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文献名1霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻
文献名2第4篇 霊火山妖よみ(新仮名遣い)れいかさんよう
文献名3第19章 鞍馬山(二)〔1056〕よみ(新仮名遣い)くらまやま
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-11-08 16:43:37
あらすじ当夜は八木会合所の祭神および会場移転式であり、多くの会員が集まっていた。不意に教祖御一行のお立ち寄りとあって、一同にわかに驚喜し色めき立ってちょっとした騒動になった。教祖は見かねて慇懃に挨拶をなし、大神の奉斎所を遷座する大切なお式を軽率に執行して罪を重ねてはならないと戒めた。幸い、教祖に祭主を懇願して移転式を完了し、講話をなして、午後十一時には会員一同退散することになった。翌日、神前に祈願をこらして行程の如何を占い奉った。すると皇神は海潮の手を通じて教え諭し給うた。『世の中の人の心のくらま山 神の霊火に開くこの道』この神詠によって、旅の目的地が鞍馬山であることがうかがいしれた。八木の停車場から列車に乗って、花園駅にて下車した。教祖は一行の先に立って進まれ、徒歩にて北野天満宮に立ち寄った。教祖は菅原道真公の故事を引き合いに、艮の金神・大国常立尊のお身の上を嘆き、一刻も早く大神を世に出さなければとの追懐と決意を露わにした。海潮と澄子はその真心に貰い泣きをした。一行は鞍馬に到着し、その夜は御宮の前でお通夜することになった。四方春蔵は寺に備えてあった御神籤をいただいたが、よほど悪い内容だったと見えて『オウ失敗った』と思わず口外するほどであった。その夜、福林は旅の疲れで前後不覚に寝入ってしまったが、ふと夜中に目を覚ませば、傍らの四方春蔵の姿が見えない。驚いて探すと、外の方から四方が呼ぶ声がする。急いで外に出てみると、大きな火の玉がお宮の前を行きつ戻りつ駆け巡っていた。しかも、その火の玉の尾には四方春蔵の姿があった。福林が火の玉を追っていくと、不思議にも四方春蔵はそこで大きなたき火をしていた。福林が声をかけると、四方は恐ろしさに震えて泣いていた。それから連れだってお宮に戻り、二人は寝に就いたという。ところが、夜が明けてから福林が昨夜のことを四方に尋ねたけれど、何も知らないという。福林は、昨晩四方がたき火をしていた場所に行ってみたが、その跡もなかったという。海潮は教祖に対して、鞍馬参りの御神慮をうかがったが、教祖はただ、先に行ったらわかりましょう、と言われたのみであった。帰途は亀岡から八木に出て一泊したが、四方は終日蒼白な顔をしてしょげていた。その夜、四方は園部まで行って友人に会い、今度は死ぬかもしれないと暇乞いをしたという。教祖はこのことを聞いて四方を叱った。四方はこの出修から戻って一か月ほどで患い、帰幽してしまった。その前に四方から使いが来て、先生に一度来てもらわなければ死ぬにも死なれぬ、というので見舞いに行った。海潮は四方に『許してやる』と言ったので、四方は安心して帰幽した。時に十八歳。霊学に達した男であったが慢心取違の末、神罰をこうむって一命を終えたことは遺憾のことであった。ある夜、にわかに大風が吹いて広前の杉の樹が轟々と唸ったことがある。後に教祖にうかがったところ、鞍馬山の大僧正が来て本宮山へ鎮まったという。またその眷属は馬場の大杉へ行ったという。その後馬場の大杉には蜂のごとくたくさんの眷属が見えたということであった。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月18日(旧08月28日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年4月3日 愛善世界社版200頁 八幡書店版第7輯 233頁 修補版 校定版204頁 普及版107頁 初版 ページ備考
OBC rm3819
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本文
