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文献名1出口王仁三郎著作集 第2巻 変革と平和
文献名2第2部 社会批判の展開よみ(新仮名遣い)
文献名3世界の縮図よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-07-22 04:05:59
ページ132 目次メモ
OBC B195302c18
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本文

   端書
 十二月二十五日はキリスト教のクリスマスとかにて、お隣のキリスト教会に牧師が半ば泣きごえをしぼり出し、「天国は近づけり悔い改めよ」と祈祷の声のいぶかしく、王仁之を聞いて大に感ずる所あり、即夜此稿を書き初め翌二十六日夕書終る。
あなおかしこあなおかしこ
(大正四年)

   一 宗教家の根本的誤解
 「天国は近づけり悔い改めよ」と絶叫して、万民の為に十字架に登つて命と愛とを換えことしたイエス基督は、実に立派なエライ聖者で在ったに相違ない。崇敬すベき人格の高い神の子で在つたと讃美するも憂も無理ではない。併しながらキリストの絶叫してから、今に二千歳に成らむとするけれども、未だ一度も天国が地に降って来ない。近づいた天国が二千歳も地上に来らず、悔い改めの真意義に達した現象がない。悔い改めざるが故に天国が来ないの乎、天国が来ないから悔い改めないの乎、兎も角も、双方ともに実現する事が非常に困難であつて、基督教国に未だ天国が来らず、修羅の現象はいつの世にも同様に、吾人の眼に映じて居るのである。
 印度に出た釈迦如来は、三十二相八十種好の紫磨金色の仏であつて、其の荘厳端正なること比喩すぺきものがない。加之其の説法には大乗あり、俗諦あり、真諦あり、真に至れり尽せりの教義である。
 細を穿ち微に入り、一代の説教は無量無限であると謂うても好い。然るに釈迦の出たる印度は、疾くの古に滅亡して他の属国と成り、次で仏教国たりし所の東洋の諸国に、仏教の最高理想とする所の娑婆帰寂光の真意義が現われた事もなく、即身成仏の人として数うべき人が、古往今来幾人在ったであろう乎。
 地獄に陥るものは大地の砂の数よりも多く、仏になるものは爪上の土よりも稀であると云う。実に仏教は難信難解の宗門である。西方の阿弥陀仏からは今に一度も通信が無いので、幾人の浄土参りが出来たかは知る事が出来ぬけれども、大乗仏教の真意義は娑婆即寂光にあって現在安穏に在るを以て見れば、仏教国に未だ一度も極楽が築けた時が無いと云うても差閊あるまい。
 仏教の理想は三千年を通じて、未だ一度も実現した事がない。或はある一部の人々、少数の人々をして開悟せしめたという利益は、永い間には在ったかも知れない。或は多少世上の風紀上・道義上に利益した点が無いでもなかろう。然しそれは大乗仏教の究極の目的ではない。少数とか一部とかいうようなことをいうのは小乗教の事である。大乗教は十界同時の成仏であって、天国極楽を斯土に求めるのが本義である。然るに仏教のこの本義は、三千載を通じて一度も世上に実現したことがない。キリスト教は二千載を通じて其教義が未だ地上に現出せず、仏教は三千載を通じて其理想が未だ地上に毫も陰影を止めないのである。
 二千載三千載ばかりは、宗教家の眼から見れば実に一瞬間と見えるかも知れない。併し随分二千載三千載は人間から見ては短かい時間ではない。然も其間に無心なる献身的な伝道者が沢山出た事で、この二、三千載の間に於ける仏耶の発展に、或る意味から謂えば随分広くも深くも伝わったと云うて好いであろうと思うのである。幾多の伝道者が犠牲と成つて熱心に弘通したのは確かである。然も仏教も基督教も、未だ毫も素志を達する事が出来て居ない。如斯な有様で、果していつの世にか其素志が達せられようかと、吾人は疑っても見たくなる。二千載三千載の永い過去の経歴を以て、未来を推考した時に、宗教を職業として居る特殊なる人々の考は別として、永く冷静に考えて見た時に、過去を以て未来の予想が大概は着くではないか。五百歳等の語が出てからも、最早六百載の余になるではないか。
