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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第4章 >3 教勢の飛躍よみ(新仮名遣い)
文献名3梅花運動よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2019-03-05 04:47:08
ページ856 目次メモ
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本文  委員長の全国遊説とともに、本部講師もまた各地に出張して、愛善講演会や座談会を開催した。これに相呼応して、地方在住の講師や信徒たちも精力的な活動を展開していた。一九四八(昭和二三)年一月一九日には、聖師昇天の悲運にみまわれたが、幹部・信徒は二代苑主の力強い指導のもとに、全教団あげて結束をかため、かえって本部修行者の数は増加をみるにいたった。このころは食糧事情の困難なときであったので、修行者は米や副食など食糧を持参して受講した。聖地ではこれらの修行者の受入準備をととのえつつ、一方大道場講座内容の充実をはかり、三月から修行日数を五日間とし、その内容も、「(第一日)愛善運動の由来・愛善苑の使命、(第二日)神と大・霊界の実在、(第三日)愛善の道・愛善の生活、(第四日)万教同根と道院・宗教と文化、(夜間)信仰座談会・祭式指導・愛善歌の歌唱指導など、(第五日)綾部参拝、彰徳殿・祖霊社・鶴山・熊野神社・天王平などの巡拝」とさだめた。
 修行者は従来半数以上が旧大本時代の信徒の再修行者であったが、この年になってから、一九四八(昭和二三)年一一月三〇日現在での修行者総計四一〇三人のうち、八五%までが未信徒による新修行者であったことは、あたらしい層への宣教がのびはじめたことをしめしている。また年令的には、二〇才以下一五%、二一才から四〇才以下が五〇%をしめて、青壮年層のおおいのが注目される。
 本部道場の充実と並行して、六月から地方道場が開設された。常設講座のほか、随時に講座をひらいて地方における宣教の一拠点とし、年内には北海道(山部)・茨城(竜ケ崎)・石川(金沢)など七ヵ所に設置されている。
 こうした情況のなかで一九四九(昭和二四)年度宣教実施計画が実施された。その方針には「宣教活動に総力を集中し、複雑微妙なる内外情勢とにらみ合わせて、積極果敢に愛善運動を展開する。これがため本年度新会員(信徒)を二万名獲得する。併せて図書の刊行に力をつくすと共に、本部および地方道場の拡充整備を図り、信仰の向上と実践力の昂揚に万全を期する」とのべられている。
 新会員二万人の獲得目標は、当時の会員約二万六〇〇〇人の教勢からみてほとんど倍加に近い目標であった。そのため支部・府県連絡事務所に目標数をわりあてる一方、個人宣伝・大衆宣伝・視聴覚宣伝・文書宣伝・聖師作品展の開催、地方道場の活用、本部講師の特派・地方在住講師・愛善青年の動員などの方法を講じて、目標数達成へ邁進した。
 二月には宣伝使制が復活し、宣・信徒一体となって活発な宣教活動を展開した。七月には本部道場講座に「開祖と聖師、神について、まつりの本義、霊界と人生」をくわえて、内容の充実をはかり、八月には「受善教報」を「愛善苑」誌に吸収して、信徒との連絡指導を強化し、九月には月刊誌「海潮」を創刊した。また『愛善のしおり』(タブロイド判二頁)『愛善世界』(同四頁)など宣伝用リーフレットも大量に配布された。また後述するように、聖師作品展覧会の開催による社会的反響や、愛善みずほ会の増産運動が、教線拡張におおいに役だったことはいうまでもない。このような宣教活動の成果は、たとえば山口支部が二一三六人の新信徒を獲得するという好成績にも見出される。
