の申すことを叛いて何なりとやりて見よれ、足元から鳥がたつようなビックリが出て来るぞよ。世間からは悪く申され神には気障りとなるから何も成就いたさずに大きな気の毒が出来るのが見え透いておるから、それを見るのがかわいそうなから、毎度出口の手で神が知らせば、肉体で出口直が書くのじゃと申してござるが、ここしばらく見ておりたらわかりてきて頭を逆さまにして歩かんならん事が出来するぞよ。
 変性女子は神憑りで開きたいのが病気であるから一番にこの病気をなおしてやるぞよ。心から発根をなおせばよいなれど、如何しても聞かねば激しき事をして見せて目を開けさしてやるぞよ。狐狸野天狗なぞの霊魂に弄びにしられてそれで神国の御用が出来ると思ふのか。それでも神国の人民じゃと思ふておるのか。畜生の容器にしられてそれを結構と思うのか。神界の大罪人となりても満足なのか。わけがわからんと申しても余りであるぞよ。
 こうは言うものの、女子の霊魂は、いつも申すとおり、世界いっさいのことがうつるのであるから、この大本へ立ちよる人民は、女子のやり方をみて、世界はこんな事になりておるのかと改心をするように神から女子の身魂が拵えてあるのであるからとりちがいを致さぬようにおかげをとりて下されよ。
 他人が悪い悪いと思うておると、全部自分のことが鏡にうつりておるのであるから、他人が悪う見えるのは自己に悪い所や霊魂に雲がかかりておるからであるから、鏡をみて、自己の霊魂から改心いたさすように、この世の元から変性女子の霊魂がこしらえてありての二度目の天の岩戸開きであるから、ちょっとやそっとではわかるような浅い経綸でないから、改心いたして身魂をみがくのが一等であるぞよ。
 世の元のまことの生神は、今まではものを言わなんだぞよ。世のかわり目に神がうつりて、世界のことを知らせねばならぬから、出口直は因縁ある霊魂であるから、憑りて何事も知らせるぞよ。世がおさまりたら神は何も申さんぞよ。狐狸や天狗ぐらいはいつでも誰にでも憑るが、この金神は禰宜や巫子には憑らんぞよ。
 何ほど神憑りに骨を折りたとて、まことの神は肝腎の時でないとうつらんぞよ。何も分からん神がうつりてまいりて、知った顔をいたして、いろいろと口走りて、かんじんの仕組みも分からずに世の立替えの邪魔をいたすから、一寸の油断もでけんから、よほど審神者がしっかりいたさんと、大きな不首尾が出来するから、いやがられても世界中が大事であるから、不調法のないように気を付けてやるのを、野蛮神が何を吐す位により取りてくれんから、誠に神も出口直も苦労をいたすぞよ。
 神憑りでなにもかも世界中のことが分かるように思うておると、さっぱり了簡がちがうぞよ。神の申すうちに聞いておかんと世間へ顔出しが出来んような、恥かしき事が出来いたすぞよ。
 この神一言申したら、何時になりても一分一厘まちがいはないぞよ。髪の毛一本程でもまちがうようなことでは、三千年かかりて仕組みたことが水の泡になるから、そんな下手な経綸は世の元から、元の生神はいたしてないから、素直に神の申すことを聞いて下されよ。世界の神・仏事・人民を助けたさの、ながらくの神は苦労であるぞよ。誰に因らず慢心ととりちがいが大けがの元となるぞよ。(明治三十八年旧四月十六日)

 日露戦争は大詰めを迎えて戦勝気分に沸き立っていたが、戦費にくわれる国民のふところは貧しくて、不景気を反映してか、京・大阪の人造精乳の売上げは落ちていた。
 この夏、王仁三郎は平仮名ばかりで弟へ便りをしたためている。
――上田幸吉どのへ、うしとらのこんじんさんのおふでさきは、いちぶいちりんもちがわんことをわたしはきがついた。せいにうもあんまりふかいのぞみはないようなから、すへの百より今五十といふことをわすれぬようになされそうろ。……いっぺん、でぐちきようそと、やくいんへあつさみまいのてがみおだしなされそうろ。いろはばかりでかいておくりなされそうろ。……おふでさきのたいもうも、じっちがだんだんでてくるゆへ、かいしんしてくだされそうろ。くわしきことはまたあとから――。
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