 仏教やキリスト教を以て、誠に役に立たぬ教とは云わぬ。まだ夫れまでの断言はせないが、過去を以て将来を推考して見ると、本当の基督教、本当の仏教が採るべき手段、採るぺき途に於て、欠陥がありはせぬかと言うて見たくなる。吾人は、キリスト教や仏教が従来のままの方法や手段や途を辿るのでは、永遠に彼等の目的は達せられないものと断言する。仏教は大乗と云う意味が解って居ないのではあるまいか。キリスト教は天国の真意義が本当に解って居ないのではあるまいか。真実の天国が判れば直ちに分らねば成らぬ事柄が必ずあるに、未だキリスト教にては夫れに気が附いて居ないようである。『馬太伝』の祈祷の詞を熟読して見よ、何と書いてあるのか。『馬太伝』の祈祷の詞が分らなければ、キリスト教は分らないのである。この『馬太伝』の祈祷の詞は外国人には到底分らぬのだ。日本人でなくては分らないのだ。如何にも偏頗な事をいうようであるが、其の通りである。天国の国体及び天国の政体が、この祈祷の中に説いて在るのだが、その天国の国体も政体も外国人には全然分らないのである。その天国が近づくと謂ったのみでは一向に分らないではないか。
 天国とは何ぞ。其国体は如何。其政体は如何。これが充分に分らねば、キリスト教は有名無実のキリスト教である。いかに絶叫したとて天国が来て耐るものか。永遠に天国が来る筈がない。天国を知らずしては悔い改め方もないようなものだ。天国の人と成るがために悔い改めを為すのではないか。悔い改めと、天国とは、隔離して居る筈がない。然るにキリスト教は、天国と悔い改めとが隔離して居る。更にその天国が本当の天国ではない。『馬太伝』の祈禧にある天国でない。現今の如き天国を説くに於ては、キリスト教は永遠に駄目で以て果るのである。これが渠の運命であるのだ。宜なる哉、二千載の熱烈なる運動も全く画餅の如きものであるでは無いか。これがキリスト教の根本誤解からくる結果である。議論が必らずある事であろうが、希くは承りたいものである。
 仏教に於ても、キリスト教と同様の誤解がある。仏教は理論だと思って居る輩には論じた所で分らない。尠くとも仏教の要は、立正安国に在りという程の人々ならでは吾人の説は分るまい。馬鹿げた論をするよりも信徒でも殖して、美衣美食に耽るの考えを廻らし玉え。西方に極楽があるなら在るでよい。
 仏教は高尚なものだ。信仰が根本だ。仮令八万の法蔵を知るとも、後世を知らざるものを愚者とすなど謂って、信仰の無いものは相手にせぬなど、高く構えるが良かろう。国賊等や亡国病者には、此方から接近を御免蒙るのである。一切衆生と共に艱苦を伴にし、安楽を共にせないような宗教家は、小乗時代の採るに足らぬ手合である。極楽へ往つて何とするか。自分の親も兄弟も地獄で吟呻して居ても、自分は蓮華台上で栄華を極めようとするのか。斯様な教義が世の秩序を害い、人を地獄や餓鬼畜生に陥し入れた罪は夥しいものである。仏教の要は前にもいうごとく、現世安穏、後世善処であるのだ。現世安穏は治国安民である。政治を無視した宗教が何の役に立つものか。極楽国土の国体や如何。政体や如何。極楽国土の国体も政体も知らずに、何をウロウロ神聖なる大日本国で囁言て居るのだ。宗教は全く亡国の因である。
 宜なる哉、仏教国は悉く亡国に瀕して居るのである。最早亡国を実現して居る所も眼前にあるのである。教祖の国が既に然りで在る。可恐々々。幸にも日本国は仏教に司配されずして、却て仏教を司配して来たから、現今の有様で維持したけれども、仏者に油断したら、今に教祖の国同様の運命に至る事は明白である。仏教家に根本的誤解があるとは茲である。極楽の国体や政体が分らないで、何を説く考であろう。阿弥陀経や法華経の読める僧侶が日本に幾人あるだろう。僧侶は毎日アミダ経も法華経も誦んで居るけれども、論語読の論語知らず以上に可憐な輩のみで、一度も仏教と日本の御皇位との関係が、経文に明記してあることに気が附かぬであろう。好しや多少気が附いて研究して居る僧侶でも、曲解されずして、天国も極楽も来るものでない事に気がつかなければ、仏教もキリスト教も廃絶は眼前である。
