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文献名1霊界物語 第63巻 山河草木 寅の巻
文献名2第3篇 幽迷怪道よみ(新仮名遣い)ゆうめいかいどう
文献名3第10章 鷺と鴉〔1617〕よみ(新仮名遣い)さぎとからす
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ人間が霊肉脱離ののち、高天原の楽土または地獄の暗黒界に陥るにあたり、何人も踏まなければならない経過があり、これは三種の状態が区別される。外面の状態、準備の状態、内面の状態である。しかしながら中有界(精霊界)の準備を経過せずに直ちに天界または地獄に行くものは、生前すでに準備ができており、善悪の情動ならびに因縁によって、各自霊魂相応のところを得ているのである。天界に入る準備が生前できていれば、自然的世界的な悪習慣等が洗浄されれば、直ちに天人の保護指導によって相応の愛に匹敵した楽土に導かれる。地獄に陥る精霊は、限界において表面のみ愛と善を標榜し、かつ偽善的動作のみ行い、内心深く悪を蔵していた者である。いわゆる、自己の凶悪を糊塗して人を欺くために、善と愛とを利用した者である。このような精霊は神様の摂理により、さまざまな状態で地獄に落ちていく。口先ばかり親切らしく見せかけて世人を油断させ、その虚に乗じて自己の利益をはかり、かつ世の人に損害を与えた者たちである。このようなことは比較的少数であり、大部分は精霊界にとどめられて神教を授かり、精霊自己の善悪の程度によって神の順序にしたがい、第三下層天国または地獄に入る準備をなさしめられるのである。人間各自の精霊は外面的・内面的の二方面を有している。精霊の外面とは、人間が現世において他の人々と交わるに際して、身体に適順させる手段を用いることである。特に面色、語辞、動作等の外的状態である。精霊の内面とは、人の意志および想念に属する状態であって、容易に外面に現れないものである。すべての人間は、幼少のころから仁義誠実、道徳等の武器を外面に摸表することを習っている。しかしその意志するところの想念はすべて、深く内底に包蔵されている。そのため人間同士の眼からこれを看破することは不可能である。現代の人間は、その内心がいかに邪悪無道に満ちていても、表面生活上のために似非道徳的・似非文明的生涯を営むのが常となっている。現界永年の習慣の結果、人間の精神は麻痺しきってしまって、自己の内面さえ知ることができなくなっている。また内面的生涯の善悪などについて煩慮することさえ稀である。ましてや他人の内面的生涯を察知することなどできはしない。死後精霊界に至った直後の人間精霊の状態は、肉体が現世にあったときと少しの相違もない。ゆえに自己が一個の精霊だということを想いおこなさなかったら、高姫のごとく、現界にあって生活を送っているという感覚をなすほかはないほどである。人間の死というものは、この間の通路に過ぎない。現世を去ってまだ幾何の日時も経ない人間の精霊や、現界人の一時的な変調によって霊界に入ってきた精霊も、現世にあるのと同じような状態にいるものであり、生前の朋友や知己と互いに相会し相知り合うものである。精霊は、その面色や言語等によって知覚し、相接近するときはその生命の円相によって互いに知覚するのである。霊界においてもし甲が乙を思うと、乙は直ちに甲の前に現れ来る。霊界は想念の世界であり、何事も霊的事象に支配されているから、現界のような時間空間がない。その想念の情動によって互いに朋友、親族、知己を認識し、現世にあったときの交情によって互いに談話もなし、ほとんど現世にあったときと少しの相違もないのである。夫婦再開などは互いに相祝し、現世において夫婦双棲の歓喜を味わい楽しんだ程度に比して、あるいは長く、あるいは少時間、その生涯を共にするものである。霊界の善霊すなわち天人は、現界から新たに入り来った精霊の善悪正邪を点検するために、たいてい以下のような点を確認する。すなわち凶霊は常に外面的事物についてのみ談論することを好むこと甚だしく、内面的事物については豪も顧みない。