 折節当夜は八木会合所の祭神及び会場移転式挙行日にて数多の会員参集し居たるに、不意に教祖一行の御立寄りと聞きて驚喜し俄に色めき立ちて上を下への大騒動、見るに見かねて教祖は之を制し慇懃に挨拶あり。畏くも大神の奉斎所を遷座する大切な御式を軽率に執行して神霊に非礼の罪を重ね、前以て詳細の報告も出願にも及ばざりし会員一同の不注意は今眼前に報うて来て気の毒であつた。幸ひにも教祖に祭主を懇願して移転式を完了し、次に教祖及び海潮の講話あり、午後十一時には各十二分の神徳を忝なみ会員一同退散した。印度坊主は経が大切、自分等は明日が大事、夜更しは身の障りと狭い座敷に雑魚寝をなし、翌九日、旭日東山の端に円顔を現はし給ふの頃、霧の流るる小川に手水を使ひ口嗽ぎ、恭しく神前に祈願を凝らし、行途の如何を占なひ奉る。時に皇神海潮の手を通じて教へ諭し給ふ様、

 『世の中の人の心のくらま山
  神の霊火に開くこの道』

と、此神詠によりて行途の城州鞍馬山なる事を窺ひ知り得たれば、心は五条橋の牛若丸の如く飛び立つばかり勇み立ち、午後一時福島氏に送られて八木停車場へと歩を運ぶ。折柄園部の上り列車、幸宜しと飛乗れば二分停車の忙しく渡る鉄橋寅天の、音轟々と大堰川、八木の城山跡に見て、二条の軌道を疾駆して、早くも亀岡に接近す。海潮が故郷なる曽我部の連山は殊の外眼に立ち、高熊山の霊峰は彼方ならむと思へば不知不識に拍手せられる。愛宕の神峰は群山重畳の其中央に巍然として聳え、教祖一行の出修を眺めて山霊行途の安全成功を暗祈黙祷せらるるの思ひがある。車中偶曽我部の里人某を見る。言葉を掛けむとすれば態と素知らぬ振りに背面し、時々横目に此方の身辺を覗ふ様、あまり心地良きものに非ず。彼は曾て海潮が故郷にありて国家の大勢に鑑み、憂国の至情を以て一身一家を抛ち、惟神の大道たる皇道霊学の教旗を翻したる時、陰に陽に極力妨害を加へたる枉津神なれば、今更面目なくて其鉄面皮も稍良心に呵責され、思はず背面せしならむかと思ひしに、豈図らむや、然は無くて彼は余等一行の旅装を注視し、乞食巡礼に零落せしものと誤認し、帰郷するや嗤笑して告げて曰く。
『上田は怪しき教に沈溺せし為め終に乞食に堕落したり。神道に熱中するもの宜しくこれを以て殷鑑とし、決して祖先伝来遵奉し来りし仏道を捨て神道に迷ふが如き愚挙を演ずる勿れ。彼れ上田は親族には絶交せられ、朋友には疎まれ、弟妹には見離され、吾住み馴れし恋しき故郷を捨てて是非もなくなく他所へ流浪し、今又養家の老母や妻を携へ、浮雲流水の身となり居れり』
などと、御苦労にも悪言醜語を遠近に触れまはし、余が郷里の一族も少からぬ迷惑を感じたと云ふことである。
 日本神国に生を享け、神国の粟を喰み、神恩に浴し乍ら、報本反始の本義を忘れて、邪教に魅せられたる印度霊の小人の言葉程、迂愚頑迷にして斯道に害毒を流すものはない。
 汽車は容赦なく山本、請田と進み行き、第一隧道を潜り抜け第二、三、四と貫く程に、流れも清き保津川の激潭、急流に散在する奇石怪岩面白く、読み尽されぬ書物岩、数へ尽せぬ算盤岩、激潭飛瀑の中に立ち並ぶ屏風岩、仏者の随喜渇仰する蓮華岩を川底に見降しつつ、渓間の鉄橋矢を射る如く、早くも嵐峡館の温泉場、感賞間もなく君が代を万代祝ふ亀山隧道、脱け出れば花より団子の嵯峨の駅、五分停車の其内に、右手の方を眺むれば、月雪花と楓の嵐山、秋季に花は無けれども、松の木の間を彩る錦、神の随々萠出でて、月照り渡る渡月橋、筏流るる桂川、お半長右衛門浮名を流す涙川、流れも清き天竜の巨刹は松年画伯の筆になる天竜と共に高く甍を雲表に現はし、峨山の禅風薫るあり。十三詣りの虚空蔵の祠、千歳栄ゆる松尾大社、神徳薫る梅の宮の森、千葉の葛野を眺むれば、百千足屋庭も見え、国の秀見ゆる勇ましさ。左手は撰歌に名高き定家卿の小倉山、花と紅葉の二尊院、仏祖を祀つた釈迦の堂、北は御室の仁和寺、五重の塔は雲を突く、此処に昇降する客の大半はこれに詣づる信徒なるべし。汽笛の声に動き出す。汽車は間もなく花園駅、車掌が明くる戸を待ち兼ねて一行は飛降り、禅宗の本山妙心寺を横手に眺めつつ、教祖は老の御足に似もやらず一行の先に立ちて進まれ、徒歩にて北野の鳥居前にと衝立つ梅松竹の杖。今日は陽暦廿五日当社の祭典にて神輿渡御の真最中、騎馬の神職は冠装束厳めしく劉喨たる音楽に連れて、神輿の前後を練り出る有様、最殊勝に見ゆる。数万の賽者は一時に容を改め襟を正して拍手するあり。社頭には千年の老松梅林、楓雑木も苔蒸して神さび立てる神々しさ。教祖は此処に歩を停め拍手再拝の後、余等一行に向ひ、
教祖『抑も当社の祭神は今より一千余年の昔、左大臣藤原時平が讒言に由つて時の帝王の逆鱗に触れ、無実の罪に問はせられ親子共に四方へ流謫の身となり、御無念やる方なく、

 天の下乾ける程のなければや
  着てし濡衣ひる由もなき