 一九四九(昭和二四)年一一月三〇日には(カツコ内は昭和二三年一一月末の実数)、支部(のちの主会)四九ヵ所(四八)、会合所(のちの支部)五八九ヵ所(四五一)で、信徒総数は三万八九二六人(二万六一五九)となった。昭和二四年度における増加会合所は一二三ヵ所(一一六)、増加の信徒数は一万三二三〇人(七七八一)で、増加比率は五一(四二)%にたっしている。新発足後一年間で一万八三七八人の信徒を結集し、さらに昭和二三年から同二四年にかけて大信者は倍増に倍増をかさね、教勢は飛躍的に発展しつづけたのである。
 この年の修行者数は一一月末日現在で四〇一一人であった。この数は全信徒の一〇・三%にあたり、前年と同じく初修行者が八四%を占め、教勢があたらしい層に着実にのびていることをものがたる。
 職業別にみると、農業が全休の三六%、年令別では二一~四〇才の青壮年層が全体の四六%、性別では男子が五七%でややおおいが、この比率はだいたい全信徒についてもあてはまる。農業従事者の比率がこのようにたかかったことは、もともと農村地帯に信徒がおおく、したがって宣教活動も農村地帯におおくむけられていたことを示しているが、増産運動とともに伸びたこととも関係がある。もちろん都市部においてもかなりの成果をあげ、農繁期には宣教活動の主力は都市部に向けられた。しかし組織労働者などへ働きかける計画的なよびかけは、ほとんどみられなかった。
 また新入信徒一万三二三〇人のうち、あらたにご神体を奉斎したものは三二二七人、肌守りの下付は五九一四体、祖霊社復祭数は二四九三(累計七〇五五)である。これは修行─入信─ご神体奉斎─祖霊復祭へと宣教が着実にすすめられ、教義・信仰が一般大衆のあいだに定着していった状況をあらわすものといえよう。
 二代苑主時代(昭和二三~二六年)の宣教の特徴としては、(1)苑主の直接指導のもとに、真信仰の確立─神業奉仕の信仰と祭祀の尊重が重視されたこと、(2)昭和二二年八月以来の愛善生活運動─社会愛善化運動を強力に展開したこと、(3)生産増強運動にも一層力をいれ、あらたに平和運動を推進したことなどかあげられる。そのため、この時期には教団体制を確立するとともに、愛善みずほ会(昭和23・2・4)、楽天社(昭和24・12・8)、人類愛善会(昭和24・12・8)をつぎつぎに発足させ、愛善青年会(昭和23・11・2)、愛善婦人会(昭和24・5・8)を育成強化して運動の実践的母体とするなど、教勢のあらたな発展にそなえる体制がととのえられいった。
 一九五〇(昭和二五)年以降はこの基本線にそって、信徒一人一人がそれぞれ一人ずつの新信徒を導くという倍加目標がさだめられ、社会愛善化運動を展開して、地域・職域を通じ、積極的な神教宣布の活動をおこなうことになった。二月三日には愛善エスペラント会が発足され、四月には英文パンフレット『大本運動』、一一月にはエス文「OOMOTO」(月刊)を発行して海外宣教もしだいに本格化し(八編四章)、教団を中核とした外廓・内部諸団体の活発な運動の展開によって(四・五節)、大本の教線はいちじるしい進展をみせたのである。
 しかし、こうして急速に発展した反面にのこされた課題がなかったわけではない。外廓・内部各団体よりのそれぞれの指令と活動のあいだに若干のずれが生じ、それが地方での混乱となって波及する場合もあったし、旧大本時代の信徒と、新発足後に入信した信徒のあいだにおける信仰意識や、教義解釈のあいだにも不統一がみられるようになった。また、国際情勢の緊迫にともなって、神がかり的な予言信仰や時節まち信仰も一部でつよまってきた。
