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文献名1霊界物語 第37巻 舎身活躍 子の巻
文献名2第4篇 山青水清よみ(新仮名遣い)やまあおくみずきよし
文献名3第24章 神助〔1036〕よみ(新仮名遣い)しんじょ
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-10-28 12:20:01
あらすじ
金光教の土田雄弘、福島寅之助らは依然金明会に対して反対運動をしていたが、霊学の現場を見て霊感者となってしまった。しかし綾部の修行場も狭くなり、参拝者もたくさんあって思うような稽古もできず、鷹巣の四方平蔵氏宅に修行場を移した。

しかしここも幽斎の発動が激しく苦情が出始めたので、上谷の四方伊左衛門氏の宅に移転した。結果は良好で、二三人の不成功者を出しただけであとは残らず神人感合の境地に到達した。

そこで喜楽は四方平蔵氏を伴って、清水の長沢雄楯先生に報告に上がった。四方氏は霊学の説明を受けてその趣旨を悟るようになり、二昼夜滞在の上別れを告げて綾部に戻った。

帰途、四方氏は京都で汽車に引きずられそうになったり、蛸に当たったり、人力車の車輪がはずれたりなど、あわや大事故という目に一日に三度まであったが、無事であった。

四方氏の信仰の力と大神様のおかげで九分九厘のところを助けられたのは、氏が一心に神様に仕えていたおかげである。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月12日(旧08月22日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年3月3日 愛善世界社版289頁 八幡書店版第7輯 140頁 修補版 校定版300頁 普及版145頁 初版 ページ備考
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本文  金光教会の八木の支部長をして居る土田雄弘と云ふ人は、金光教の足立正信氏が金明会へ降服したと聞き、周章狼狽して上級教会所なる杉田政次郎氏と協議した上、金光教の大の熱心者なる八木の福島寅之助氏を従へ綾部へ駆付け、直に足立正信氏と面会し、
『金光教の本部から応援を乞ひ自分も極力応援の労をとる考へだから、金明会の下らぬ所を脱会し、何程辛くても暫らくだから孤軍奮闘をつづけられよ。訳の分らぬ霊学等に降服するのは、金光教師の本領ではない。折角今迄金光教で苦労をし乍ら、脆くも敵に甲を脱ぐとは不甲斐ない』
と熱涙を流して足立氏を激励した。乍併足立氏は已に金光教会の部下に対する酷薄無情なるに呆れ果て、出口教祖や喜楽の温情に漸く感激して居たる際なれば、熱心なる友人の忠告も只一言の下に撥ねつけ、且大本の教義の深遠霊妙なる事を口を極めて説き、遂に土田雄弘氏も金明会の布教師になつて了つた。
 そこで喜楽は足立、土田、福島氏等と神殿の次の間で神様の話や幽斎の方法などを説明して居ると十数年間胃腸病に悩んで居た人が、大原から駕で二三の親類に連れられ病気平癒の祈願に来たので、喜楽は一寸神様に御祈願をなし、
喜楽『悪神立去れ!』
と只一言言霊を発射すれば、不思議にも多年の病は其場にて恢復し、喜び勇んで帰途は自ら歩行し、鼻唄等を唄つて帰る様になつた。又台頭と云ふ処から、片山卯之助と云ふ十五歳の男が足の立たぬ病となり、之も亦駕に乗つて来たが、足立、土田、福島氏の前で直に足が立つて了つた。
 此現場を目撃した三人は非常に霊術の効顕に驚嘆して居た。忽ち福島寅之助は発動を始め、
『ウンウン』
と呻り出し、次で土田雄弘も霊感者となり、天眼通の一端を修得するに到つたのである。足立正信氏は今迄幽冥界の実状を知らなかつた金光教の布教師なりしを以て、神懸り状態を見るのは生れてから始めてなりし為め、非常に奇妙の思ひをし、之は屹度妖神の所業か、又は喜楽は魔法使ではないかと、そろそろと疑ひかけたが、現に友人の土田が霊感の神助を得てから、
『今迄の金光教会などはとるに足らぬものである。人間が寄つて集つて拵へた編輯教だから誠の神の教ぢやない』
と唱へ出し、今度は反対に足立氏を説服し、
『大本の教理は誠の神の御心に出でたるものなり』
と強く主張した。されど足立氏は依然として正邪真偽の審判に苦しんで居た様に見えて居た。
 教祖様や役員等の懇望によつて、喜楽は茲に幽斎の修行者を養成する事となり、本町の中村竹造氏の宅にて、数日間布教の傍幽斎の修行を執行し、求道者もおひおひ増加し、本町の中村氏宅も狭くなり、本宮の東四つ辻、元金光教の広前に修行場を移した。福島寅之助の神懸りは随分乱暴なもので、邪神界の先導者とも云ふべき霊であつて、大変に審神者や役員を手古摺らした。東隣には其時分には綾部の警察署があり、日々撃剣の稽古で幽斎の邪魔になり、且又沢山の参拝者のために思ふやうに修行が出来ず、そこで神界へ伺つた上、猿田彦神の御神勅で山家村の鷹栖へ修行場を移転する事となつた。其時の歌に、