と歎き給ひし菅原道真公の真心終に天地に貫徹し、鳴神とまで化けて神異霊徳を顕はし一陽来復の時至つて北野天神と祭られ後世までも斯くも手厚き官祭に与り給ふは、実に聖明の世の賜と云ふべし。然し乍らここに思ひ出されて忍び難きは吾等の奉仕する艮の大神国常立尊の御上である。大神は天地開闢の太初にあたり、海月なす漂へる国土を修理固成して豊葦原の瑞穂の国を建設し、以て神人安住の基礎を立て厳格なる神政を励行し給ふや、剛直峻正にして柔弱なる万神の忌憚する所となり、衆議の結果悪鬼邪神と貶せられ、千座の置戸を負ひて神域の外に神退ひに退はれて其尊身を隠し、千万の御無念、克く忍び克く堪へ天地の諸霊を守護し給へども、盲千人目明一人の現社会に誰ありて神名を称へ奉る者なく、神饌一回献ずる人無く、暗黒裡に血涙を呑み落武者の悲境に在せ給ひしに、時節到来、大神の至誠は天地に通じ、煎豆に花の咲き出でしが如く月日並びて治まれる、二十五年の正月元朝寅の刻、天津神の任しのまにまに、
「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。須弥仙山に腰を掛け丑寅の金神守るぞよ」
と大歓喜と大抱負とを以て目出度く産声を挙げ、再び現在の主宰とならせ給へり。あゝ斯くも至尊至貴至仁至愛なる大神の御心を察し奉りて一日も早く片時も速に、大神の仮宮なりとも造営し奉り我神洲神民として敬神愛民の至誠を養ひ神恩の忝けなきを覚悟せしめ、日本魂を錬磨修養せしめねば、邦家の前途は実に寒心に堪へず。瞬時も速かに大慈大悲の大神の御洪徳を宣伝し、悪鬼邪神との冤罪を雪ぎ奉るは吾等の大責任にして又畢生必ず決行せざるべからざる大願なり。今や北野の神の官祭を拝して大神の御上を追懐し、悲歎遣る瀬なし』
とて冴えたる御声は愈曇り光眼瞬く事切りと見受られ……草枕旅には厭ふ村時雨はらはらかかるを袖にうけつつ語り出でらるる其真情に絆されて、海潮も澄子も声をのみ、貰ひ泣きせし其顔を、菅の小笠に隠して同行五人杖を曳いて鞍馬を指して急ぎ行く。
 鞍馬へ愈到着してより其夜は御宮の前にて御通夜する事とした。四方春三は寺前に備へありし御籤を頂きしに余程悪かりしと見え、思はず、
春三『オウ失敗つた』
などと口外する。其夜福林は旅の疲労にて前後不覚の体に寝入りしが、不図夜中の一時頃目を覚まし見れば、傍にありし四方春三の姿の見えざるに驚き、探し見るに外の方に当つて『起きて下さい』と頻りに呼はる声の聞ゆるままに耳をすませば確に四方の声である。福林は急ぎ外へ出て見れば、大いなる火の玉、お宮の前を行きつ戻りつ駆けめぐり、而も其火の玉の尾には正しく尋ねる四方春三の姿あるを認め、今の声の所在も始めてわかつた。薄気味悪く見守る内、火の玉は次第に先方へ行きし故恐る恐るも其方角へ行きて見れば四方は大きな焚火をして居た。福林は近づいて、
福林『一体如何したのか』
と聞けば四方は青い顔して震へ乍ら、
四方『オヽ恐い恐い、こんなに恐い事はない、今のを見て呉れたら何も云ふ事は無い』
と云ふのみにて打ち明けもせず泣いて居る。それから連れ立ちて御宮へ戻り再び寝に就き、夜明けてから更めて四方に夜半の出来事を尋ねたけれど、四方は何も知らぬと云ふ。念の為め昨夜焚火せる処へ行つて見たが其跡さへ無き不思議に福林は只驚くばかりであつた。海潮は教祖に向ひ今度鞍馬参りの神慮を伺ひしに、教祖は只、
教祖『先に行つたら分りませう』
と云はれしのみであつた。
 帰途は京都より亀岡へ出で八木にて一泊せしが四方は終日蒼白な顔して悄気込み居たりし様見るも憐れであつた。同人は其夜園部まで二里の行程を走つて友人に会ひ、
四方『今度は死ぬやも知れぬ』
とて暇乞ひを成して帰れる由、教祖は此事を聞きて叱つてゐられた。
 翌日綾部の役員信者は途中迄出迎ひに出て無事大広前に帰り着く。四方春三は始終太息を洩らし居たが上谷の宅より迎ひに来り、帰宅して後一ケ月ほど煩ひて帰幽して了つた。其より前、
四方『生前是非先生に一度来て貰はねば死ぬにも死なれぬ』
とて使ひが来たから海潮は見舞に行き、
海潮『許してやる』
と言へば安心して帰幽した。春三時に十八才、実に霊学に達したる男であつたが慢心取違ひの末、神罰を蒙りて一命を終はつたのは遺憾の事であつた。
 或夜俄に大風吹きて広前の杉の樹、ゴウゴウと唸りし事がある。後教祖に伺ひしに、鞍馬山の大僧正来りて本宮山へ鎮まり又其眷族は馬場の大杉へ行つたが其後大杉には蜂の如く沢山の眷族が見えたと教祖は物語られた。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 北村隆光録)
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