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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第2章 >1 一部の離反よみ(新仮名遣い)
文献名3浅野和三郎よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-01-18 18:17:59
ページ682 目次メモ
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本文  浅野和三郎は、多言するまでもなく、この時期の教団の実力者の一人として、宣教や教団運営に活躍していた人である。浅野の入信は一九一六(大正五)年であるが、当時から鎮魂帰神への異常な熱意を示し、彼なりの立替え立直し観を保持していた。彼の理想とする世界像は、天皇による世界の統一であった。そして、それが世界改造大正維新なのであり、鎮魂帰神はそのための強力な武器だとした。なぜならば、鎮魂法は、神人合一の理想状態にはいるための手段であり、これによって、精神的覚醒がうながされると考えていたからである。立替えを彼なりに力説したのは、ときあたかも一九一七~八(大正六~七)年の社会情勢に敏感に対応しようとしたことにもとづく。一九一八(大正七)年一一月の『大本神諭略解』のなかで、「殊に昨年を以って神界がいよいよ表面的活動に移られてからは、実に急転直下の勢を以て、世界の大勢が変化して参りました。戦争、天候、交通、金融、社会制度、糧食供給、世道人心、数へ立つれば切りが無い程変って来ました……現在当面の大問題は独逸と露西亜との処置ですが、此奴其成行に放任して置けば、満韓は愚か、内地まで険呑らしい」とのべているが、さまざまな社会的事件の続発を、彼は立替えの前兆とみなしていた。
 こうした立場にたつ浅野の論説や行動は、日ましに役員・信者の一部に共鳴者をうみ、教内に浅野派とよばれる一派をかたちづくるようになった。
 弾圧がやってくるまで、浅野が立替えのくることを確信していたことは、つぎの引用文によってわかる。一九二一(大正一〇)年の年頭にあたって、「大正日日新聞」の冒頭に、彼は左のような主張をした。「しかし乍らモウ駄目だ。本家本元の欧羅巴があの為体だ。もがけばもがく程自己の立場を困難ならしめ、天下に対して顔向けが出来なくなる許りだ。大正九年まではお茶を濁せたかも知れぬが、大正十年となりではモウ出来ない。何となれば大正十年は、物質万能主義の総決算期に属し、同時に新たなる霊的文明の建設さるべき大転換期に属するからである。これは天地の宿命であり、超人的大威力で遂行されるものである」と。こうして浅野は、立替えを信じ、それを力説してそのまま第一次大本事件にいたるのである。ところが事件が勃発し、当局の弾圧がなされてから以後の彼は、はたしてどのような態度で事件をうけとめたのであろうか。事件中に彼がかいたみずからの「陳弁書」は、その態度を端的に物語っている。この「陳弁書」は、浅野が自分の言動について弁解をおこなったものであるが、そのなかで、彼はしきりに、自分が天皇中心主義の立場にたつものであることをくりかえし強調している。浅野は、その故に、自分の主張が不敬になるなどと考えていないというのである。
「欧州大戦の真最中に初めて信仰生活に入りましたので、今が邦家の安危、国民の休戚の岐るる所として私は少からず焦り気味となり、続いてバチルスの如く社会人類の福祉を覆しつつある所の危険思想の撲滅の急務を痛感せる余り一層精神の興奮を禁じ得ず、お筆先の解釈─就中其中の予言警告の解釈に関して或る程度迄、人間知慧を加味し不知不識の間に宣伝気分を発揮したのでありました。今日から翻って顧れば、私の筆で書いたもの口で説いた所には、取消を要する個所が決して尠少ではありませぬ」(「大正日日新聞」大正11・7・5)。
 これは彼なりの反省であり、その告白である。当時、長髪の大本信者が、しきりに立替えの切迫をさけんで狂奔していたのは、社会的には異常なことであった。浅野は、その異常さをうんだ社会的な雰囲気をかえりみて、反省するのである。もともと彼の考えは、いちじるしく天皇主義的なものであり、彼の私有財産制度の廃絶という主張も、天皇の統治をつよめるためのものであった。だから、起訴事実の一つであった「地の高天原」の記事中、天皇否定の要素があるのではないかという予審判事の質問は、彼にとっては「奇想天外式の非常識な質問」(「陳弁書」)でしかないということになる。