 大稜威高千穂山の鷹栖へ
  導く神は猿田彦神

 直に鷹栖の四方平蔵氏の宅へ修行場を移し、二三日の後再び同地の信者四方祐助氏方へ移転した。
 修行者は何れも役員信者の弟子のみにて、福島寅之助、四方平蔵、四方祐助、四方熊蔵、同春蔵、同甚之丞、同すみ子、大槻とう、塩見せい子、中村菊子、田中つや子、四方久子、野崎篤三郎、西村まき子、西村こまつ、村上房之助、黒田きよ子、上仲義太郎、四方安蔵、四方藤太郎、中村竹造等の二十有余人の修行者が集まつて朝から晩までドンドンと幽斎の修行にかかつて居た。二十有余人が一時に発動するので床の根太が歪み出し、祐助氏の息子の勇一氏が非常に困つて、秘かに綾部の警察署へ、
『喜楽や足立が、しやうもない事を教へて困るから追払つて下さい』
と願ふて出た。戸主の権利を以て謝絶すれば宜いものを、自分の卑怯さから、斯かる手段を採つたのである。喜楽は小松林の神様によつてこれを前知したので、即夜上谷の四方伊左衛門氏方へ修行者をつれて移転し、前方の谷間に不動尊を祀つた可なり大きな瀑布のあるを幸ひ、上谷を修行場と定めて幽斎に熱中した。さうした処案の定、警官が追払ひに来た。けれども神道の為め赤誠をこらして修業にかかつてる熱心者のみなれば、少しも怯まず頓着せずドシドシと修業を続行して居た。猿田彦の神は又もや神懸りとなつて、

