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文献名1霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻
文献名2第5篇 正信妄信よみ(新仮名遣い)せいしんぼうしん
文献名3第25章 雑草〔1062〕よみ(新仮名遣い)ざっそう
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-11-12 10:45:31
あらすじ建勲神社に奉仕中、宇津の小西のところに出張してみたが、小西は信者たちの前であからさまに、この人はもう狐がついて抜け殻となっている、と貶めた。自分はわざと知らないふりをしていたが、小西は北桑田の信者にも悪口を触れまわして自分の勢力を広げようとする。小西の信者のなかでも、湯浅斎次郎氏は小西のやり方を憤慨していた。喜楽が建勲神社を辞して御嶽教に奉仕していたころ、小西が自分の息子の嫁に、喜楽の妹をもらいたいと言ってきた。喜楽はそうなったら少しは小西も自分の言うことに耳を傾けるようになるだろうと、妹をやった。しかし小西は改心するどころか、ますます増長した。しかし信者たちが小西への不信を募らせていき、とうとう一人も信者が来ないようになってしまった。小西は明治四十三年に独断で大本へやってきて引っ掻き回し、教祖様の嫌いな薬の指図などをして、たいへんに気を揉んだ。やがて綾部に居れなくなって宇津に帰ったが、何人かを抱き込んで大本乗っ取りを計画していた。湯浅氏は小西の味方のふりをして、彼らの陰謀を残らず大本に報告したので、彼らも策の施しようがなくなり、小西派は空中分解をしてしまった。小西は京都で御嶽教の教導職になったが、病気治しをした先の家の細君と妙な関係になったのを見つけられ、その細君は井戸に身を投げて死んでしまった。それがたいへんな悶着を引き起こし、喜楽に泣きついてきて、金を無理に出させられた。小西は京都にもいられなくなって宇津に戻ったが、中風になって弱り、大正六年ごろに帰幽した。小西の弟子の小沢という男も、支部の娘と関係して放り出されたり、綾部で始終役員と喧嘩したりということを繰り返し、最後には祖霊社で自殺してしまった。杉井という男も大本を混ぜ返し、二代澄子に看破されて叱りつけられ、大本を出て大社教の教会をたてて反大本を宣伝しているという。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月18日(旧08月28日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年4月3日 愛善世界社版259頁 八幡書店版第7輯 256頁 修補版 校定版265頁 普及版138頁 初版 ページ備考
OBC rm3825
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本文
 建勲神社に奉仕中、喜楽は休日を利用して宇津の小西の布教してゐる八幡宮の社務所へ出張して見た。さうすると沢山な信者が集つて、祈祷して貰うてゐる。湯浅仁斎氏の、妻君も満艦飾をこらして参拝して居た。さうすると小西が大勢の前で、
小西『あゝ会長サン、来なさつたか、狐はモウ去にましたかなア』
とおチヨくる様に無礼な事を言ふ。喜楽はムツとしたが、いやいや待て待てと胸をなでおろし、喜楽は永らく綾部で大勢に圧迫や妨害を加へられ、隠れ忍んでやうやう西田と二人してここにお広間を拵へ、ここを根拠として大本の教を開かねばならぬのだから、今怒つては大事の前の小事だと、ワザと平気な顔をして笑うて居ると、小西は尚もつけ上り、
小西『皆サン此人は綾部の海潮と云ふ人で、瑞の御霊の大神様が御守護して御座つたのぢやが、官幣社の神主になつたりするもんだから、神様が愛想を尽かして、此松元に移り替へなさつたのだから、瑞の御霊の御神徳は皆此松元におさまり、海潮サンは蝉のぬけがらになつた後へ、稲荷山のケツネがついて居ますから、モウ駄目です。こんな人に鎮魂をうけてはいけませぬ』
と人の前で臆面もなく喋り立てる。喜楽は、
喜楽『あゝさうだ、私は脱殻だ、どうぞ松元サンに、一時も早く綾部へ来て御用をして貰はねばなりませぬ』
といつたら、松元は得意になつて、
小西『綾部の教祖様が変性男子の御身魂で、此松元が松の大本で、変性女子の御用をするんだが、モチと海潮の改心が出来ぬと、中々行けませぬワイ』
