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文献名1霊界物語 第37巻 舎身活躍 子の巻
文献名2第3篇 阪丹珍聞よみ(新仮名遣い)はんたんちんぶん
文献名3第20章 仁志東〔1032〕よみ(新仮名遣い)にしひがし
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-10-25 14:07:27
あらすじ
話は少しさかのぼって、明治三十一年の四月三日、神武天皇祭の日に、喜楽は早朝から神殿を清めて修行者と共に祭典を行っていた。そこへ、飄然として五十余りの男が訪ねてきた。

男は紀州の出身で三矢喜右衛門と名乗り、静岡県富士見村の月見里稲荷講社の者だという。巡回のおりにここの噂を聞きつけ、総本部の長沢総理に伺ったところ、因縁のある者だから調べてこい、と言われたという。

喜楽は高熊山の修行以来、霊学の問題の解決に精神を集中していたが、身内から村中の者まで、悪罵嘲笑の的となりなんとかして人々の目を覚まさねばらなぬと思っていた。

そうしたところ、長沢総理が霊学の大先生だと聞いて、光明を見出し、旅費を工面して生まれて初めて京都から汽車にのり、静岡の長沢先生宅に到着した。

そのころ長沢先生はまだ四十歳の元気盛りであった。霊学上の話や本田親徳翁の来歴など立て続けにしゃべりたて、その日は自分の住所氏名を告げただけで終わってしまった。

長沢先生の御母堂の豊子刀自は、本田親徳翁の予言した丹波からの修行者はお前さまのことだろう、と本田翁が遺したという鎮魂の玉、天然笛、神伝秘書の巻物を渡してくれた。

翌日は喜楽は自分の神がかりに至ったいきさつを長沢先生に詳細に物語り、その結果、先生が審神者となって幽斎式を執り行うことになった。その結果、疑うかたなく小松林命の御神懸ということが明らかになり、鎮魂帰神の二科高等得業を証す、という免状もいただいた。

喜楽はこれまで、数多の人に発狂者だ、山子だ、狐つきだとけなされてきたので、高等神懸だと判定され、長沢先生こそ大なる力となるべき方だと打ち喜び、直ちに入門することとなった。

それより一週間ばかり世話になり、ようやく穴太の自宅に帰ることを得た。三矢喜右衛門も一緒についてきたが、園部の下司熊吉と結託して、喜楽に対していろいろと反抗運動をなすにいたった。

下司熊は、斎藤宇一の叔母にあたる修行者の斎藤静子を妻とし、一派を立てようとしていた。しかし下司熊は腹心の財産を使いこんでおり、喜楽は斎藤宇一に頼まれて、所有している牛を売って弁済することになった。

しかし下司熊は芝居を打って、喜楽の牛を売った金をほとんど懐に入れてしまった。

その後、下司熊は石清水というところで村の神官と示し合わせて、観音像を埋めておき、お告げの振りをして像を掘り出した。それをご神体として信者を集めて一時は人気を集めていたが、警察に目をつけられてしまいはやらなくなってしまった。

そこで下司熊は再び園部に舞い戻って博徒となっていたが、病気になって夭折してしまった。

弟の由松は、下司熊に牛の代金をだまし取られたことを怒り、そんなことも知らすことのできない腰抜け神だと祭壇をひっくり返して暴れまわった。

喜楽は今後のことを伺うために産土の社に参拝したところ、神勅を受けた。小松林命曰く、一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組みで待っている人がいるから、速やかに園部方面に行け、と大きな声で決めつけられた。