 こうした事態に対処するため本部においては、「統一主義の具現」を指示し、外廓・内部各団体相互の緊密な連繋をはかるため総合連絡会議を設置し、地方機関にたいしては、総合的な計画を樹立させて、組織的な宣教の実をあげるよう指導をおこなった。
 とくに信仰の統一と確立は、教団存続・発展の要であるだけに、くりかえし信徒にたいする指導と育成とがなされた。出口総長は全国支部長(昭和25・8、主会長と改称)会議におけるあいさつのなかで、「大本愛善苑の信奉し宣布する教義は……開祖、聖師を教御祖とし、苑主の裁定された教典によるものでありまして、苑主の御裁定を経ていないものは、現在の教典教義ではないのであります。教典の解釈についても明確でないものは一応教学所において検討せしめられ、更にそれを苑主が裁定されて、ここに教義として確定するのであります。従って……教典の勝手な解釈から、既に定められている教学を乱すような言動をなすことは、教団としては許されないのであります」(昭和24・12・9)ときびしく警告し、大本愛善苑としては、「現在すべて二代苑主の御神業時代」であり、「二代苑主を中心とし、その御教示のもと神業は展開」されてゆくことが強調された。そして二代苑主によっても、〝おほかみのみちをけがすはかみがかりちういかさねてみちをひらけよ〟とさとされているが、神がかりや神秘的な独善偏狭の信仰をいましめて霊体一致の信仰を強調し、信仰の社会性を重視して「時代を救い日本を立直す大運動」としての自覚をうながし、世界の平和と大衆の生活に直結する大本の真価が発揮されるよう指導されたのである。
 そのため教典・教書なども積極的に発刊し、神書の拝読が奨励され、各種の研修会もたびたび開催された。二代苑主の時代になってから、瑞月文庫第二編として『道のしおり』(昭和23・2)、第三編『宣伝歌集』(昭和23・8)、第四編『道の光』(昭和24・4)がつぎつぎに刊行されたが、昭和二四年五月には、全信徒が待望していた『霊界物語』が再刊された。しかし「用紙その他の事情」(同書抄一「はしがき」)によって、抜萃したものを刊行することとし、「抄一」には第一巻から第三巻までを収録した。ついで同年八月に「抄二」(第四・五巻を収録)、昭和二五年四月に「抄三」(第六・七巻を収録)を発行し、これと並行して昭和二五年八月には、『大本神諭第一集』(明治二五年から三二年までを抜萃)がかな書きのまま(昭和27・11、改訂版から漢字まじり文)で発行された。九月からは月刊誌「海潮」を「神の国」(A5判)と改題、内容を刷新して毎号巻頭に大本神諭を掲載し、対内的な信仰指導の部面を強化する一方、「愛善苑」(B5判)を月刊から月二回発行として、連絡の迅速化をはかった。その他『開祖伝』(昭和24・8)宣伝用小冊子の『大本愛善苑とは』(昭和25・4)が刊行されている。
 また本部大道場の充実・強化もはかられ、昭和二五年一月からは、講座は二部制をとり、従来の講座を初修行者向の一般講座として、あらたに毎月一回の特別講座が開設された。特別講座は当初三日間であったが、三月からは四日間とし、内容は、「第一日二代苑主伝・人類愛善会について、第二日厳瑞二霊・みろく神業・大本楽天社について、第三日大本愛善苑の特異性・信仰と生活・懇親会、第四日祝詞釈義・祭式実習」となった。八月から「霊界物語・大本神諭」がとりあげられ、一二月からは「第一日大本愛善苑信条・大本神諭と霊界物語・座談会、第二日厳瑞二霊・世界経綸と愛善運動・座談会、第三日時局と信仰生活・二代苑主と神業・懇親会、第四日祝詞釈義・祭式」と内容の充実がはがられた。また普通講座も六月からおおはばに刷新されて、「第一日大本出現の意義・聖師と救世の神業・懇親会、第二日神について・霊界の実在・信仰座談(一一月から天津祝詞釈義)、第三日人生の本義・四大綱領・祭式心得、第四日信仰と生活・大本と愛善運動・信仰座談」となった。