 二千載や三千載の長い過去が充分に証明して居るのである。寧ろ廃絶するのが当然であろうと思われる。
 大日本の皇道は毅然として、彼等の千辛万苦を一朝に成就し給う大偉力がましますことを傍観せよ。
 宗教家が大誤解を懐いて居る間は、夜が明けないのだ。草薙神剣(艮金神)の威力が当然加えらるべき約束かも知れない。仏耶の徒は議論が好きだ。必ず余輩の言を此のままに聞き捨にはすまいが、併しいかにアガイても駄目である。科戸の風や吹く時の用意せよ。世を改造すべきの用意せよ。

   二 宗教と政事
 王仁前章に於て、現代の既成宗教は悉く小乗教の域を脱せないと論破した。火星に人類若しくは人類類似の生物が生存するとせば、彼等は苦辛惨憺して空気の保存に腐心して居ると云う学説がある。然るに地球上に生存して居る我々は、空気の保存に一度も腐心した事がない。殆んど吾人は無意識に空気中に生存して居るのである。空気の保存なんかは、毫も顧慮しなくて好い問題である。
 寒くば火鉢に暖まれという、火鉢で足らねば暖炉にせよという、暖炉を設けて重ね着して尚お寒くば何とする。酒でも飲んで炬燵に暖まれという。実に注意周到な御教示である。併し私には炭火もあり、重ね衣する衣服も有れど、貧困者は何としよう。私は炬燵に這入て居って暖くとも、隣の杢兵衛は夫れが出来ない。大家の旦那は酒を呑んでストーブに暖まって居るが、私には暖炉の設備が出来ませぬ。酒も嫌いです。そんな事は世の中に何程もある。
 大風呂を沸して、向い三軒両隣の人々を招いて、素裸にしてその大風呂ヘブツ込んで見給え。十人でも二十人でも一時に暖まつて、誰彼の差別なしに同様に暖いから、着物を重ねる世話もなく、炭火を購う要もない。裸体ほど一視平等のものはない。誰の羽織が絹物で、誰の衣服が木綿物だと議論する必要がない。一様に温かい湯は、誰にも同様に温かいに相違ない。吾人は、炭火を用意せよ、着物を重ねようという教を小乗と謂い、風呂へ入れる教を比較的大乗だと仮りにいうて見たいと思うのである。
 ヤレ修養だとか、ヤレ修行だとか、ヤレ道徳だとか、ヤレ宗教だとか謂って、種々の事柄を強いらるるのが、吾々の全体を通じた仲間に出来ようか。出来得る人も在ろう、出来得ない人も沢山あろう。彼の桃源に鋤犂を採って働いて居たという人々が、毫も悪事をせなかったというのは、渠等が幾多の修養を為し、幾多の修行を為した結果であろうか。
 周囲の空気が悉く花の香を含んで、春の光が普く人の上に輝く場合に、誰が悪念を抱くものがあろう。抱かんと欲するも得べけんやである。無意識に善人が集団して、自然の天国が茲に開けるのだ。社会が淆濁した時に個人の修養が叫ばれ、世の中が乱れて来ると、個人の修徳が重んぜらるるものである。古書や古人の言を引用するまでも無い事である。
 世を悲観する際に宗教が起ったのである。現界の不満に対して、幽界・幽事の願求が現われるのである。真実の生活には顕幽の隔別がない。顕幽の別れ始めが、人間の堕落の第一歩である。
 現代の既成宗教が説く所は、悉く堕落した教義であり、個人に修養を勧める所の小乗教である。一つとして大乗がない。大風呂ヘブツ込み、桃源を実現する用意がない。換言すれば、政事を忘却して居る所の閑人間の政務である。
 平天下が修身・斉家に始るとは、『大学』の謂う所である。修身・斉家が出来ずして、平天下が望めないのは当然かも知れぬが、本が乱れて末治まるものは非ずという語も深く味って見ねばならない。火星の人類は空気の保存に、痛く腐心せるかは知らないが、吾人は空気の存在を意識せぬ程に、楽しく生活が出来て居るのである。
 無上の政事・理想の政道が世に施かるる事となったら、どんなものであろうか。その時にも矢張り、八釜敷修身・斉家を謂わねば成らぬもので在ろうか。古い話だが、「大道廃れて仁義有り。乃至聖を絶ち智を棄つれば、民の利百倍。仁を絶ち義を棄つれば、民孝慈に復る。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊有ること無し」では無かろうか。上に政道が乱れて下に修徳を強らるるより、悲惨な世の中はないのである。政道が正に復して、万民修徳の必要を感ぜないより結構な世の中はないのである。