それより喜楽は故郷を離れることを決意したのである。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月11日(旧08月21日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年3月3日 愛善世界社版237頁 八幡書店版第7輯 120頁 修補版 校定版246頁 普及版117頁 初版 ページ備考
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本文  話は少し元へ帰る。明治卅一年の四月三日神武天皇祭の日、喜楽は早朝より神殿を清め修業者と共に祭典を行つて居た。そこへ瓢然として尋ねて来た五十余りの男がある。男は無造作に閾をまたげてヌツと這入り、
男『私は紀州の者で三矢喜右衛門と申します。稲荷講の福井県本部長で、静岡県阿部郡富士見村月見里稲荷神社附属、稲荷講社総本部の配札係で御座います。紀州を巡回の折柄、ここの噂を承り、すぐさま総本部へのぼり長沢総理様に伺うた所、因縁のある人間ぢやに依つて、兎も角調べて来いと言はれました。過去現在未来一目に見え透く霊学の大先生長沢様の御言葉だから、喜んでお受けなされ、決して私は一通りの御札くばりではありませぬぞ』
とまだ喜楽が一口も何ともいはぬ先から、虎の威をかる狐の様に威ばり散らしてゐる。喜楽は稲荷講社と云ふ名称に就いては聊か迷惑のやうな気がした。なぜならば口丹波辺は稲荷講社といへば直に稲荷おろしを聯想し、狐狸を祀るものと誤解されるからである。併し乍ら過去現在未来を透察する霊学の大家が長沢先生だと言ふことを聞いては、此三矢を只でいなすことは出来ない様になつて来た。
 二月以来高熊山の修行から帰つたあとは、霊感問題に没頭し、明けても暮れても、霊学の解決に精神を集中して居たからである。そして親戚や兄弟、村の者までが、山子だ、飯綱使だ、狐だ、狸だ、野天狗だ、半気違だと口々に嘲笑悪罵を逞しうするので、何とかして此明りを立て、人々の目をさまさねばならぬと、心配して居た所へ三矢氏が来たのだから、一道の光明を認めたやうな気になつて、勇み喜び、直に三矢を吾家に止め、いろいろと霊学上の問題を提出して聞いて見たが、只配札のみの男と見えて、霊学上の話は脱線だらけで、何を聞いても一つも得る所がなかつた。それから旅費を工面して、三矢の案内で愈同月の十三日、穴太を立つて京都まで徒歩し、生れてから始めての三等汽車に乗つて、無事静岡の長沢先生の宅に着くことを得た。
 長沢先生は其時まだ四十歳の元気盛りであつた。いろいろと霊学上の話や、本田親徳翁の来歴等を三四時間も引続けに話される。喜楽が一口言はうと思うても、チツとも隙がない。此方の用向も聞かずに四時間斗り喋り立て、ツツと立つて雪隠へ行き、又元の所へ坐り、三方白の大きな目を剥き出し、少し目が近いので背を曲げ、こちらを覗く様にして、又もや自分の話を続けられる。机の下は二三ケ月間の新聞紙が無雑作に散らけてある。沢山の来信も封を切つたのや切らぬのが、新聞紙とゴツチヤになつて広い机のグルリに散乱してゐる。長沢先生は障子の破れ紙の端をチヨツと引むしつて、ツンと鼻をかみ、ダラダラと流れやうとする鼻汁を又ポンと紙を折り、遂にはツーと余つて鼻汁が膝の上に落ちやうとするのを、今度はあわてて新聞紙の端を千切り、それに鼻汁紙を包んで、無雑作に机の下に投げ込み乍ら、平気な顔で又五時間斗り喋りつづけられた。長途の汽車の旅で体は草臥てゐる。一寸どこかで足を伸ばしたいと思ふても先生が動かないので如何することも出来ず、とうとう其日は自分の住所姓名を僅に告げた丈で、長沢先生の話斗りで終つて了つた。
 先生の母堂に豊子といふ方があつて、余程霊感を得てゐられた。豊子さまは喜楽に向ひ、
豊子『お前さまは丹波から来られたさうだが、本田さまが十年前に仰有つたのには、是から十年程先になつたら、丹波からコレコレの男が来るだらう、神の道は丹波から開けると仰有つたから、キツとお前さまのことだらう、これも時節が来たのだ。就ては、本田さまから預つて置いた鎮魂の玉や天然笛があるから、之を上げませう。これを以てドシドシと布教をしなされ』