と云ひ乍ら、折角開いて置いた北桑田の信者を小口から、第二の中村のやうに悪口を言うてふれまはして了うた。其時湯浅夫婦も松元の教会へ病気の為に参拝して居たが、湯浅はどうしても松元の行方が気にくはぬので、自分は船岡の妙霊教会へ月参りをし、妻君のみが隠れて信仰をして居つた。それから明治四十一年の二月の事であつた。会長は建勲神社を辞職して、御嶽教の仮本庁が伏見の稲荷山に宏大な館を立てて設置されてあつたので、神宮官庁から頼まれて、副管長格の主事といふ役をつとめて居た。喜楽が御嶽教へは入つたのは、御祭神が国常立命であるのと、将来神の道を布教するに付いて見学の為に、無報酬でつとめて居たのである。そこへ湯浅斎次郎氏が小西に頼まれたと云つて使に来た。其時海潮は大阪の生玉に設置されてある、御嶽教大教会へ教会長なので二三日出張して居た。其不在中に湯浅は御嶽教の本庁で泊めて貰ひ、喜楽の書いた沢山の書物を半分計り読んで了ひ、非常に信仰を固めて居た。そこへ喜楽が帰つて来て湯浅に会ひ来意を尋ねると、
湯浅『小西松元サンの息子の嫁に妹のお君さまを貰ひたい』
との事であつた。海潮は小西松元の為には非常に侮辱されて、余り面白くなかつたけれど、お道が大事だと思うて隠忍して居た所である。一層の事妹をやつたならば小西も反対をせず、自分の云ふことを聞くやうになるだらうと思ひ、早速穴太へ帰つて母と相談の上、僅に十五才の妹を無理にたらかして、湯浅氏の媒介で、一先づ湯浅の宅へ落着き、結婚式を挙げさしたのであつた。それから小西は改心するかと思ひの外、益々増長してどうにも斯うにもならぬやうになり、遂には各信者の小西に対する不信任が加はつて来て、一人も来ぬやうになつて了つた。さうすると小西が独断で綾部の大本へ、明治四十三年にやつて来て、お広間に先生顔をして坐り込み、薬の指図をしたり、鎮魂を始め出した。教祖さまは鎮魂や薬の指図が大の嫌ひなり、二人の中に立つて大変に気をもんだ。さうかうして居る内に御嶽教の機関雑誌『経世軍』といふ小さい発刊物の記者をして居た千葉埴麿が御嶽教を放り出され、食ふことが出来ぬから、麦飯でもよいから綾部に置いてくれぬか……と手紙をよこしたので、承諾の旨を答へてやると、すぐに夫婦二人で綾部へやつて来て、それから宮沢円竜といふ法華坊主上りの神道家を呼びよせ、栃木県の吉田村に二億万円の金がいけてあるから、掘り出して国家の為に尽さうかといひ出し、千円許りも工面して大本から金を引出し、そして其実は半分以上自分の借金なしをしたりして了ひ、大本から小西の息子の増吉と田中善吉とが吉田へ金掘に行つた事があつた。モツと金をよこせ、キツと出ると云つて来たけれど、モウそれぎりで金を送らず田中と増吉とを綾部へ呼び返した。サアさうすると千葉が教祖さまに甘く取入り、ソロソロ会長の排斥運動に着手し、教祖の命をうけてはそこら中を訪問して、自分勝手なことをやつて居つた。
 小西は綾部に居れなくなつて、再び宇津へ帰り、神様を拝んで居たが、二三十人の信者が代る代る参拝して居た。増吉は千葉と宮沢にスツカリ抱込まれ、大本へ反旗を翻して両人を吾家へ連れ帰り、園部の片山源之助や浅井はな等と諜し合はして大本乗取りの策を講じてゐた。そこで湯浅がワザとに小西の味方となつて陰謀を残らず探り大本へ報告したので、彼等も策の施すべき所なく、とうとう東京へ宮沢は逃げ帰り、千葉は片山源之助と園部の新町で報公義会といふ会を拵へて、片山を大将とし、浅井はなをしまひには放り出して、勝手な熱を吹き、盛に大本に反対をつづけてゐた。小西はとうとう御嶽教の教導職となつて、京都の大本の信者の宅へ入り込み、盛に病気直しをやつて、流行らしてゐたが、其家の妻君と妙な関係が出来、主人に見つけられ、女房は直に裏の井戸へ投身して死んで了つた。それから大変な悶着が起り、法律問題が持上らうとした。さうすると小西増吉が自分の姉と一緒にやつて来て、反対に喜楽に熱を吹き、此事件を甘く事ずみさせるためのあやまり金を喜楽の貧弱な懐から無理に出さして帰つた事がある。
 それから小西は京都にも居れなくなり、再び宇津へ帰り中風の気になつて弱つてゐたが、大正六年頃とうとう帰幽して了つた。小西の弟子に小沢惣祐といふ男があつて、これが又江州の貝津へ支部を開きに行き、そこの娘と妙な関係が出来て放り出され、綾部へもやつて来て役員と始終喧嘩許りしてゐたが、遂には綾部を飛出し茨木や肝川などにお広間を建て、暫くすると其土地の役員と衝突して飛び出し、遂には亀岡の旅籠町で京都の大内といふ後家をチヨロまかし、又失敗して大正六年頃綾部へ帰つて来て、元の祖霊社で腹を十文字にかき切り、喉をきつて自殺して了つた。それから杉井新之助といふ男が出て来て、大本を交ぜ返し、自分が全権を握らうとして、二代澄子に看破され、叱りつけられて、柏原の大本の支部へまはされ、そこで大本の反対運動を起し、大社教の教会を建て、今に宣伝してゐるさうである。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)
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