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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第1章 >1 大日本修斎会よみ(新仮名遣い)
文献名3創立の状況よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ291 目次メモ
OBC B195401c2111
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本文  苦況にたった金明霊学会は、一九〇八(明治四一)年八月一日、あらたな段階を迎えた。すなわち、これまでの金明霊学会を、大日本修斎会に改めた再編成がそれである。王仁三郎は、その年の一月の末ごろより、すでに帰郷の決意をしていたと伝えられるが、それ以来着々と、金明霊学会改組のための準備も進められていた。そのことは、その年一月二五日の御嶽教大本庁から上田喜三郎の名で、吉田竜治郎にあてられた書簡には「神命のまにまに同志と語らい、第二の維新を援助」せんとする意気ごみがのべられており、また、同年の五月六日の湯浅斎次郎あての書簡に「大本大神変性男子と現れ玉ひ十曜の神旗押立て」、「神明の企て給ひし大功業」をなさんとする意図が記されているのにもうかがわれる。九月一日には、はじめて機関誌『本教講習』(月刊)が発行され、文書配布による布教活動が開始されている。そして翌月の『本教講習』には、中教正上田王仁三郎作の「感謝と祈願」と「祖先拝詞」が公にされ、祭式の充実がはかられた。
 王仁三郎はかねてより、大本をいち早く独立教団にしたいという願望をいだいていたが、当時の宗教統制策のもとにあっては、ただちに教団の独立化を計ることもできず、大日本修斎会会則の準備をすすめるかたわら、大成教の直轄としての直霊教会をつくり、その規約を九月一日に定めた。いちおう「大成教直轄直霊教会」の名称を他方にかかげねばならぬところに、王仁三郎の苦心があった。御嶽教の方からは、九月二五日に、大本庁理事のほか西部教庁主事・大阪府教区庁長を命じてきたが、彼の関心は、大日本修斎会の整備に向けられていた。こうして、一〇月一日、大日本修斎会は会則を定め、さらに、同月一三日これを改正し、内部を整備して名簿を作成するなど、王仁三郎を中心に教団組織の体形化がこころみられている。同年一一月には、はじめて祭式講習がおこわなれ、講習受講者には、修業証書がわたされた。そして、「通常祝詞」が公にされ(『本教講習』)、大本祭式がしだいに形をととのえていった。王仁三郎は、御嶽教大本教会は綾部から宮津に移させ、一一月二三日には、御嶽教関係のいっさいの職を辞退し、帰綾の体制を準備した。
 大日本修斎会の創立精神は、その「創立要旨」に明らかである。「創立要旨」は、長文のものであるが、その強調点をあげれば、次の二点となる。一つは、日本は万邦無比の国体をもち、日本人は「至大無量なる神賦の分霊」を有していることに関する主張である。その根拠を「無比独特」の神話や日本人の心性にもとめていることは、王仁三郎の古事記解釈の観点と結びあわされていて興味ふかい。その第二は、既成の教派神道にたいする痛烈な批判についての論述である。それらは、「禁厭祈祷神占の所得税徴収所」をもって甘んじていると酷評されている。そして大日本修斎会は「政、教、慣、造をもって皇道の四大主義とし」純神道を講究し、宣伝せねばならぬというのである。この「創立要旨」は、王仁三郎の筆になると考えられる。
 「創立要旨」と同時に発表した「大日本修斎会会則」(1908-明治四一年一〇月一三日改正のもの)は、これを一三章にわかち、その条文は七五条におよんでいる。
 その教綱と目的は

第一条 本会ハ大日本帝国ニ万世一系ノ皇統ヲ知食ス金甌無欠ノ皇室ヲ欽仰シ、国体ノ尊厳ヲ弁明シ、神祇ノ汎徳ニ報謝シ、併セテ皇祖皇宗ノ遺訓ヲ遵奉シテ、至粋至醇ナル惟神ノ大道ヲ宣伝シ、敬神尊皇ノ大義ヲ祖述シ、以テ国家ノ進運ヲ翼賛スルヲ要旨トス。
第二条 神典国史ヲ講究シテ幽玄ナル神理ヲ闡明シ、朝旨政令ヲ遵奉シ、深遠ナル会祖ノ教旨ヲ恪守シテ徳性ヲ涵養シ、勤倹治産ヲ以テ国家ノ実益ヲ図リ、至高至大ナル神道教理ヲ宇内ニ宣揚シ、衆庶ニ過化存神ノ妙ヲ得セシムルヲ以テ目的トシ、教綱ヲ定ムルコト左ノ如シ。
一 天地ノ真象ヲ観察シテ真神ノ体ヲ思考スベシ
二 万有ノ運化ノ毫差ナキヲ以テ真神ノ力ヲ思考スベシ
三 活物ノ心性ヲ覚悟シテ真神ノ霊魂ヲ思考スベシ

とするところにある。そして斎殿については

第三条 本会斎殿ニハ会祖創設ノ由緒ニ依リ、宇宙万有ノ主宰ニ坐ス 天之御中主神、国之常立尊ヲ始メ天神地祇八百万神等ヲ奉斎ス。

と記述する。例祭については

新年祭、元始祭、孝明天皇祭、祈年祭、紀元祭、春季皇霊祭及大祭、神武天皇祭、本会創立祭(四月五日)、大祓(六月三〇日)、秋季皇霊祭及大祭、神嘗祭、天長節、新嘗祭、遷宮記念祭(一一月二二日)、大祓(一二月一三日)、鎮魂祭(一二月)、月次祭(三日、一五日、二三日)

とし、概して神道の行事に準じている。とのほか、開祖出口なおを会祖・総長とし、王仁三郎を会長として全般的に組織・機構を整備した。また祖霊殿をもうけて会員の祖霊を祭祀することとした。
 会務を統轄するところを統務閣といい、斎務・会計・弁務・実業の四局をもうけたが、その実業には、祭器部のほかに機織・染色の二部をおいたことが注目される。布教の講師はこれを修斎とし、「大修斎」を第一級として、「一等修斎」から「七等修斎」までを正准にわけ、最下級を「修斎試補」とし、一八等級をつくった。宣教については詔勅・神典・国史を経とし、会祖の神諭を緯としている。
 会員については、「本会ハ宗教組織ノ団体ナラザルヲ以テ、敬神尊皇ノ信念アル者ハ、何人ノ入会ト雖モ毫モ妨ゲ無キモノトス」として、ただ、会費の負担と機関誌等の購読を義務づけている。また最後の雑則のなかでは、治病についての注意を示し、修斎会の会員は、国家有事のさい「戦費献納、恤兵、犒軍、其他教育、勧業、衛生、救済等苟クモ国利民福ノ事業ニ対シテハ、卒先賛意ヲ表シ、応分ノ金品ヲ寄贈シ、巷間ノ模範タルベシ」としている。
 これまでの教団の費用は、役員が主として負担していたが、会則によれば、教団の経費は、会員より納付する会費その他の臨時収入をもってこれに当てることとし、予算と決算もおこなうこととした。しかし、教団の維持は、会費のみでまかないきれぬほど、規模も活動も拡大してゆくので、それら資金調達については、王仁三郎が東奔西走して工面しなければならなかった。

〔写真〕
○辞令の一部 p291
○大日本修斎会創立費の受領書 p292
○第一回祭式講習会修了証書 p293
○〝かみさまのおおまつり〟を知らせた手紙 p294
○大日本修斎会の会員証 p295
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