と二つの神器を箪笥の引出しから出して喜楽に与へ、且神伝秘書の巻物まで渡してくれられた。翌朝早うから之を開いて見ると、実に何とも云へぬ嬉しい感じがした。自分の今迄の霊学上に関する疑問も、又一切の煩悶も拭ふが如く払拭されて了つた。
 午前九時頃から、長沢先生は再び自分を招かれた。早速に先生の前に出で、今度は自分の方から喋り立て、先生に一言も云はすまいと覚悟をきめて出合ふなり、自分の神憑りになつた一伍一什を息もつかずに三時間斗り述べ立てた。先生は只『ハイハイ』と時々返事をして、喜楽の三時間の長物語を神妙に聞いて呉れられた。其結果一度審神者をして見ようと云ふことになり、喜楽は神主の席にすわり、先生は審神者となつて幽斎式が始まつた。其結果疑ふ方なき小松林命の御神憑といふことが明かになり、鎮魂帰神の二科高等得業を証すといふ免状迄渡して貰つた。喜楽は今迄数多の人々に発狂者だ、山子だ、狐つきだとけなされ、誰一人見わけてくれる者がなかつた所を、斯の如く審神の結果、高等神憑と断定を下されたのであるから、此先生こそ世界にない、喜楽に対しては大なる力となるべき方だと打喜び、直ちに請ふて入門することとなつたのである。要するに長沢先生の門人になつたのは霊学を研究するといふよりは、自分の霊感を認めて貰つたのが嬉しかつたので入門したのであつた。
 夫れより先生に従ひ、三保の松原に渡り、三保神社に参拝して、羽衣の松を見たり、又は天人の羽衣の破れ端だと称する、古代の織物が硝子瓶の中に納められてあるのを拝観したりし乍ら、一週間許り世話になつて、二十二日の夜漸く穴太の自宅に帰る事を得た。三矢喜右衛門も再穴太へ従いて帰り、園部の下司熊吉方に往復して、とうとう斎藤静子と熊吉との縁談の媒人までなし、今迄の態度を一変して、下司熊をおだて上げ、いろいろと喜楽に対し、反抗運動を試みる事となつた。
 下司熊は、斎藤静子の余りよくない神憑を女房に持ち、自分も神憑となつて、相場占を始め出した。下司の腹心の者に藤田泰平といふ男があつた。此男は人の反物を預り、着物や羽織を仕立て、賃銭を貰つて生計を立てて居た男である。下司熊の頼みによつて、方々から預つたいろいろの反物を質に入れ、金を借り、それを下司熊に使はれて了ひ、依頼主から火急な催足をされて、非常に煩悶をしてゐた。グヅグヅして居ると刑事問題が起り相なので、泰平自ら穴太へ行つて来て、下司熊の為に自分は退引ならぬ破目に陥つた事を歎きつつ物語り、如何かして助けて貰ふ訳には行かうまいかと云つて泣いて居る。喜楽も最早如何する事も出来ない。併し乍ら何とかして助けてやりやうはないかと、頭を悩ましてゐた。そこへ斎藤宇一が自分の叔母の婿となつた下司熊と共に出て来て、何とかして藤田を助ける工夫はなからうか、藤田許りか下司までが、此儘にしておいたら、取返しのつかぬやうな事になつて了ふ。お前の家や屋敷を抵当に入れて、金でも借つてくれまいかと斎藤が云ふ。併し乍ら喜楽の家屋敷は既に抵当に入り、五十円借つた金も、とうの昔になくなつて居た。ふと思ひ出したのは奥条といふ所に預けておいた乳牛がある。其牛は喜楽の自由の物で、精乳館の物ではなかつたのを幸ひ、それを売つて下司や藤田の急場を助けてやらうかと思ひ、喜楽が九十円で買うた牛が奥条に預けてある、それをどつかへ売つてくれたら、其金を間に合はしてやらうと、云ふた言葉に下司は手を拍つて踊りあがり、
下司『そんなら済まぬが、どうぞ暫く私に貸して下さい。此牛は自分が入営してゐた時の友達で、矢賀といふ所に伯楽をして居る者があるから、そこへ連れて行て買うて貰はう』
といふ。そこで話が纏まつて、藤田泰平は園部へ帰る。喜楽と宇一と下司熊の三人は、奥条の牛の預け先から引出して来て、八木の川向うの矢賀といふ所へ引張つて行つた。
 其日は此地方の氏神の祭礼で、あちらこちらに大きな幟が立つてゐる。漸くにして九十円の牛を十五円に買ひ取られ、日が暮れてからソロソロ八木へ廻つて帰らうとした。十五円の金は下司が預つたきり、懐へ入れて了つた。そして十円さへあれば下司の問題も一切片付くのである。五円丈は喜楽に渡すといふ約束であつたが、下司はふれまわれた酒にヘベレケに酔うて、何と云つても、妙な事計り言つて受入れぬのみか、日清戦争で戦死した戦友の石碑が立つてる前へ行つて手を合せ、
