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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第2章 >1 帰神よみ(新仮名遣い)
文献名3発動と霊感よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ86 目次メモ
OBC B195401c1213
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本文  この年旧一月五日の夜からはじまった水行は、神命によって七五日間つづけねばならなかったが、「経歴の神諭」には「明治二十五年の初発には、夜七へんお水をあびて、八へんめにモウよいとお言葉ありたなれど、モ一どあびて来うとおもうて頭から水をかけたら、水がハネて身体へ一てきもかかりはせなんだ」とある。開祖が神に仕える心になってからは、自分からすすんで水行をするようになった。
 このころ、開祖は篠山(丹波、兵庫県)に行けと神から命じられて、篠山に出かけたが、用意していた金もなくなったので、仕方なく、篠山街道栗柄の田中伊之介の絹糸工場で糸引きをし、綾部へ帰ってきた。
 ついで六月中旬には亀岡へ糸引きに行くこととなり、その途中、金光教の八木教会(中西貞子)に立ちより、亀岡滞在中には京都島原にある金光教会(杉田政治郎)をたずね、神がかりをしらべてもらったが見分けがつかなかった。のちに、大阪難波の金光教会(近藤藤守)にまいったときは、近藤布教師が開祖の神がかりをほめたという。
 八月ごろに亀岡から帰り、九月にはいると二回目の発動があった。日がくれると水行をし、神のご用がはじまって眠れないが、朝は平常のごとくあきないに出た。この発動は一〇日間でおさまった。
 翌一八九三(明治二六)年三月には、三回目の発動があった。「経歴の神諭」に「昼間はあきない、夜分は宵の口に一寝入りいたし、起きて水をあびて、神さまの前へ行きておれば、神さまのことがよく分かるが嬉しさに、七十五日寝ずに神さまのご用きいておりました。夜分になると寝させずに、能を舞わしたり、三番叟回したり、まことにめずらしきことが分かるから、夜分寝いでも苦にならぬ」とある。このときは七五日寝ずの行であった。
 四月一四日開祖は八木に行き、ひさの宅に一泊したが、一晩中荒れて発動がはげしく、そばにいたひさは朝まで眠ることができなかった。夜があけると、ひさは、夫寅之助が三日前に、園部に行くといって出かけたまま帰ってこないので、神さまにおうかがいしてほしいとたのんでみた。開祖は水行してから神に祈ると「福知山のさきまで行っておりたが、昼すぎに帰る」との神示をうけた。はたして、その日の午後二時すぎ夫が帰宅したので聞いてみると、神示のとおりであったという。
 翌日は王子に行き、栗山ことの宅に泊った。この夜も一晩中発動し、狩猟について庄三郎(ことの夫)を訓戒した。夜が明けると雨がふっている。「おしめり(雨)は風を出して吹きあげてしまうから、綾部へ帰れ」との神示をうけ、王子を出発すると、にわかに強風となり、一〇時ごろには上天気となった。八木までくるとまた雨がふりだしたが、「園部まで行けば、この雨ははれる」との神示であった。そのとおり園部で雨はやみ、きげんよく綾部に帰った。
 このころ、となりの本田彦吉の家に嫁とりがあったが、その披露の席で開祖は帰神となり、能を舞ったり、字を書くまねをして見せたという。このようにして、開祖の帰神はいよいよ深まっていった。

〔写真〕
○金光教八木教会 p86
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