 人材の養成もまた教団の課題であった。このため幹部・講師・宣伝使研修会がひんぱんに開催されたが、とくに二〇から三三才までを対象とする愛善教修所の開設をみた。期間は二ヵ月とされ、昭和二五年には第一期(五-七月)・第二期(一〇-一二月)あわせて三八人の教修生が宣教の第一線に送り出されている。
 また本部講師のひんぱんな出張と並行して、一月からは特派宣伝使が派遣されることになり、各担当地区に駐在して活動した。さらに地方道場も拡充されて、年内には全国で二一ヵ所となった。八月の瑞生大祭には、朝鮮戦争直後の輸送事情の悪化にもかかわらず、九州・山口の信徒によって、特別仕立ての団体列車で本部参拝がおこなわれるなど、地方宣教の成果をみることができる。
 一方、対外的進出も積極的におこなわれた。昭和二五年四月八日から約一月間、金沢市で開催された全日本宗教平和博覧会への参加がそれである。この博覧会は石川県の宗教連盟・観光連盟と北国新聞社が共催したものであるが、戦後はじめての本格的なもよおしとして注目をあつめ、仏教・神社神道・教派神道・新旧キリスト教など全国の各宗教が参加した。一三会場一七会館にわたる大規模なもので、本部は石川支部(主会)と協力して、「大本愛善館」・「特設大本愛善美術館」を設け、大本愛善苑の教義・歴史・諸運動・大本事件の真相や出口聖師のプロフィル、人類愛善会・大本楽天社・愛善みずほ会・愛善エスペラント会などの目的や活動、さらに「耀わん」をはじめ出口聖師の作品や宝物などの展観をおこなった。「大本愛善館」はきわめて好評で、とくに宗教界への反響がおおきかった。その後、同年八月二四日から二週間亀岡天恩郷で、「全日本宗教平和博覧会記念大本愛善展覧会」が開催され、一〇月二二日から約一ヵ月間は綾部でも市制(昭和25・8・1)祝賀行事として大本愛善展覧会がひらかれている。
 昭和二五年七月には、大本愛善苑および人類愛善会東京事務所の開設が決定され、七月三〇日新設された東京分苑(文京区駒込東片町一五塚本庄作方)に事務所をおいた。ここに東京進出の第一歩がしるされたのである。
 このように教勢は内外ともに進展をみせつつあったが、当時の日本をめぐる国際情勢は決してなまやさしいものではなかった。東西両陣営の対立は激化し冷戦は加速度的に拡大して、昭和二五年六月二五日には、ついに朝鮮戦争が勃発したのである。アメリカの単独占領下にあった日本は、「反共防壁」(マッカーサー声明)として軍事基地が強化され、日本の自衛権が強調されて、八月一〇日には警察予備隊がつくられるにいたった。
 世界の平和と日本の立直しをさけんできた大本愛善苑として、こうした事態を黙視することはできなかった。昭和二五年六月三〇日より一週間、本部において二代苑主先達のもとに平和祈願祭を執行し、ついで七月七日「特別示達」をもって、地方各機関および信徒宅においても平和祈願祭をおこない、同時に「絶対平和の信念を以て飽くまで戦争放棄の精神を貫き」、「時局の推移につき軽々しき予言的言辞を弄せず」「時局下益々宣教活動に邁進」すべきことを指示した。
 一九五一(昭和二六)年は、開教六十年を迎える前年にあたっており、教団は信徒梅花運動を主軸とした諸種の運動を一層活発に展開した。信徒梅花運動は、大本立教の根本精神にのっとり、「三千世界一度に開く梅の花」の神業に、信徒が参加奉仕することを意味していた。新信徒の獲得も「梅花」の名にちなんで「倍加」の意味にもちいられたり、また梅の花が五弁あるところから、大本愛善苑を中心とした人類愛善会・大本楽天社・愛善みずほ会・社会事業などの各団体による活動を意味するものとうけとられたりもした。