 神懸り雲の上谷輝きて
  動かぬ君の御代を照らさむ

と云ふ歌を与へられた。まだまだ其時に与へられた神歌は数百首に上つて居たが、今はハツキリ記憶して居ないのである。
 扨幽斎修行の結果は極て良好であつて、数多の修行者の中に二三の変則的不成功者を出しただけで、其他は残らず神人感合の境に到達し、中には筆紙を用ひて世界動乱の予言をなす者あり、北清事変の神諭を言ふ者あり、日露戦争の予言をしたり世界戦争を予告したりする神が憑つて来た。天眼通、天耳通、宿命通、感通等の神術に上達する者も出来て来た。大に神道の尊厳無比を自覚した信者も尠からずあつた。中に最も不可思議なるは西村まき子と云ふ十八才の女、俗にいふ白痴であつたが彼は神懸りとなるや平素の言動は一変し、かの神世に於ける大気津姫の如く、自分の耳から粟を幾粒となく出し、鼻よりは小豆を出し、秀処よりは麦種抔を出したる奇蹟があつた。これを見ても我国の神典が非凡の真理を伝へたるものなる事を悟り得らるるのである。
 幽斎の修行もおひおひ発達したので、留守中を四方藤太郎に預けおき、四方平蔵氏と共に静岡県富士見村の長沢雄楯先生の奉仕して居られる月見里神社へ参拝する事となつた。道すがら大神の御神徳の広大無辺なるを説きつつ、須知山峠を越え、大原、枯木峠を踏み越え十津川の山村にさしかかつた時、四方氏は俄に発動気味となり、身体震動甚しく、止むを得ず枯木峠の頂上へ休息して、喜楽は立つたまま四方に鎮魂を施して見た。四方には松岡神使が臨時憑依し、天眼通が層一層明かになつて来た。
 喜楽は前に述べた通り長沢雄楯翁の霊学の門人となつて居たので、一度報告旁鈿女命を祀つた月見里神社へ参拝したのである。漸くにして無事に富士見村の下清水、長沢先生の館に到着した。さうして四方平蔵氏は、神懸りと俗間に行はれて居る稲荷下げとは其品位に於て又方法に於て雲泥の差のある事を一々例証を挙げて説明せられ、漸く霊学の趣旨を悟る様になり二昼夜滞在の上、惜き別れを告げ帰綾の途についた。
 下清水より江尻迄二十丁ばかりの道を歩いて、午前一時の急行列車へ乗り込まうとする時、僅二分の短き停車、殊に列車はボギー式で、田舎の汽車の様に入口が沢山にない処へ、四方氏は生憎目が悪い、夜分は殆ど灯があつても見えぬ位だ。それに沢山の荷物を肩にひつかけて居る。喜楽も手一杯の荷物を下げて手早く乗車し、四方氏は如何かと昇降台を見れば、今片手をかけたばかりに汽車は動き出して居る。駅員は力一杯の声を出して『危ない危ない』と連呼して居る。
 四方氏は其間に七八間も引きずられて居た。喜楽は金剛力を出して荷物諸共昇降台迄ひきあげた。此時の事を思ふと今でもゾツとする様だ。全く神の加護によつて危き怪我を救はれたのだと心の裡にて感謝し乍ら、翌日の午後一時頃京都駅に安着し、二人は東本願寺前のある飲食店に這入つて昼飯をすませ、それより七条通りを西行して西七条に至り、此処から乗合馬車の亀岡行の切符を買ひ発車の時刻を待つてゐた。四方氏は本願寺前の茶店で買ふて食つた蛸の中毒で俄に苦しみ出し、嘔いたり、下痢たり、十数回に及んだ。顔色は真蒼となり、其場に倒れて殆ど死人の様になつてゐる。馬車屋の主人は驚いて、
『お客サン、あんたは虎列剌病です。サア一刻も早く此場を退却して下され。警察へ知れたら何も彼も焼かれて了ひ、営業が出来なくなつて了ひます。そんな事にでもなれば家は大騒動だ。サア早く帰つて下さい』
と一旦受取つた金を返し切符を取上げて了つた。喜楽は教祖より授かつて来たお肌守を懐中より取り出し、四方氏の肩にかけてやり、又教祖様から頂いたおひねり二体を口に含ませ鎮魂を施した。御神徳は忽ち現はれ、四方氏は初めて言語も明白になり、元気も稍恢復して来た。喜楽は四方氏の手をひき門へ出で、折柄空車をひいて来た二人の車夫を認め、天の与へと直に之に乗り、何喰はぬ顔にて一里半ばかり走らせ、桂の大橋にさしかかると、四方氏は全く旧の如くに元気づき、車の上から潔い声で四方山の話しをしたり、歌などを唄ひ出した。それから大枝阪、王子、篠村と疾走しつつ篠村八幡堂の少し手前迄帰つて来ると、四方氏の乗つた腕車は忽ち鉄の輪がガラリと外れ、グナグナと砕けて了ひ、四方氏は街路に真逆様に放り出されて了つたが、幸ひに擦傷一つせず無事であつた。
 四方氏は余程運の強い人と見え、一日の間に三度まで汽車、馬車、人力車の危難に救はれるといふ事は、実に不思議である。これも神様の御神徳と考へるより外に判断はつかぬ。人間には一生の中には必ず一度や二度は幸運が向ふて来る。それと同様に又一度や二度は大難が来るものである。四方氏の信仰の力と大神様のお蔭で、斯る危ない所を九分九厘で助けられたのは、全く神様に一心に仕へて居たお蔭である。
(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 北村隆光録)
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