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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第3章 >2 葬儀よみ(新仮名遣い)
文献名3告別式と遷柩よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ804 目次メモ
OBC B195402c7321
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本文  一月二八日は聖師の十日祭当日である。霊枢を綾部へ移動しなくてはならないので、天恩郷での告別式をかねて、瑞祥館で祭典が厳粛にとりおこなわれた。午後三時、八雲琴の音が胸にしみわたるころ、館の内外は参列した人でうずまった。斎場には聖師昇天の部屋があてられた。亀岡町からよせられた大真栄木が門前に立てられ、国際宗教同志会からの花輪、各宗教団体および各界名士からの盛花が、ところせまくならべられた。白衣の喪主すみ子夫人、直日夫人、委員長以下出口家一族、親戚、愛善苑の牧野・真渓両顧問、キリスト教・仏教・神道の各教代表たちが参列し、信徒はほとんど庭にあって粛然とひざまずいていた。出口栄二斎主による祭文につづき、偉大なる業績をしのび讃える弔詞、歌壇の大家から寄せられた追悼歌、各界名士からの数百通の弔電は、これを読みあげられるごとに一同の胸をうった。あらゆる人からしたしまれ、うやまわれていた聖師の偉大さが、いまさらのようにしのばれた。飛雪はしきりに庭さきの信徒たちに吹きつけたが、だれ一人として動くものはなく、惜別の情に眼をおさえて、いつまでもうずくまっていた。
 瑞霊真如聖師の霊柩を綾部へ移動するについて、最初汽車輸送の交渉をしたが、その方法はとれなかった。ついで霊柩車をもとめたが、そのころは木炭車で、峠のある雪の丹波路は通行が困難であるとしてことわられた。そこで協議の結果、特別の霊柩車を製作し、信徒の手で曳いて、徒歩で遷柩することになった。しかし約六〇キロ(一五里)の丹波高原を、寒中に徒歩することは容易ではない。だが、聖師が若かりしころ綾部・亀岡間を往来された思いでの道をあるいておともすることは、また、これまでにためしのない遷柩方法でもあり、意義のあることとして、その準備にとりかかった。霊柩車の製作には大工の吉岡・近松・伊賀らが昼夜兼行でとりくんだ。遷柩総指揮者には大国、副指揮者には土居が任命され、さらに霊柩車を曳く人々の選択、各役付の人選がおこなわれた。霊柩車の総重量は五六二キロ(一五〇貫)である。したがって屈強な青壮年ばかりの選抜となったが、ききつたえた信徒から、われもわれもと申しでが殺到し、いくら道中の困難を説得しても、頑としてききいれず、哭いて強要するありさまであった。選抜予定の三三人をはるかにこえ、正奉仕者一一二人となった。なおこれにくわえて、綾部まで霊柩のおともをしたいと老人・婦女子までが、熱烈に希望を申しでた。聖師を追慕するまごころは、「途中で死んでも悔いはない」とうったえて、説得をききいれようとはしなかった。
 霊前にともされた神火は消すことができないため、燈心にうつしたものと、万一を考慮して、三〇年前、開祖の葬祭の時にもちいたという火縄が用意された。
 一月二九日午後一一時、瑞祥館の霊前に遷柩奉告の儀がおこなわれ、すみ子夫人・直日夫人・出口家一族によって、霊柩内におさめる品々が入れられた。寒気はことにきびしく、大地は凍てつき、二十日の月は雲間からほの白い光をなげかけている。天恩郷の月照山あたりに集まった信徒千数百人は、静粛に霊柩の出発をまっていた。
 三〇日午前一時、霊柩は霊柩車にうつされた。前駆・たいまつ・神燈・箒・大真栄木・紅白旗・真栄木・生花・銘旗、ついで霊柩車と霊璽の更生車、これにつづく随行の隊列は、瑞祥館前から天恩郷南入口までならんだ。各新聞社のフラッシュは間断なく、この空前の遷柩行列をとらえた。霊柩車の綱をにぎる霊柩奉仕者三三人は、われもわれもと綱をもとめる信徒にまぎれて、腕章だけがほの白くうかんでみえる。
 深更の亀岡町内はことにしずかに進行したが、町の人々はほとんど門戸をひらき、敬虔な弔意を表した。町はずれで霊璽を捧持されたすみ子夫人・直日夫人は、伊佐男委員長と交代された。また東尾葬祭委員長は一般見送りの人々に挨拶し、これからのおともは遠慮してほしいとうったえたが、しかし信徒は隊列からはなれず、霊柩車のあとにしたがった。霊柩責任者は、もしも途中事故があり、またおともの人たちがたおれるようなことがあってはと、あらかじめ救護班をつくり、木炭車であったがトラック三台を用意しておいた。