 梅花運動が展開されつあった昭和二五年一二月三一日午前二時半ころ、天恩郷の本部事務所(一八三坪)から出火して全焼するという事件がおこった。この火事によって同事務所に保管されていた、貴重な文献・史実資料その他多数が焼失した。このため事務所は東光館にうつされた。おりしも総長は渡欧中(ジュネーブの世界憲法制定会議に出席、四節)であり、留守役の本部役員・奉仕者は一時悄然としたが、二代苑主は「昔から明け方の火事は日の出の火事といって、芽出たいものとされている。いよいよこのお道も焼け太って栄えてゆく」と教団幹部・信徒をあたたかく激励し、また苑主みずからによって、〝年の瀬につみもけがれも吹きはらいひの出むかえて祝う卯のはる〟と詠まれた。
 このような二代苑主の宣り直しの言葉は、禍を転じて福となさんとする全宣信徒の決意をうながした。梅花運動はかえってますます各地にもえあがっていった。二代苑主は「早く地方の神柱が出揃わねばいけない」とさとして、また、〝つきの世に早くなりたい世界一人人人の梅花運動〟と詠って、梅花運動を激励した。後述するように二代苑主の巡教は(五章)、すでに一九四八(昭和二三)年五月からおこなわれていたか、この年にもさらに巡教がつづけられた。総長もまた二月欧米から帰国し、三月以降東日本・西日本各地で百数十回にわたる講演会(四節)をおこなって大きな反響をよびおこした。八月現在で宣伝使は二〇五四人(正宣伝使六六・準宣伝使二一七・同試補一七七一)にたっし、七月からは第三期教修生二〇人が宣教の第一線にくわわった。さらに本部からは特派宣伝使や講師が出講し、地方では主会長のもとに宣・信徒たちがなみなみならぬ苦心と努力をはらった。この間、未開地域にたいする宣教にも力がそそがれ、島根の隠岐をはじめ、沖縄・奄美大島、長崎の五島・壱岐・対馬、淡路島などでも教線がのびた。
 教線の拡充に並行して「真信仰の確立」が配慮されたことはいうまでもない。「主神の実在と神格、人生の本義、大本出現の意義、厳瑞二霊の御因縁、聖地の意義、苑主の御神徳、神書の権威、天地の御恩」がくりかえし説かれ、「神業奉仕」の信仰が強調された。二月には出口聖師吹込みのレコード(複製)「天津祝詞」「神言」「講話─真の信仰・思い出」「宣伝歌(思い出)」「花明山音頭─基本宣伝歌・一の谷嫩軍記」、および出口総長の「宣伝歌(綾の聖地行)」を頒布、つづいて『大本讃美歌』『大本愛善苑の大要』、『霊界物語抄四』(第七・八巻の抜萃)が公にされた。五月には「神の国」「木の花」誌の拡張運動が展開され文書宣教も一段と活発になった。九月には本部道場の一般講座に「開祖伝」「聖師伝」「大本四大主義」、特別講座には「開教六十周年と神業」「道院と世界紅卍字会」がくわえられ、一〇月一八日の霊界物語口述三十周年には記念祭典と拝読大会が盛大におこなわれて、神書の研鑚と信仰の向上に拍車がかけられた。
 このようにして教団あげての宣教活動が実をむすび、約三〇の主会が梅花目標を突破して、一二月八日の新生記念祭には、信徒の目標数五万六〇〇〇人をこえて五万八五四七人にたっした。
 一九五一(昭和二六)年九月八日、サンフランシスコにおいて対日講和の調印がなされた。全面講和ではなかったけれども、終戦以来六年八ヵ月にわたり占領治下におかれていた日本は、おおきな転換期をむかえた。終戦直後、出口聖師によって「日本の敗戦の苦しみはこれからで、寅年の昭和二十五年までは駄目だ」と信徒にいわれていたことが、信徒の胸に想起された。総長は信徒にたいし、「今後の日本を如何にすべきか、如何にあるべきかを、日本人自らか決定しなければならない、重大な時期に到来している……宗教的信念と努力によって日本を興隆し、世界の平和に貢献しなければならぬ」とその決意を表明し、神業奉仕への邁進がますます必要であることを強調した。なお九月八日、綾部では鶴山山上で、亀岡では東光館で、講和調印の奉告祭がそれぞれおこなわれている。