 とはいえ、浅野にとっては、それが予想のつかない事件であったとしても、官憲によるとりしまり、さらに事件が現実となってあらわれてきたのである。それは彼にとって、一大衝撃であった。、だからして、彼における事件のうけとめ方は、まったく恐縮一方の低姿勢ぶりを生むことになる。「われわれ信者は、この数年来専ら自己の修行と信仰の体得に向って全力を傾倒し、その間に於て国家社会に対して、直接、間接に尠からぬ迷惑と損害をかけて居るのであります……われわれは飽までも社会に対する此一大負債を無視してはなりませぬ。而して此大負債を償却すべき唯一の道は現実の活社会に復帰して……信仰を基礎とせる有用の業務に服し、社会奉仕の実績を挙ぐる事であらねばならぬと私は痛感致します」(同前)したがって「今後の方針目的」は、「国家社会のお役に立ち得る人」が信者のなかからでて、官吏は官吏として、商人は商人として、農民は農民として、「天分相応の業務に優秀の実績を挙げ、国家社会のために一倍の努力をせねばならぬ」という。
 このようにして浅野の考えの内部から、立替えという側面がぬけおちてゆくと、そこにはもはや、神霊の実在ということのみが残された問題となる。したがってその後の浅野の活動は、これを科学的な見地からうらづけようとする方向にむかわざるをえなくなるのである。「欧米に於ける心霊研究、霊魂研究」は急速に発達し、「霊学と科学とはほぼ一致」してきた。だから、「立派に科学的方法」で、大本の所説を「立証し得る時代に到着した」とする浅野は、一九二二(大正一一)年のおわりころから、心霊研究会創立のために活動をはじめた。そして、心霊科学研究会として、翌年三月に設立された。浅野のこうした行動にたいして、王仁三郎はいちおうの賛意をあらわし、「同氏の研究会に対し応分の御援助御賛成あらんことを希望します」(「神の国」大正12・5・10)としていた。だがその離反は、時間の問題であった。「立替えの日近し」とする積極的な側面がとりさられた浅野の大本信仰は、しだいに稀薄化し、ついに一九二五(大正一四)年には、綾部を最終的にひきあげることになる。その後の心霊科学研究会は、東京で「心霊研究」を発行し、心霊実験に力をいれて活動していたが、一九二三(大正一二)年には、関東大震災のために本拠を大阪にうつし、誌名も「心霊界」と改題している。そして浅野和三郎と兄の浅野正恭とが、一貫してその中心人物として活動していた。これらの雑誌に浅野がかいた論文をみると、欧米の心霊科学の紹介や、心霊科学の解説などを重点としていることがわかるが、その一方では、「理知的」で「万古不磨の真理」である宗教の必要をとき、これを古神道にみいだしていたのである。浅野の帰幽した年は一九三七(昭和一二)年である。
 浅野の離反とならんで、注目すべき言動をとったものに医学博士岸一太がある彼は明道会をつくり稲荷信仰を基礎づけようとしたが、彼はすでに、一九二一(大正一〇)年の八月ごろから、公然と王仁三郎にたいする批判をおこなっていた。岸のとくところによれば、王仁三郎が言霊学などのような霊学を大本にもちこんだから、大本は政府や官憲に目をつけられるようになったのであって、筆先に復帰することが必要なのだとする。立替えの絶叫についても、日本はけっしてゆきづまっていないのであって、日本は天皇統治のもとに「太平楽」で無事安泰であり、危機をさけぶのは筆先の誤解によるものだとした。また「唯自ら改め、自ら清うして、神授の飼料たるお筆先をのみ食すればよいのである。従来の様に、雑多の混食は、絶対に禁止せねばならぬ」(「ありの実」─「神の国」大正10・8、同・9)とものべていた。岸が大本をはなれたのは、王仁三郎が筆先のみによらないで、『霊界物語』を発表したため、教義上、その見解をことにするにいたったというところに主要な理由があったと考えられる。

〔写真〕
○浅野のかいた 私の告白と陳弁書 p684
○心霊研究 創刊号 p686
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