 隊列は八木で五分間休憩した。そこは五〇年前、福島久子が茶店をひらいていたとき、聖師と対面ができ、綾部の開祖と面会することが約束されたゆかりの地であった。八木・園部と沿道には、信徒がかがり火をたき、みそ汁・湯茶などを用意しておともの人々をねぎらった。園部からはいよいよ観音峠にかかる。救護用の二台のトラックは観音峠でうごかなくなった。そこで係は、なおもつきしたがう信徒に声をからして説得し、おともを断念するようつとめた。大半は霊柩にお別れをつげたが、しかし約四〇〇人の信徒は、隊列から去らなかった。なかには七〇才にもなる老人、六〇すぎた老婦人もくわわっていた。
 敗戦前より・荒れ放題に荒れている丹波路は交通の難路である。もちろん舗装された道ではない。しかし難所の観音峠はアスファルトで舗装されていたので、あえぎながらものりこえることができた。須知・豊田・桧山(橋爪)では、信徒が沿道に火をたき、湯茶・甘酒等の接待をした。しかし霊柩車はやすみなく進行する。
 三ノ宮あたりからは雪の路となった。三ノ宮の北村家は、かつて聖師が、綾部・亀岡間を往来の途次休息された家である。そのゆかりで霊柩車をとめ、霊璽は神前に安置し、はやめであったが、昼食のため一時間休憩した。ここで綾部から応援に選抜されてかけつけてきた霊柩奉仕者三一人がかわって霊柩車につく。ここから綾部までは難所の榎・質山の二つの峠があり、雪道のところや、泥道がぬかるんで通行の困難なところがある。しかし休憩で元気づいた一同は、正午すぎ町をはずれた峠の頂上を突破した。「三千世界の救世主」と宣伝歌の合唱がわきおこり、それに力をえて雪の山道をまがりまわって進行する。霊柩車の梶棒をもちつづける南靖雄は、車の動揺をふせぐのに懸命である。霊璽を捧持する委員長の更生車は、大ゆれにゆれて車は泥まみれになっている。霊柩側の出口新衛はわらじがすりきれて素足同様である。おともする人たちのわらじはやぶれ、足袋のままのもの、頭上まで泥をかぶったもの、まったく雪と泥濘とのたたかいであった。
 榎峠はこの日、警察から通行困難なため交通止めになっていた。福知山へ迂回するよう注意されたが、迂回するには一同の疲労が問題であった。そこで榎峠・質山峠を強行突破することにした。峠をこえてしばらくするとはるかに綾部が展望される。そのころから綾部からの出迎えがくわわって一行は元気づいた。綾部植松の山水荘が見えるあたりから、信徒が涙ながらにむかえる。亀岡町の町はずれで、霊璽を委員長に託され、先発されていたすみ子夫人・直日夫人の自動車も、質山峠で立往生し、そのため徒歩で山水荘へおもむかれていた。
 午後三時三〇分山水荘前に霊柩車は到着した。霊璽は一応神前に安置され、二〇分後ふたたび隊列をととのえて、彰徳殿にむかった。沿道にはぎっしりと人々が堵列し、粛然とむかえる。出迎えた町の人々は合掌し、小学生・中学生・女学生たちの一団も寂然としてむかえた。突然「ご苦労さま、お帰りなさい」という声がおこる。みる間に、急にアチコチに手拭をとりだすもの、ハンカチを眼にあてるもの、今還る聖師の枢を眼のあたりみるしたわしさ、悲しさに一瞬どよめきの声がわきおこる。歩きつかれた遷枢奉仕の人たちは、足をひきずりながらも、最後まで一人として脱落するものもなく、おともの人々もがんばりつづけた。彰徳殿のそばでは大本婦人会員が、霊柩奉仕やおともの人々の泥にまみれつかれた足を、湯であたため、洗っていたわった。こうした献身的な信仰のるつぼのなかに、ようやく霊璽と霊柩とか彰徳殿の神前に安置されたのは、一九四八(昭和二三)年一月三〇日夕方の五時であった。ここに空前の遷柩行事がとどこおりなくおわったのである。霊柩はさらに綾部で用意されていた桧の柩におさめられて、二重の柩とされた。そしてこの夜から、綾部の信徒や地方からあつまった信徒等によって、通夜がはじまった。

〔写真〕
○告別式 飛雪は空に舞い参列者は庭外にあふれた 1月28日 瑞祥館 p805
○聖師愛用の品々がすみ子夫人の手で霊柩におさめられた p806
○遷柩 1月30日午前1時 二十日の月はほの白い光をなげ霊輿はしずかに天恩郷を出発した p807
○雪と泥の丹波路 上 沿道の信徒は霊輿をむかえ甘酒などの接待をして人々をねぎらった 中 562キロの霊輿の車輪は泥にくいこみ いくたの難所を克服した 下 霊璽を捧持した更生車 p808
○霊輿は八木 園部をすぎて観音峠をこえ 夜のしらむころ須知町をとおって午前11時には三ノ宮についた 宣伝歌に力をえてさらに榎峠 質山峠をこえて綾部にむかった p809
○沿道をうずめたでむかえの人々 綾部 p810
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