 九月二四日には綾部の彰徳殿で、大本愛善苑総本苑主催・綾部市遺族厚生会後援による、綾部市・何鹿郡六ヵ村出身の戦没者慰霊祭が、遺族約一〇〇〇人の参列のもとで執行された。この日招魂されたのは日清戦争以後の戦没者二一八八柱で、慰霊祭ののち斎納社(綾部天王平一ノ瀬)に鎬祭された。
 一一月一日には二代苑主の発意にもとづいて、綾部梅松苑広場で、大本愛善苑と人類愛善会の主催する第二次世界大戦万国犠牲者の慰霊祭がおこなわれた。参列した遺族は約二〇〇〇人、来賓・一般参列者は一〇〇〇人にもたっし、ルーズベルト元大統領夫人はじめ海外からよせられたメッセージ、林衆議院議長・佐藤参議院議長・松岡世界連邦国会委員長・暁鳥東本願寺宗務総長ら一七人の祭詞、日本遺族連盟・国際宗教同志会・京都宗教連盟代表の玉串捧呈があり、盛大にしてしかも厳粛な祭儀がいとなまれた。慰霊祭後は斎納社に合祀して、毎朝夕の給仕・祭祀をおこなうことになった。この日、出口総長は大本・人類愛善会を代表して、「対日講和調印の日、まず私たちのまぶたに浮んだものは、この大戦の犠牲者のことでありました。……これらのみたまをなぐさめることは、二度と戦火を見ない世界平和実現の根底です。なぜなら死後の生活を信ずる私たちには、みたまの意志、想念、感情が人類に影響すること大だといえるからです。慰霊の行事とともに犠牲者への最大のおくりものは、戦争なき世界、絶対平和の道に進んで行くことです」とのべた。
 大本愛善苑の内外にわたる活発な活動にたいする社会の反響もいちじるしいものがあり、「毎日グラフ」(昭和25・3・15)や「家庭朝日」(昭和26・3・17)をはじめとする新聞・雑誌などにもとりあげられた。地元では昭和二六年二月一四日に綾部に大本協賛会が結成され、会長に長岡市長が就任して市をあげての協賛体制がつくられた。また宗教界でもその実績が評価されて、同年三月一九日には、衆議院文部委員会における宗教法人法案の公聴会に出口総長が公述人として出席した。総長は同法案にたいし、「信教の自由、政教分離の根本原則が具体化され、明らかにされている」点については肯定しつつも、「従来の宗教法人令に於ては、法人格取得については届出主義をとっていたが、これを認証主義に改めた」点は「退歩」であり「遺憾」であるとして、するどく批判した。
 昭和二七年一月二八日には、文部大臣の諮問機関である宗教法人審議会初回の委員として出口総長が選出された。

〔写真〕
○月刊誌の発行 p858
○梅花運動は各階層に積極的に展開された 第二回愛善青年研修会 彰徳殿 p859
○少年少女たちへの浸透もめざましかった 出口栄二愛善青年全国会議議長の講話 綾部 松香館 p860
○神書の大本神諭(右)と霊界物語を復刊し拝読が奨励された 中央は海潮を改題した神の国 p862
○梅花運動の成果があがり全国各地から参拝者修行者がつぎつぎに聖地をおとずれた 本部参拝の団体列車 p863
○上 全日本宗教平和博覧会で注目をあつめた大本愛善館 石川県金沢 下 全日本宗教平和博覧会記念大本愛善展覧会 綾部 波多野記念館 p864
○朝鮮戦争の勃発 国土は戦場となり民衆の生活はまたもや破壊された p865
○離島の宣教にも力をいれ教線の地固めがなされた 奄美大島 p867
○単独講和さらに全面講和へ その日の聖地での諸行事 p868
○上 第二次世界大戦万国犠牲者慰霊祭 綾部梅松苑 下 綾部市何鹿郡六ヵ村出身戦没者慰霊祭 玉串捧呈の二代苑主 彰徳殿 p869
○大本愛善苑の斬新な方針と大胆な行動力は社会の注目をあつめ宗教法人審議会委員に出口総長が選出された 前向き左から2人目 p870
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