 宗教即政道、政道即宗教であつて、現土に創めて天国が来り、浄土が実現するのである。然らざれば幾千万載待った所で、仙代萩の千松の様に、天国も浄土も実現するのではない。政道即宗教の本義を称して、祭政一致と謂うのである。現代の宗教家に、一人も斯様な意義に心着くものは在るまい。大日本皇典(大本教)は、畏くも祭政一致の御本義を説かせ給うこと、最も詳細を究めさせ給うのであつて、宇内宝典の第一の神髓に渡らせ給うのである。
 宗教家は、直ちに反抗して謂わむ。政事なるものは、現在一応の事であって、永遠の未来に渉って効果があるものでない。現在は実に刹那の幻影にして、未来は永劫の実在土であると。
 仏者、仏教をしらずとは善く謂つたものである。現在とか未来とかいうものが、切り離して別々にする事の出来得るものと為して居る。真言の即事而真(現象即実在)、天台の娑婆即寂光などは、皇典の真義を傍系的に伝えた確論である。加之、皇典は顕幽不離の上に於ける、天壌無窮の祭政一致を立証し給うが故に、諸宗教の根本地であり、諸宗教の統主なのである。
 大正と謂う御代の言義は、「大に正す」の御代である。大に本源を正し、大に国基を正すべき御代である。其大根本を正し得て、而して後に創めて政道が厳立するのである。
 神武天皇の御詔勅に曰く、
「上は則ち乾霊の国を授けたまひし徳に答へ、下は則ち皇孫の正を養ひたまひし心を弘めむ」
 開祖の垂示に曰く、
「今までは大の字、逆さまの世でありたなれど、この大本から大の字を本様に正すぞよ。云々」
 正は政である。政は正を幕となす。養正の二字に深く心を留めて拝誦すべきである。
養正の御成立あつて、「然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむ」の大理想に達し給うのである。
 開祖の垂示に曰く、
「元の昔の神代に正すぞよ。都を開ひて、三千世界の世の持ち方を大正するぞよ。これも天の時節が参りたのであるぞよ。時節には何も叶わぬぞよ。時節ほど結構なものはないぞよ。云々」
 日本国の使命を知れば、一切の宗教が蘇生するし、日本国の使命を忘却すれば、一切の宗教は滅亡するのである。
 日本の皇典は飽くまでも経学である。自余の一切の学は緯学である。経緯相識りて、燦爛たる日本錦は、織り成さるるのである。
 凡そ大乗なるものは、大乗の国に於て起るベきものであり、大乗の起るベき時に到って起るベきものである。世界を救うベき大乗の起るのは我日本国からであり、開祖の神示の如く、「神も仏事も人民も勇んで暮す世になるぞよ」との、大正の御代なる事を忘れてはならぬのである。
 祭政一致の先駆を為す所のものは、右手に剣である。左手に経典である。右手の剣を草薙剣(艮金神)と謂い、左手の経典を皇典『古事記』(大本教)と謂うのである。
 日本国民が草薙剣の御本義と、皇典『古事記』の御本義を了解し、其の御本義のまにまに決行する時こそ、祭政一致・天国到来の秋である。国民たる者、何ぞ勇奮せざるや、奮励努力せざるや。

   三 天国と大日本国
 王仁曾て基督教の有名なる、某々教師に向って、「天国の国体や如何、天国の政体は如何」と、詰間をした事が在ったけれども、何人も吾人の詰間に対して、満足な解答の出来るものは無かつた。
 彼の「天国は近づけり」と叫ばれた天国は、果して何麼御国であろう、「天に成るが如く地にも成らせ給え」と謂う事の真意義は如何に。……明確なるキリスト教徒の答が聞きたいものである。
 日本国の祭政一致の真意義は、神の国と人の世との真釣ごとの意義である。度衡に物を懸けて相等しく真釣合す義である。祭も政も此の外に何等の意義もないのである。天国と人の世との真釣の外に、我邦の行事には一とつも他の事はないのである。