『惟神霊幸倍坐世、オイ貴様もおれと一緒に戦争に往つたのだが、とうとう先へ死によつたのう、本当に貴様は可哀相なものだ。こんな部落へ生れて来て、其上鉄砲玉に当つて死んで了ひ、本当に可哀相だ。おりや君に同情するよ。ナアに、俺だつて、同じ人間だ。そんなこた遠慮に及ばぬ』
と沢山の部落民がそこに居るのも構はず喋り立てる。忽ち十四五人の男が現はれて、
『ナアに失礼な事をぬかす、やつてやれ』
と言ひ乍ら、下司熊の手足を取り、ヨイサヨイサと祭の酒に酔うた奴斗りが、矢賀橋の側までかいて行き、メツタ矢鱈に頭をなぐる、打つ蹴る、非常な大騒ぎとなつた。宇一は部落民の方へ分け入つて、いろいろと下司の為にあやまつてやつてゐた。喜楽は懐中の天然笛を取出して、一生懸命にヒユーヒユーと吹き立てた。何と思ふたか、一人も残らず暴漢は逃げて行く。
 そこへ巡回の巡査がやつて来て、下司熊を労はり八木まで送り届けてくれた。喜楽も宇一も巡査の後に従いて八木の橋詰まで帰つて来た。来て見れば橋の西側に劇場があつて、芝居が始まつてゐる。勧進元は下司熊の父親の下司市といふ可なり名の売れた顔役である。下司熊は喜楽や宇一を楽屋の中まで引張て行き裸になつて見せて、
下司『あゝ喜楽サン、折角に世話になつた牛の金が最前の喧嘩でおとしたとみえて、これ此通り一文も無い』
としらばくれてゐる。後から事情を探つて見れば、実際は五十円に牛を売り、ワザとに八百長喧嘩を仕組み、一文も残らず引つたくつてやるといふ計略に乗せられたのであつた。又藤田の来たのも、下司や宇一との計略に依つて喜楽の牛を売らし其金をせしめようといふ計略であつた事が判明したのである。それが分つたので喜楽は神憑になり、腹の中の憑霊に向つて、
喜楽『なぜ喜楽の肉体がこんな目に会うてるのに知らさなんだか、言はいでもよいこと許り喋る癖に、なぜかう云ふ時に知らしてくれぬのだ。モウこれからお前らの言ふことは聞かぬ。サア私の体からトツトと帰つてくれ』
と腹立紛れに呶鳴り立てた。さうすると暫く静まつて居つた玉ゴロが、又もや喉元へこみ上げて来て、小さい声で、
『アツハヽヽヽ、馬鹿だのう』
といつたぎり、何と云つても、キウともスウとも答へてくれぬ。とうとう泣き寝入りになつて了うた。
 下司熊は其後須知の岩清水といふ所で、村の神官と諜し合せ、観音の木像を土の中へ深く埋けておいて、「サテ自分は神さまのお告に依り岩清水の或地点に観音さまが埋まつて御座ることを聞きましたが、一ぺん調べさして頂きたい」と区長の宅へ頼みに行つた。それから区長の許しを受けて、宮の神主と共に掘り出しに行つた所、観音の木像が出たので、それを御神体とし、船越某の家で祭壇を作り、所在神仏の木像を古道具屋の店のやうに祀りこみ、二三十本の幟をあちら此方に立て、お大師さまの御夢想の湯だと云つて、湯をわかし、患者を入浴せしめなどして、沢山の愚夫愚婦を集めて居た。そして観音の木像が神さまのお告げで現はれたといふので大変な人気となり、一時は非常に繁昌してゐたが遂に警察から科料を取られ、拘留に処せられ、それより段々信者が来なくなつて了ひ、やむを得ず、岩清水を立つて、再び園部へ舞ひもどり、神さま商売もテンと流行らなくなつたので、再び博徒の群に入り、とうとう睾丸炎を起して夭死して了つた。泰平も亦二三年を経て急病でなくなつて了つた。牛を下司に取られたといふので、又々由松が怒り出し、
由松『此神は盲神だから、兄貴の馬鹿がだまされて居るのを、黙つて見てやがつた、腰抜神だ。モウ俺の内にはおいてやらぬ』
といつて再斎壇を引つくり返し、暴れまはるので、喜楽も安閑として居る訳にも行かず、此上如何したらよからうか、一つ神さまに伺つて見ようと、産土の社に参拝して神勅を受けた。其時小松林命喜楽に神懸りして、
『一日も早く西北の方をさして行け、神界の仕組がしてある。お前の来るのを待つてゐる人がある。何事にも頓着なく速にここを立つて園部の方へ向つて行け!』
と大きな声できめつけられた。それより喜楽は故郷を離れる事を決意したのである。
(大正一一・一〇・一一 旧八・二一 松村真澄録)
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