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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第1章 >3 愛善苑の発足よみ(新仮名遣い)
文献名3両聖地の整備よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-11-04 17:52:40
ページ742 目次メモ
OBC B195402c7132
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本文の文字数2356
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本文  綾部・亀岡の両聖地では、信徒の奉仕によって、まず破壊の跡のとりかたづけと清掃とがすすめられた。

〈綾部〉 綾部鶴山の山上では聖師の指揮のもとに、破壊された長生殿の基礎の上に、穹天閣その他の破壊された礎石などの石片をよせあつめ、これに土をかぶせて月山富士を築くこととなった。一九四六(昭和二一)年三月三日作業に着手、六月四日(旧5・5)に完成し、月山富士の鎮祭が執行された。その頂上には、西暦八〇二(延暦二一)年、富士山大噴火のおり、山梨県明見村に落下したとつたえられる霊石を鎮めた。この霊石は第二次大本事件前、信徒の舟久保庄から献納され、本宮山の穹天閣前におかれていたが、事件では破壊をまぬがれ、雨ざらしになっていたものである。月山富士には主神を鎮祭されたが、あわせてこの日聖師によって、〝今日はしも陰暦五月の五日なり富士の神霊月山にまつる〟〝鉢伏の山の神霊もろともに月山富士にまつりたりけり〟とよまれている。祭典には聖師夫妻が参列し、各地より約三〇〇人の参拝者があった。また頂上には昭和二三年三月二三日、二代苑主の命により「ひもろぎ松」が移植された。この松は、大正のころ聖師の命によって、もとの五六七殿のかたわらに移植された三葉の松の実生である。第二次大本事件のさい当局の手によってほりおこされたが、その実生の苗を信徒がもちかえってひそかに育てていたものを、聖師の保釈出所後に献木して、中矢田農園の聖師宅(現出口うちまる宅)の庭に植えられていたものである。
 愛善苑の新発足にさいしては、神殿その他の施設はいそがず、組織づくり、人材の養成を優先する方針が定められていたので、綾部では月山富士をもって最高の至聖所とされた。なお彰徳殿は、一般礼拝場と綾部の事務所などをかねることにした。
 昭和二一年二月三日の節分には大祭の執行を見合わせられたが、多数の参拝者があり、彰徳殿で、すみ子夫人の先達による礼拝がおごそかにとりおこなわれた。「福は内、鬼も内」の豆まき、甘酒接待の行事ののち、夫人の思い出話が未明の五時すぎまでつづいた。
 四月三日には聖師夫妻の一行八人が、舞鶴湾内を小艇でわたり、西大浦の葦谷に上陸した。夫妻は駕籠で付近在住の数十人の信徒と葦谷山にのぼり、はるか六里(二四キロメートル)の海上にうかぶ冠島・沓島を遥拝した。祝詞を斉唱して直会ののち、大丹生の上林新太郎宅にかえり、翌四日まで滞在して、五日には綾部に帰着した。この葦谷の遥拝所を、聖師は国見山と命名し、ここにいたる登山道を国見坂と名づけた。これより冠島・沓島の遥拝が、国見山で毎年おこなわれることになった。四月八日には、聖師夫妻は上谷の元修業塲をたずねて、往時が回想されている。
 八月三日の夕方から九日までの一週間、鶴山山上では聖師夫妻が参列して、献灯のうえ礼拝がおこなわれた。聖師の歌日記には、〝拝礼のすがどの設備ととのひて数十人とともに迎神祭を仕ふ〟としるされている。また九日には、出口聖師にとっての満七五歳の生誕祝いがなされた。鶴山山上で礼拝がおこなわれ、内わだけの行事であったが、参拝者は八〇〇人にもたっし、夜はおどりでにぎわった。
 一〇月二七日(旧一〇月三日)には、綾部天王平一の瀬の奥都城で、開祖二十八周年の祭が、秋雨そぼふるなかでおこなわれた。当局の弾圧によって、共同墓地の片すみにうつされていた、わずか二坪にもたらぬ開祖の墓前にぬかずいて、参拝者一同の感慨はひとしおのものがあった。

〈亀岡〉 亀岡天恩郷は土地が返還されたのち、聖師によってひそかに破壊の跡が見回られたことがあったが、一九四六(昭和二一)年一月二三日、第二次大本事件が勃発してから一一年ぶりで、聖師は神苑にはいった。聖師の歌日記に、〝天恩郷春雨そぼつすが庭に石つき祭りおこなひそめぬ〟としるされてあるように、三月一八日には地鎮祭がとりおこなわれ、天恩郷神苑の再建整備に着手した。三月二一日・まず製本工場の地搗きがなされ、五月九日には、もと緑生館あとに愛善苑道場兼事務所の地鎮祭がおこなわれた。もと瑞祥閣のあとに、あらためて瑞祥館を建てることは、前年の一一月五日に内定されていたので、まずその敷地の整理にかかり、三月二六日には聖師みずから現地で設計され、六月二日には地鎮祭、ひきつづいて地搗き作業がはじまった。
 また月照山の整地にかかり、炎天下にもかかわらず、聖師は毎日のように、中矢田農園から天恩郷にでかけて現場を指図され、八月二六日には月の輪台が築造された。破壊された巨石と瓦は膨大な量にのぼり、そのとりかたずけにはおおくの日数を必要とすると思われたが、島根県をはじめ徳島・香川・茨城をはじめとする全国から、食糧持参で集まった信徒の献労奉仕によって、作業は意外にはやくはかどった。おおい時には、その奉仕人員は百数十人にもおよんでいる。一二月八日には、二〇〇〇人以上の参列者があって、瑞祥館およびバラック建ての愛善苑道場兼事務所(昭和25・8・25、二代苑主により西光館と命名)の完成式が盛大に執行された。そしてこれまで中矢田農園においてあった事務所は天恩郷にうつされることになった。なお一二月五日には受講者用の食堂兼宿舎が旧保生倉庫跡に着工された。

〔写真〕
○月山富士 昭和21年 綾部本宮山上 p742
○彰徳殿 昭和21年 西側の表玄関 綾部での礼拝所と事務所がおかれていた 左より出口栄二 出口すみ子 出口伊佐男 p743
○月の輪台 後方は新築された瑞祥館 昭和21年 亀岡月照山 p744
○資材難にもめげず建設は急ピッチですすめられた 亀岡天恩郷 上は瑞祥館立柱式と式場の出口聖師夫妻 下はくぬぎ林のなかに完成した愛善苑道場兼事務所 のちに西光館と命名 p745
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