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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第1章 >1 教主 出口直日よみ(新仮名遣い)
文献名3三代教主の人となりよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ954 目次メモ
OBC B195402c8112
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本文  三代教主は、出口王仁三郎聖師と二代教主出口すみ子の長女として、一九〇二(明治三五)年三月七日に誕生をみた。さっそく「あさ野」(戸籍名「〓〓〓」)と命名されたが、翌年旧四月二八日の弥仙山の岩戸びらきのさいに、神示によって「直日」と改名された(上巻二四六~二五〇頁)。こうして教主は両親と祖母の愛撫のうちに成育する。ことに開祖の気風をしたい、もっともふかくその感化をうけられたという。
 一九〇八(明治四一)年四月には六才で綾部小学校に入学し、ついで一九一四(大正三)年四月、一二才で何鹿郡立女子実業学校に入学した。そして翌年の四月には剣道(柳生流)修業のため、名古屋市の朝倉尚綗宅に約一ヵ月滞在し、九月には学校を中途退学して、一一月から京都市の梅田信之の宅に滞在して北野の武徳殿にかよった。少女のりりしい剣道修業の姿は、道ゆく人たちのかたりぐさとなった。
 一九一六(大正五)年二月には、直霊軍の別働隊として白虎隊(少年隊)が組織された。そのさいわずか一三才でその指揮者におされて街頭宣伝にたち、その活躍ぶりは役員・信者のはげましとなった(上巻三四〇頁)。また同年六月(旧五月)と一〇月(旧九月)の神島開きには、開祖・聖師・二代教主とともにこの神業にしたがい、一九一七(大正六)年三月には、開祖の命により京都をひきあげて綾部にかえり、四月からはご神体・おひねり・守護神命名などの神務にもつかえた。
 一九一九(大正八)年、一七才のころ、長谷川宗美について茶道(裏千家流)をならいはじめ、翌大正九年からは「木の花暁丸」のペンネームで、和歌を「神霊界」や「大正日日新聞」などに発表した。歌の道には梅田信之からおくられた『歴代御製集』『勤皇志士和歌集』によってはやくから関心があり、湯川貫一の古今集講座で和歌の手ほどきがうけられていた(二五八頁)。
 一九二一(大正一〇)年二月には、上巻に詳述したように第一次大本事件がおこった。開祖奥都城の改築、本宮山神殿の破壊にくわえて教団内の動揺・改革という深刻な事態のなかにも、三代直日の心には聖師・二代教主をたすけ、確固たる信念がいきつづけた。官憲の暴圧のなかに、書道の稽古がはじめられ、翌大正一一年には、二代教主とともに北陸・東北の巡教に旅立っている。さらに田中緒琴についての八雲琴の手習いもはじめられた。
 一九二五(大正一四)年、二三才のときには、中野茗水について宝生・命尾流の謡曲が習いはじめられ、同じ年には若山牧水主宰の「創作」に入会する。短歌の道は日出麿師の万葉集釈講によってその精神を会得されたといわれているが、一九二九(昭和四)年には前田夕暮の「詩歌」に入会し、また「明光」の木の花集の選者となった。さらに一九三四(昭和九)年には中河幹子の「ごぎやう」に入った(二五八頁)。その間歌誌「アララギ」の購読がつづけられていたが、一九四六(昭和二一)年にはアララギ同人の夏山茂樹が主宰する「丹波路」(後に「はにつち」と改題)に入会した。一九五〇(昭和二五)年からは、「木の花」「おほもと」誌に木の花歌壇をもうけ、その選者におされて独自の境地がひらかれてゆく。
 一九二八(昭和三)年二月一日、二五才にして高見元男(日出麿)と結婚し(後述)、三女一男をあげられた。その間教団の表にはたたず、ひたすら神務につかえ、育児と夫の内助につくすとともに、伝統文化の研鑚がつづけられ、信者からは三代さまとして敬仰されていた(二五七~二五九頁)。
 一九三五(昭和一〇)年一二月には、第二次大本事件がおこった。聖師・二代教主・夫の日出麿をはじめ主だった人々がみな投獄されたが、三三才のわかき身で、解散させられた大本の実質的中心者となり、一九三七(昭和一二)年九月には居を綾部から亀岡にうつして、暴虐な弾圧のなかで弁護資金の調達・信者の指導など、事件解決のためのなみなみならぬ苦労がつづけられた。時局の逼迫・世相の変転のなかに織りなされた三代直日の辛苦は、とうてい筆舌につくしがたいものがある。一九四三(昭和一八)年六月には竹田へ居がうつされたが、こうした苫難のなかにあっても、農事にはげむかたわら、芸道への精進はたゆみなくつづけられた。このおおきな修錬が天性の珠をみがきにみがき、玲瓏の光がそえられる機会ともなったのである(六編)。
