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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >4 維新の時世と生活苦よみ(新仮名遣い)
文献名3維新の風よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ57 目次メモ
OBC B195401c1141
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本文  明治維新の変革は、農民一揆の大波と、これにつづく、漠然とした世直しの期待をこめた「ええじゃないか」の狂騒的な流行を背景に、下級武士と、土着産業資本家の性格をもつ地主の指導によって実現した。倒幕・王政復古をかかげる新政権は、一年半余の、はげしい内戦をへて、日本全土の新たな支配者となった。この変革は、まだ丹波の、この地方の民衆の実生活を大きく変えるものではなかったが、廃藩置県が断行され、土地売買の自由や職業の自由が公認されると、巨大な社会変革の波が民衆の生活をまきこむことになった。変革のおもなものは、一八七三年にはじまる地租改正、この地租改正によって取りたてられる金納地租を積極的に投入した近代化・資本主義化のための諸政策、国民皆兵の原則に立つ徴兵制、義務教育制の採用などであった。これらの諸政策は、数百年来続けられてきた民衆の生活や習慣を根本から変革しようとするものであり、しかもそうした変革を、天皇の古代的な宗教的権威を擁する、強大な中央集権的統一勢力による民衆への威圧と教化をつうじて、一挙に実現しようとするものであった。
 こういう動向は同時に、幕末の動乱期に、民衆の生活に根ざして成立した一連の民衆宗教にたいする、政府の、啓蒙的・文明開化的な理由をかかげての干渉・圧迫をもたらすこととなった。天皇制政府の禁圧にたいして、ちょうどこの時期に、河内から大阪へと発展しつつあった天理教は、根づよい抵抗をつづけ政府をきびしく批判した。天理教の『おふでさき』には「高山のしんのはしらハとふじん(唐人)や、これが大(第)一神のりいふく(立腹)」(三ノ五七、明治七年)「これまでハよろづせかいハ上のまま、もふこれからハもんくかハるぞ」(三ノ一二二、同)という権力批判の言葉がのべられている。天理教は大和盆地の先進的な農村において、急速に没落していった地主の主婦中山みきによってはじめられた民衆宗教であったが、現世利益を中心として、近代社会の形成に際してその犠牲となった貧民を、救済しようとする強い志向をもっていた。また、中山家が所在した丹波市は「おかげまいり」の群衆が通る街道筋にあたっており、みきは一八三〇年の「おかげまいり」と一八六七年の「ええじゃないか」を身近かに体験した。天理教の「陽気づとめ」は「ええじゃないか」における民衆の宗教的高揚を直接の背景としたものであり、その教義の基礎もこの時期に形成された。
 明治維新は、二本の近代化の出発点であったが、しかし、それは神武創業の昔にかえる「王政復古」を中核的なイデオロギーとして遂行された。神仏分離と廃仏毀釈、さらに神道国教化政策は、幕末維新の政治運動を支えた主導的なイデオロギーであった尊王思想や、神国思想を現実化し、国民の生活原理にまで徹底化しようとするものであった。廃仏毀釈は、各地で寺院や仏像の激しい破却を伴い、北陸・三河など浄土真宗地帯では、それに反対する農民の護法一揆がおこった。こうして長い間、封建支配の一環としての民衆の信仰を支えてきた仏教は急速に権威を失い、神道が国家主義や天皇崇拝と結合して、強い支配力をもつことになった。神道思想は、一面では民衆のなかに深く根をおろしたものであったから、神道意識の発展は、ある意味では民衆の社会的自覚の宗教形態であり、「ええじゃないか」や天理教・金光教は、そういう立場からする支配階級への批判をふくんでいた。だが、天皇崇拝と直結した復古神道のイデオロギーは、天皇制の思想的中核として位置づけられ、国民にたいするむきだしの支配原理ともなった。神祇官や大教院の実権を握り、神仏分離や神道国教化をおしすすめた平田派の国学者・神道家は、明治政府の開明政策にもはげしく対立する反動的支配を唱えた。のちに大本思想に重大な影響を与えた大石凝真素美と本田親徳は、どんなにささいな開明化=西欧化も拒否して、純粋な「王政復古」・神道政治を実現しようとする急進的な神道家であり、大石凝は廃仏毀釈に積極的に参加した。
 「御一新」は、「天朝様御親政」のありがたい時世の到来として、大々的に宣伝されたが、この変革は、丹波の小藩綾部と、さらには、その城下町のはずれに住む政五郎・なお夫婦に、どういう変化をもたらしたであろうか。
 明治維新にさいし、綾部藩は一八六九(明治二)年二月六日藩籍を奉還し、藩主九鬼隆備は綾部藩知事となり、一八七一(明治四)年七月綾部県となったが、一一月県を廃し京都府何鹿郡に編入された。一八七三(明治六)年におこった綾部地方の新政反対一揆(明六一揆)は、さきにのべたような新政府の諸政策に反対した民衆が、徴兵免除・裸体許可・社倉米を村々で積みたてる許可・学校入用金の免除などをもとめて蜂起したものであった。星原・里・小呂・有岡・上原・下八田・広瀬その他の地域の農民約二〇〇〇人が熊野神社・鳥ヶ坪・里の河原などに集まって右の要求を志太。これは綾部地方における最大の一揆であった。

〔写真〕
○王政復古(大総督有栖川宮熾仁親王の京都進発) p58
○1887(明治21)年ころの天理教本部 p59
○大石凝真素美 p60
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