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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >2 おいたちよみ(新仮名遣い)
文献名3藩政の実態よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ39 目次メモ
OBC B195401c1122
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本文  そのころの福知山藩では、前にも少しふれたように、特権的な大商人たちと結託した藩権力が、おそるべき苛斂誅求をやっていた。すなわち、財政危機に苦しんだ福知山藩は御目附役原井惣左衛門を帰国させ、一八四二(天保一三)年、領内に倹約令を布き、二五俵扶持の足軽にすぎなかった市川儀右衛門を抜擢して改革にあたらせた。その市川は厳重な倹約を励行させるとともに、特権的な大商人と結んで藩営専売を行なった。この専売業は、「札座」「正直会所」と呼ばれる藩営の物産取扱所を設け、そこを通じてのみ売買を許すものであった。その対象となる物品は、はじめは桐の実・生糸・楮・漆などの有力な商品作物にかぎられていたが、のちには蔬菜や果物はもとよりのこと、古道具・小間物・細工もの・割木・炭・ぬか・酒のかす・紙くずなどにさえ及び、それららはすべて「正直会所」にもって行って賦課金を納めなければならなかった。倹約も厳重をきわめ、絹布類の使用を禁じたことはもとより、余分な衣類を調べて売らせ、その代金を「札座」へ預けさせたり、領民のすべてに一日三勺あて食糧を倹約させたりするものであった。
 なおが成人したのは、ちょうどこうした改革が進行しつつある時期であった。少女の頃から物がたい性格でつつしみ深く、乱雑なことがきらいであったなおは、その奉公の時期にあっても実直であり勤勉であって忠順な奉公人として主家につかえ、また孝行娘として他にぬきんでた存在であった。なおはその当時をふりかえって、「自分は子供の時から、なおさんと遊べ、おなおさんと遊べといわれた位であり、またどこに奉公しても、お前は冥加のよいものじゃ、なおは辛抱人だ、世帯をもったら、きっとしっかりした世帯をもつに違いないとほめられ通しであったんや」と誇りをもってのべている。主人や母や周囲の人たちからほめられればほめられるほど、なおはこれらの人たちの期待にますます多くこたえようとつとめ、おのずからなる信念に支えられて自分の生活態度に自信と誇りをもち、矜持のたかい人間になっていった。
 なおはすでに六、七才のころに、「みろく」の世がくると予言したといわれるが、衣川家に奉公していたころには、ときどき三日くらい姿がみえなくなり、夕方ボンヤリして帰ってきて、山の中で修業してきたと語ったといい、また、しばしば予言をしてよくあたったという。こうした神秘的な体験は、日常生活においても、神が見ているから悪事をしてはいけないという生活態度と結びつき、実直で勤勉な人生態度を形成させるのに大きな役割をはたしたということができよう。
 当時の福知山藩では、極端な倹約策が強行され民衆の生活はみじめなものであったが、なおにとっては、倹約の励行はむしろ当然のつとめとして進んで実践され、封建的な支配の過酷さをたしかめる方向には進まなかった。だからその後のなおが幸福な生活をいとなんだとすれば、なおは従順で勤勉な模範的な民衆の一人となったはずである。だが、なおのその後の生活にあっては、どんなに超人的な勤勉や実直をもって努力しても、ふりかかる不幸をはらいのけることができないという事実が、つぎつぎにおこってきた。そして、そこに、個人の努力では払いのけることができない根源的な人間の不幸や悪の問題が、ぬきさしならぬ必然性をもって提起されてくるのである。こうした宿命的な事実の体得が、なおの「苦労」の意義であったということができよう。
 一八六〇(万延元)年、ついに、福知山藩の極度の収奪政策にたいする領民の不満はたかまり、福知山藩領全六三カ村による大一揆がおこった。この年の八月二一日朝、村々では早鐘を打ちならし、一五才から六〇才までのすべての男子は一揆に参加するように呼びかけながら、民衆はたちまち、まず丹後口の衛門を破って城下へ入り、藩士は家族とともに城中に逃げこんだ。民衆は「札座」「正直会所」を打ちこわし、藩の政策に便乗して利益をむさぼった商人を城下で約一二〇軒、村々では村役人など約一〇〇軒を打ちこわした。
 この一揆は三日間にわたってつづけられ、藩側は農民の要求をすべて認めて一揆は勝利し、改革の責任者として原井は切腹、市川は国外追放になった。
 この一揆は、なおが桐村家を出て綾部に移ってから数年のちのことであるが、さきにのべた諸政策が推進される時期に成人し、こうした藩権力から孝行娘として表彰されたと伝えられるなおにも、この事件は大きな影響を与えたであろう。一揆に立ちあがった民衆が、村役人や特権商人を打ちこわして旧秩序を破壊し、あらたな秩序の建設を求めることは、大本の根本思想である「立替え立直し」という言葉に通ずるものがあった。一八六〇年の大一揆において、いま残っている記録には「立替え」「立直し」という言葉こそ見出せないが、農民の要求をまとめた一三カ条のなかに見られる「立戻し」という言葉には、「立替え」「立直し」に近い現状打破の願いが感じられる。
 桐村家ではその後、妹りよが、一八六一(文久元)年になくなり、まもなく紺屋町から岡の段に移り、兄清兵衛が相続して漆屋を業とした。母そよは一八六五(慶応元)年一〇月九日(旧八月二〇日)、なおが二九才のときに帰幽した。つづいてその年の一〇月二〇日(旧九月一日)、祖母たけがなくなった。

〔写真〕
○米久呉服店 p39
○福知山藩主 朽木倫綱の扁額(一宮神社蔵) p40
○桐村家の墓(福知山市法鷲寺) p41
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