 一九四六(昭和二一)年の新発足後は、もっぱら楽天社の中心的指導者として、芸術的活動を本格的に展開して信徒の啓蒙につくしたが、またそのころから、能楽・陶芸の道への関心もふかまった。一九四八(昭和二三)年秋ごろからは、中野茗水についてさらに宝生流の能楽をならい、太鼓と鼓についても、第二次大本事件中から中野によって手ほどきをうけていたが、その後太鼓は金春流の前川光隆に、鼓は幸流の曽和博朗について特進がつづけられている。一九五〇(昭和二五)年二月には瑞月窯を亀岡天恩郷にきずき、陶器の絵つけがはじめられた。翌一九五一(昭和二六)年八月には花明山窯芸道場がもうけられて、石黒宗麿・金重陶陽の手ほどきをうけた。そののち綾部梅松苑にも作陶場(鶴山窯)をもうけ、つぎつぎにすぐれた作品がつくりだされている。
 この間、昭和二五年には、京都の萩の庵にしばらく住まっていたが、教団の用務が多忙になったので、昭和二六年二月には亀岡天恩郷にうつり、瑞祥館やときには花明山工房(のちの葉がくれ居)に住居した。そしてその年の三月には天恩郷に植物園の建設がはじめられ、その後、聖地・神殿の造営にも独自の構想と風格がしめされるようになる。
 その他草花の写生画や植物染・手機などにもそのすぐれた才能が発揮され、多方面にわたる芸術の道にそのゆたかな天分がしめされた。それはそのまま「生きた社会……歩ませられている現実の中」でのきびしい修行の道であり、真善美愛の探究でもあった。そこには真実一路をもとめる精進の姿があった(五章)。著書には『私の手帖』・『続・私の手帖』、歌集には『ちり塚』・『雲珠桜』がある。
 三代教主の美的感覚のするどさと、その人柄の誠実さは、つぎの芸術関係者の言葉にもはっきりと物語られている。
 能画家松野奏風は、「直日さまの仕舞について最初に私に噂さを聴かせてくれたのは、先代の金剛巌氏だった。『……どうして、しっかりしたもので、婦人には珍らしい大した気魄にびっくりした……』。何事によらず、技能の道は、それを修めた努力の深浅と、当人の才幹とにまって上手下手は、その時々の段階を示す。が、右の気魂は別である。演練や器用によるものではない。天性である。ただしやや解説してみれは、それを習い修めることに私なく、全神全霊をあげて道に順い、教えにつく真摯の念があって、要するに如何にそのことに打ち込む心の深いかが本体であろうと思う。……他の道はいざ知らず、能楽の道にとって、その気魄の一義は、他の何よりも尊貴な要点なのである」といい、歌人の夏山茂樹は、「はっきりいえることは、作者が、宗団の教主という面倒な世界にいながら、常に妥協することなく、虚偽を憎み、真実を追うて、誠実、卒直に生きていることである。これはたやすいようでなかなか出来難いことである。そこにはたえざる勇気と、人間完成えの欣求心が必要とせられる。真実に生きようとすればするほど、生きにくい世の中である。その中で、直日さんが、ひしげることなくまっしぐらに、力強く生き抜いていられる姿は、私にいつも親しさと勇気を与えてくれる」とのべ、陶芸家の石黒宗麿は、「平凡と凡庸とは隣りあわせに存在する。しかし、平凡にして凡庸ならざるものには、云いしれぬ深さと気高さがにじみ出て来る。その人の本質、すなわち『人柄』と『心境』の高さが、作りあげていった『モノ』こそは、突飛な技巧など足もとにもおよばないものである。私か直日さんの陶芸作品を高く評価している所以は、この点にある……。直日さんの作品は光悦のそれと同質なものを感じる。しかし、さらに比鮫するならば、光悦にはワザのウマサと秘密がある。直日さんの作品には、こんなものは一ツもない。それでいて人を引きつける良さがある」と評している。
 一九五二(昭和二七)年四月、三代教主の道統を継承し今日にいたっているが、その就任を祝賀して、嵯峨保二がのべた言葉の一節は前にも引用したが、教主にたいする信徒の気持がよくしめされているので、再度かかげておこう。

御年少のころから、さらに長ぜられますにしたがい、御神縁、御宿命はそれといたされまして、一人の人間として、きわめて厳しい人間的精進をつづけられ……過去五十年の御生活において日本芸術文化を実に多面にわたって研鑚されたのであります。……生れなからにして自然に親しみ、自然を愛される、まことに素朴な自然人であり、またきわめて優雅な詩人であらせられるといえましょう。もろもろの学問、芸術の御修業は、とりもなおさず真善美愛の御探究でありまして、真実一路、誠一すじを求めてやまれない先生の御精進のお姿でありました。

 この祝賀の言葉には、たゆみなき探究と精進をつづけてやまなかった三代教主の人となりについての信徒の敬仰の念とよろこびの情とが、あますところなく表明されている。

〔写真〕
○出口直日筆 p955
○〝風涼しき午後を縁側に盥据ゑ母のせしごと真綿かけする〟 綾部梅松苑 要荘 p956
○白釉 黒花山文 茶盌 出口直日作 p958
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