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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第5章 >1 楽天社と芸術よみ(新仮名遣い)
文献名3植物園・このはなざくらよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ1261 目次メモ
OBC B195402c8519
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本文  花明山植物園建設の構想は、三代直日の提唱により、一九五一(昭和二六)年春から大本楽天社生活科学研究会の重点事業として、その具体案がねりはじめられた。その造園計画については、研究会同人の出口光平が、昭和二六年「木の花」二月号に「大植物園建設要綱」として「日本文化に於きましては総て庭園は宇宙の縮図、天界の移写として、天地神明の昇降される清浄、至聖の地として、惟神に伝わって来たものでありまして、ことに、花明山天恩郷神苑は、天地創造の主神が永遠に鎮まり給う霊園の移写として、綾部神苑の天国の移写と相対して、天地相応の理により最奥霊園の荘厳をうつしまつり、その荘厳を又、霊国に反映したてまつるべき霊場であることは、神示により明かなところであります。出口聖師は自著『庭園』論の末尾に、『自分は大正十四年の春より、意を決して亀岡城址にたてこもり、霊界の移写工事を開設した。清爽なる大神苑をつくり、一方に花壇、温室等を設け、四季の花を咲かせ、地上の霊園を実地に建設せんとしている。又芸術の都として楽焼の窯を据え盛んに美器を作り出し、和歌文芸を奨励し、亀岡の城祉を花明ケ同と改称したのも、花によって神の心をなぐさめ、求道者の心を清め、役員信徒の心身に爽快の恵に浴せしめんとするためである』と明記されています。このように天恩郷神苑の造園は神業として実践化され、完成されなければならない課題であります」とのべ、つぎのような具体案をしめしているのが注目される。

1、万葉植物園 2、日本固有植物園3、日本にて発見された植物園 4、各地の植物園(北海道より四国、九州まで) 5、古代よりの植物進化園 6、高山植物園 7、染料植物園 8、薬草植物園 9、製紙植物園 10、繊維植物園 11、有毒植物園 12、牧草植物園 13、伝説の植物園 14、海岸植物園 15、湿地植物園 16、果樹園 17、茶花園 18、各科種別植物園(桜園、牡丹園、笹竹園、紅葉園等) 19、芝生園(含む花園) 20、材料園 21、採種園 22、温室

 右の計画にしたがって、一九五一(昭和二六)年三月から、神苑造園事務所を開設し、植物の蒐集、分類、標本の作成、造園の具体化がすすめられ、植物学者である竹内敬が専心ここれにれにたずさわることになった。竹内は「この植物園の造園は大変なことですから、これに専念します。私も永年の植物研究の成果として、大植物園の完成に余命を打ち込んでやってみたい」との決意を披瀝している。
 三代直日の植物にたいする愛情はふかく、ことに日本の山野に自生する野草にはふかい関心をしめした。みずから「草の帖」をしるして、おりにふれてはこまかい観察をおこない、はやくから亀岡天恩郷の朝陽館敷地や照明館横の空地に、各種の日本の野草をあつめた。また地方巡教のさいは寸暇をさいて採集につとめ、おりにふれては、郷土に咲く四季の植物や、日本の国土にたいする関心をふかめるよう信徒の指導・啓蒙がなされている。
 蒐集にあたっては、竹内をはじめ造園事務所から各地に採集にでかけるとともに、全国各地の信徒に「蒐集植物目録」をおくって協力をよびかけた。信徒のあいだにも「植物敬愛のつどい」がもたれ、また同好者から本部のよびかけにこたえてつぎつぎと各種の植物がおくりこまれたため、三年後の一九五四(昭和二九)年には、植物園としての大体のまとまりをみることができた。その後も充実をかさね、今日では、各地から植物学者や植物園長など専門家の来園もおおく、日本における異色ある植物園のひとつになっている。一方、綾部では、彩霞園を公園墓地とし、さらにその一帯を大植物園とする構想がすすめられている。
 また、日本の郷土を愛する運動の一つに、楽天社が主催して全国各地の郷土玩具をあつめ、その展覧会をひらいて、地方にうずもれかくされていた「民芸品」の発掘・啓蒙につとめたことを付記しておこう。

〈「このはなざくら」の発見〉 一九五三(昭和二八)年四月一四日、三代教主によって発見された「桜」の新種が、
(和名)このはなざくら
(学名)Prunus Jamasakura Sieb. var. Nahohiana Koidz. et K.Takeuchi
(発見者)出口直日(昭和二十八年四月十四日)
として世界の植物学会に報告され、桜種のなかに貴重な一頁をくわえた。
 この桜の古木は、天恩郷中ノ島植物園の濠の水辺よりすとしはなれたところにおいたっていだが、昭和二八年の春、三代教主がその花を観賞しているうちに、山、さくらの一種ではあるが、かつてみたことのないその形状に気づき、竹内敬にそのことをつたえて調査を依頼した。竹内はさっそく調査にかかり詳細な観察をした結果、新種との予想をつよくした。この山桜の特徴は、普通は二花まれに三花の繖房花序で、下むきに咲き、花は淡紅色をおび、上部辺縁はやや濃き淡征色、重瓣で約四五枚前後の花片よりなる。果実は二個ずつむすんでおり、桜属(prunus)の稀品である。奈良の知足院にある「ナラノヤヘザクラ」によくにた「サクラ」であるが、「コノハナザクラ」には葉柄ならびに葉の裏の脈や、花梗に毛のないところがことなっている。竹内は、自分の師であり、かつ植物学桜科の世界的権威者である小泉源一博士に、資料をそろえて検定を依頼したところ、桜属の新種であるとの断定がくだされるにいたった。前記学名とならんでつけられた変種名の「Nahohiana」は、発見者出口直日を記念するため名づけられたものである。
 一九五三(昭和二八)年八月二一日、亀岡天恩郷の月宮宝座前で、「このはなざくら」命名奉告祭がおこなわれ、ひきつづき中ノ島の「このはなざくら」の前で命名式がおこなわれた。そのおり、教主の、〝わがそのの山桜やさしきはなびらの八重なるをめでいしに新種なりといふ〟の歌が朗詠された。新種発表の記事は各新聞にも報道されたので、植物研究者はもちろん学生・知名人等の見学もにわかにふえ、苗木の分譲を、国内各地はもちろん海外からまで申しこんでくるようになった。全国各地の大本の本苑・分苑等にも移植する一方、静岡県大宮の富士浅間神社、長野県浅間山神社、その他各地の神社からの申込みにたいしても、これを寄贈した。一九五六(昭和三一)年二月、新種「このはなざくら」の苗木は、海をわたってユーゴスラビア、オーストラリア等一〇数ヵ国へもおくられている。

〔写真〕
○花明山植物園は異色の存在として注目されている 左から出口直日 出口新衛 竹内敬 p1261
○出口直日の草花帖 一部  茎 葉 実の一つ一つの末端まですこしも省略することなく美しい神経に磨かれた線でまとめられている p1262
○するどい観察と探究…… このはなざくらの写生をされる教主と発見にちなむ自筆原稿の一部 p1263
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