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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第5章 >1 喜三郎の参綾よみ(新仮名遣い)
文献名3霊学指導よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ171 目次メモ
OBC B195401c1513
本文のヒット件数全 1 件/稲荷山=1
本文の文字数2094
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本文  綾部から帰ると、喜三郎は、とうぶん園部に落ちつくことにし、黒田の西田卯之助の座敷を借り、霊学会の名で舩井・北桑田にかけて布教活動を開始した。まず最初に、園部上本町の奥村徳次郎が熱心な信者となった。また、菓子屋をしていた友人の内藤半吾が、だんだんと霊学に興味をもちはじめ熱心に通ってきた。
 北桑田郡の方では、小林貞蔵の憑霊を退散させたり、井戸掘の人足が埋まっているのを助けたりした。またそのほか、瀕死の病人に鎮魂をして全快さすなどというような神徳をあらわした。
 こうして、信者や研究者が次第にふえてきたので、稲荷講社総本部の許可をもらって会合所をつくり、黒田や若森の里にも指導所をもつようになった。
 一八九八(明治三一)年の秋から翌年にかけて、喜三郎はいくつもの教会と憑霊者を訪ね、体験を重ねて自己の霊力に自信をますます深めていった。喜三郎がおとずれた憑霊者は、稲荷や狸などの単純な霊がかりで、喜三郎は容易にその霊を見破った。出向いたところは、山城の稲荷・宮川の稲荷・八木鶴山の稲荷・園部の横田稲荷など、稲荷関係が多かったのは、この地方の俗信仰では、稲荷信仰がもっとも大きな勢力を占めていたからであろう。
 山城の稲荷には真海という霊術者がいて、ランプのホヤをパリパリと食って信者を驚かしたり、肺の妙薬、筑波山のいもりと称するものをだしたりするなど、さまざまのあやしげな霊術を行なっていた。喜三郎は、これをことごとく見破ってみせたが、低級な霊術者の相手になっていることが、そのころから嫌になり、正しい霊学の宣伝をすることの重要さをあらためて感じるようになった。
 そのおりのことを、歌集『青嵐』では、つぎのように詠んでいる。〝欲という悪魔に魂をくらまされ迷ひ来にけむ世の人々は〟〝狐にもこころおとりしひとびとの朝夕人為の狐あがむる〟〝稲荷山迷信のさま目撃しまことの道の宣伝を感じぬ〟〝物質文明主義の世界の半面にかかる迷信ありと知りたり〟
 また、園部の黒田では瑞穂道会をつくって、喜三郎が会長になったが、そこでは横田稲荷の信者に妨害された。八木鶴山では稲荷おろしの家をたずね、御嶽教の稲荷おろしの老婆のインチキを見破って、その世話方をしていた有力者を霊学会に改宗させた。しかし、稲荷よりもはるかに重要なのは金光教との関係である。園部を中心とした、この時期の喜三郎の活動に、もっとも熱心に協力した上仲儀太郎(小地主)や内藤半吾(菓子商)らは、金光教の信者であったが、金光教の布教師たちの単純な現世利益の信仰に失望し、はるかに高度の神学体系と、すぐれた霊力をもっている喜三郎にひきつけられて、霊学会の発展に努力するようになったものと思われる。〝混交の教理はインテリ階級にそぐはず時勢遅れと(上仲が)宣れり〟とか、〝(金光教の教師は)神道直轄混交教会支所といふ看板楯に衣食す〟(『青嵐』)とかいう歌は、はるかにのちの作であるが、上仲・内藤らが金光教をはなれて、喜三郎の霊学にひきつけられていった動機の一端をあきらかにしている。金光教は、一八九〇、一(明治二三、四)年ごろからこの地方に入って、急速に発展した活動力に富んだ宗教でもあったから、そのあらそいはいきおい激烈なものとなり、金光教の園部支所長と乱闘をひきおこしたり、祭壇をこわすなどというはげしさをくわえていった。追憶の歌集『青嵐』によれば、当時の金光教教会は、すでに堕落しており、信者はあいそをつかして霊学会に続々と入ってきたというが、この金光教との争いが、喜三郎の大本入りの後における、幹部・信者との対立抗争にも反映したと思われる。そして霊学会は、このようないくつかの教団ないし教団類似の組織と抗争し、それらを圧倒して急速に発展し、園部を中心としてかなり勢力をもつようになった。園部の扇屋における懇親会では、三六人ばかり集まったと伝えられ伝えられ、町の有力者が、城址の公園に建物を建てて、喜三郎に提供しようと申し出るほどであった。
 このころの霊学会が、どのような神をまつっていたかは明らかでないが、おそらく稲荷講社の強い影響をうけた神であろう。〝造化の三神はまことの神よ混交は愚人のかつぎし人造の神〟(『青嵐』)というたぐいの歌から推定すれば、造化三神が中心であり、民衆が素朴に信仰していた民間信仰的な神々も、仏教と結びついたものもすべて邪神とみなし、神道思想を徹底しようとするものであったようである。社会にたいする喜三郎の態度については、具体的な史料は伝わっていないが、軽佻浮薄をなげき、物質文明中心主義を攻撃して、国家神道的な道徳を強調するというようなものであったと推定される。また、この時期の喜三郎は、妙霊教会ともかなり密接な関係にあったらしいが、造化三神の信仰を中心として国家神道的立場に立つ妙霊教会とはあまり対立しなかった。

〔写真〕
○俗信仰では稲荷信仰がもっともさかんであった p171
○布教活動は園部を中心として急速に展開した(城址の公園) p174
〔図表〕
○第3章・第4章・第5章の関係地図(亀岡・穴太を中心として) p173
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