 日本の国体のままが天国の国体であり、天国の国政のままが日本国の祭政であるのである。天国即ち大日本で、大日本即ち天国・神代である。世界の幾多の国の中で、真実に祭政の意義が成立せる国は、日本ばかりである。日本以外の国には、祭政が成立せないのである。祭政が成立せずして、どうして天国が地上に来るであろうか。祭政一致の成立せない祈祷は、形式的虚偽的祈祷であって、祭政一致の行われない国家は、永遠に地獄の域を脱する事が出来ないのである。
 現今の日本国は有名無実の日本国で、祭政一致の本義が国から忘却された有様である。到底大日本国と、名称する訳には行かない。生存競争・弱肉強食の一般世界の現状と、毫も異なる事なき有様は、専ら皇典の本義が消失して、祭政一致の大根本が枯渇した証である。
 天国を地上に降し、濁悪の世の中を変じて、清浄な荘厳土にする事は何等の困難がある訳ではない。
 只単に祭政一致の本義を復活するまでである。
 神代の昔に於て、天国の儘の国土を地上に移し写させ給いて、大倭豊秋津島を造り遊ばしたのである。「天国の国体を其の儘に天の下を治しめせ」と宣して、其後世界統纜の大君を降し給うたのである。
 天国には四ヶ条の大神律が立てられて居るのである。曰く「天壌無窮」、曰く「万世一系」、曰く「清浄潔斎」、曰く「和合至楽」、之である。
 開祖の垂示に曰く、
「天地の間はいついつまでもおなじ誠で立通うす神律が定まるぞよ。天の御三体の大神が、地へ降りて四魂の御玉も揃へて、万古末代続く天子天下に致すぞよ。この穢れた世を洗濯致して、水晶の神の代に立て直すぞよ。神も仏も人民も、餓鬼昆虫までも勇む世になるぞよ。いくさといふ様なむごい事のない、善の代に致すのであるから、日本の人民一日も早く改心なされよ。世が治まりたら善一筋の松の世となるぞよ。これを誠の神国とも神代とも申すぞよ。云々」
 右の神示に因るも、天国・神代の四ヶ条の神律が下されてある事が明かである。現今の上下を通じての官民は、この開祖の神示の天より降下されたるものなる事を知らないで、只単に天理教や金光教の如き営業的宗教視して居るのである。今に眼の醒める時が来るが、其の時こそは実に今日の人民も官吏輩も気の毒なものであるとおもう。
 諸宗教に於て本尊論・仏身論・神論等は八釜しく論ぜられるけれども、天国論が未だ粗略であり、且つ杜撰である。本尊即国土示現に到達せぬ宗教は、浅薄な宗教である。万世一系・天壌無窮の大本尊が成立せなければ、宗教の根元は浮草にだも及ばぬものである。何ぞ至楽清浄の天国が、斯土に築かれるものぞ。至楽大和は、日本ヤマトの使命である。ヤマトは「和はし」「和はす」の活用である。罪悪を根本的に排掃するのが、潔斎の法である。
 潔斎には、大潔斎がある。六月と十二月の大祓の太祝詞は、大潔斎の法である。大潔斎は天地間の障気排除の神事である。国家の上に起る罪悪の潔斎である。この大秘事に関して、日本人中に一人も本義を知つた人がない。大祓の太祝詞を正しく解した人は、二千年来日本国に出なかったのである。天津金木、天津菅曾の運用なぞ、誰か夢にも心附くものが在ろう。然るに時運は艮金神出現の神代に到着して、天津金木の運用を、人の世に知らしめ給いて、至楽大和の天国を斯土に築くの基を示させ給うこそ、尊き限りである。
 吾人の言は些の誇張もなく、真実大正の告白である。天下の至誠の人のみ、吾人の語に耳を傾けるであろう。耳を是非とも傾けねばならぬ方々が、耳を傾けらるる暁が、創めて皇典(大本教)発祥の曙光である。
 万世一系・天壌無窮・至楽大和・清浄潔斎の四大神則を神器に写させ給うたのが、彼の畏れ多くも三種神器に坐ますのである。三種神器の御伝承が、即ち天国伝承の確たる御証であらせらるるのであって、三種神器の御伝承こそ世界統主の御実義を、保証遊ばす大々的重大事であるのである。
 天国は先ず日本国が真個の日本国に復帰して、而して後に其の余光が遠く一切の国土と万有との上に及び、大至楽の天国が栄える順序である。
 此等の大々的事件は詳細に載せて、皇典『古事記』(大本教)の文底に明に示させ給う事柄で在って、天津金木の運用、言霊の妙用が之を立証するのである。アア、究むべきは皇典大本教である。焦眉の急なるは皇典大本教の研鑽である。
 大日本国の国体が、天国の儘の移写である事は前段既に略述した通りで、其御即位の大典は天地御継承の一大秘事であって、実に森厳窮まりなき御儀式に渡らせらるるのである。御即位式の大典は登極令に於て定めさせ給う所で、我々の嘴を入るべき限りではないけれども、天津金木に拠て研鑽したる御儀相は、最も天国自然の大秘事を示させ給える事たるを聊か記するに止むる次第である。
 天上至楽の御政道を、地上の青人草の上に施し給う幽玄神秘なる大々的事件が、神誓神約として万世を通じて無窮に伝わりますのは、如何に尊き極みではないか。
 我等は日タ大祓の太祝詞を拝誦して天国伝承の深き御旨と、国家経綸の根深き大法を発揚せむ事を心懸けなければならぬ次第である。
「高天原に神留ります、皇親神ろぎ神ろみの命もちて、八百万の神等を神集へに集へたまひ、神議りに議りたまひて、我が皇御孫の命は、豊葦原の水穂の国を、安国と平らけく知ろしめせと事依さしまつりき。かく依さしまつりし国中に、荒ぶる神等をば神問はしに問はしたまひ、神掃ひに掃ひたまひて、語問ひし磐根樹立、草の片葉をも語止めて、天の磐座放ち、天の八重雲をいづの千別きに千別きて、天降し依さしまつりき。かく依さしまつりし四方の国中に、大倭日高見の国を安国と定めまつりて、下つ磐根に宮柱太敷き立て、高天原に千木高知りて、皇御孫の命のみづの御舎仕へまつりて、天の御蔭・日の御蔭と隠り坐て、安国と平らけく知ろしめさむ云々」
君、大臣、臣、民の位明かに定まりませる天津神国
草薙の剣の稜威あれましてなぎはふりませ四方の醜草
諸々のしこの教も失せ行かむ八アタか望みの光り出づれば
つがの木のいやつぎつぎに栄えます天津日嗣は八尺勾聰天の下治むる道を詳らかに説き示したる八阿多御鏡

   四 蜻蛉の臀呫の真意義
 日本人が日本国を讃美するのは、御国自慢の常性からであると云うものがある。大日本国は天国の移写であるといえば、少し許り似て居たとて、直に移写とは早計だというものもある。
 日本が天国の移写であると云う点は、大小一切の要件を具備して居るから云うので、少し許りと云う程度では毛頭無いのだ。請う、何等かの方面に、其一致せざる点があるだろうか。問い糺すぺき問題である。有名無実な現代の誤れる部分を、比較する事は非法である。根本の国体・政体を比較せねば成らぬ。筧博士の古神道などは、この証明の一部を為して居るものである。
 天地初発の時に於て、天地の父母の神は一切の国土を産みましたが、特に御心を傾けて産み給うたのは、豊秋津洲であったのである。豊秋津洲に其核とも称すベき、同形小型の国が成立して居て、これを「根別」の国と謂うたのでる。実あれば核あるは、天地の通理である。核は新植物の素体なるも亦天地の玄妙なる通則である。(『古事記』参照)
 豊秋津洲は地球である。而して根別の国は我大日本国である。大祓詞に「豊葦原瑞穂国」とあるは、豊秋津地球の別名で、「大倭日高見」とは根別日本国の別名である。
 豊秋津洲は地球の亦の御名秋津根別は日の本の国葦原の瑞穂の国は地球なり我大日本は日高見の国
 考証は幾多の紙面と、幾多の時日とを要するが故に、今は之を省くより仕方がない。省略の背後に幾多無量の研鑽産物が蔵せられて居る事を記憶せられたいのである。
 試に世界地図を披いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究して見よ。其の如何に類似し、其同一典型に出でたるかの俤を認むるに難からざるかを。
 世界の各大洲に、幾多の変遷が在ったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今や其形容を甚しく変化せしめては居るが、神誓神約の太古の趣は、髣髴として之を認めるに難からざる次第である。
○濠太利──四国
○阿弗利加──九州
○北亜米利加──北海道
○南亜米利加──台湾
○亜細亜・欧羅巴ハ本州
 右の対照を地図の上に於て、仔細に精査したならば、思半ばに過ぐるものがあるであろう。
 神武天皇が、腋上廉間丘に登りまして国状を廻望し給い、
「妍哉乎、国を獲つること。内木綿の真サき国と雖も、蜻蛉の臀岾の如くあるかな」と仰せられたのは、大小の秋津洲の環状を為して、互に密接の関係のあるを示させ給うたのである。
 今日もまた可惜一と日を暮しけりおもふ手業の半ばならずに
 日本は世界一切の中枢である。文芸・宗教・教育・其他あらゆるものの枢府である。熱帯に枕し、寒帯に脚を延ばし、あらゆる気候、あらゆる土質・風土の凝聚地である。即ち世界一切の小縮写である。世界の典型である。否、世界万邦の中つ国として、万国統治の中府である。霊域である。この霊域日本国の中府に天御柱アオウエイの母音なす金竜海が神示に因りて築かれたのである。名けて大八洲と称し、世界の縮写とす。大八洲を分ちて、本州(本邦)・四国(リンゴ島一名矢的島)・九州(岩戸島)・北海道(大島)・台湾(小島)、外に男島・女島を築造し、以て豊秋津根別の国の神霊を奉斎せるも、深、甚遠大なる神誓神約の在します事であって、今は発表する事が出来ないのである。
 木村鷹太郎氏の『日本太古史』は、地理・歴史上から日本国の範囲の偉大なる事を考証して、頗る皇典の光を発揮した大学者であるが、大小秋津洲の関係を了知されないから、何時日本人が希臘方面から此土に来たかの証明に窮し、幾多の歳月と多量の黄金を以てせずば、知るの手段が見出せないと謂って投出して居るのである。若し木村氏の従来の儘の考えなれば、幾多の歳月と多量の黄金が在っても、トテモ駄目である。心気一転して、蜻蛉の臀呫の研究に向わねばならないのである。
 地球は天球の縮図である。而して日本国は地球の縮図である以上、歴史が変遷して、大小の秋津洲が、今や相疎隔して何等の関係無く、寧ろ仇讎の如き間柄を現わさないとも限らない有様ではあるが、物は必ず其本源に立ち帰るベき者であれば、皇典『古事記』・大本教の光が世に出て、日本国内の整理が充分に行われて、本来の面目に復帰した時に、必ずや世界の大統一が実現して、天国本来の寂光土が此の世に発現すべき事何の疑なき次第である。
 皇太祖大神の顕現し給いて、神示を垂れさせ玉い、言霊の稜威に因りて、皇典大本教発展の際にあらずんば、天国も浄土も斯土には降らんのである。此の際を、弥勒の出世・松の代の出現・キリストの再生・荒木棟梁の御門参りと申すのである。

   五 大本教三大篇(一名、大日本国教)
国政論は、之を組織的の一大雄篇として、世界万民の宝典となすべきである。国政論は三篇に別かれて、
(一)神祗篇  (二)皇位篇  (三)祭政篇
 第一神祗篇は本体論である。第二皇位篇は継承論である。第三祭政篇は実行論である。この三大雄篇が、世界統治帰一の大法を示すのである。之を三種神器に配し奉れば、第一神祗篇は五百津御須麻流珠の御真義である。第二の皇位篇は八咫鏡の御真義、第三の祭政篇は草薙剣の御真義である。大本教三大編、是実に天地至上の唯一宝典である。万有の斉しく崇敬すべき無二の経学に渡らせらるるのである。
 大本教とは、現今我国に流行せる神道宗教十三派と同一視する人もあるであろう。然し大本教とは皇祖の御遺訓・皇典『古事記』の別称であって、言わば皇典『古事記』真解とも称すべきものであって、決して現今の如き宗教ではない。祭政一致の神国を来すべき大本大神の御垂示である。今日の螢火の如き光りを放つ宗教は、偽宗教である。太陽の上天して光りを失う螢火宗教は、暗黒時代の子供の弄びものに過ぎないのだ。真の宗教というものは、決して政事と隔離するものでない。亦顕幽隔離するものでない。真宗教というものは、今の世に探し求めたならば、吾人も直に皇祖の御遺訓・『古事記』の真解者大本教だと答うるに躊躇せないのである。
 大本の神の教は皆人のならひて進む大道なりけり。

(『神霊界』大正七年四月十五日号、五月一日号)
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