内的事物とは、神の教え、聖地救世主の神格、高天原に関する真と善とに関してであるが、凶霊はこれを談論せず、聞くことを嫌忌し、意に止めず、神の教えを聞いても楽しまず、かえって不快の念を起こし面貌にまで表すものである。現界人の多くは神仏の教えを迷信呼ばわりし、神仏を口にすることを恥辱のように考ええている者が大多数である。大本の教えをこちらから何ほど親切をもって聞かせても、地獄道に籍をおいた人間には到底駄目であることを実地に経験した。しかしながら大慈大悲の大神の御心を奉戴し、一人たりとも天界に進ませ永遠無窮の生命に赴かしめ、もって神界御経綸の一端に仕えなければならないのである。精霊もある一定の期間を経ると、彼らの精霊が内面的状態に移り、その内分の一切が暴露される。人間の死後における第一の外面的状態は、あるいは一日、あるいは数日、数か月から一年にわたることもある。しかしながら一年を越えるこのは極めて稀有である。各自精霊の外面状態に長短の差があるのは、内外両面の一致不一致による。天人はまず精霊の外面を暴露せしめ、順序中に入らしめて、内面に相応する平面たらしめる。この順序を取るところは、精霊界(中有界)の中心点である天の八衢の関所であって、伊吹戸主大神の主管し給うブルガリオにおいて行われる。内面的状態は、人間が中有界である一定期間を経過し、心すなわち意志と想念に属する境遇のことを言うのである。およそ民文の発達した社会に生存するものは、世間の風評や談話によって人を判断し、自分の心のままを語らず、応接はなるべく礼に合うべく務めるものである。またみえすいたような嘘でも善く言われると大変に歓ぶものである。これに反して真実をその人の前に赤裸々に言明するときは非常に不快の念を起こし敵視されるようなことが起こる。現代の人間の言動は、その思うところ・願うところとまったく正反対のものである。偽善者の境遇にあるものは、言説においては天人のように愛善と真信に一切基づいているようであるが、その内実は高天原の経綸も霊魂の救いも死後の世界も信じておらず、ただ自己の利益を愛しているのみである。このような人間は、内外両面を区別し、一つとならないように努めている。外面外面が衝突をきたしている。しかし現代の理屈からいえば、内外両面を区別して考えることが至極当然となっている。そして内面外面の一致という説に対しては種々の悪名を付け、悪魔の言としてけなすものである。内面的想念が外表に流れて暴露することがないように努め、限界的道理によってすべてを解決しようとし、内面的神善を抹殺するのである。しかし人間が創造されたのは、その内面的想念を、相応によって外面的想念と相一致させなくてはならない理由があるのである。真の善人はその思うところも言うところもただ善のみである。地獄的悪人においては、心に悪を想いながら善を口に語り、善人とはまったく正反対の状態にある。外面に善を示して、内面に悪を抱いている。かくて善は悪のために制せられ、使役されるにいたる。真の善に居るものは、順序を乱すことなく、その全はみな内面的想念から流れて外面に出て、それが言説となり行動となる。人間はこのような順序のもとに創造されたからである。人間の内面はすべて高天原の神界にあり、神界の光明中に包まれている。この光明とは、大神より起こり来る神真であり、高天原の主となるものである。人間には内外両面の想念があり、互いに隔たっている。想念は意志からくるものであり、意志の一形式である。およそ人間の人間たるゆえんはまったくその内面にあるのであり、外面にあるのではにないことを知らなければならない。内面は人の霊に属し、人の生涯とはこの内面の霊の生涯に他ならない。人の身体に生命があるのは、この精霊に由るのである。この理によって、人はその内面のごとく生存し永遠にわたって変わらず、不老不死の永世を保つものである。されど外面は肉体に属するがゆえに、死後は必ず離散し消滅し、その霊に属していた部分は眠り、ただ内面のために平面となるにすぎないのである。かくして人間の自有に属するもの・属さないものとの区別が明らかになる。外的意志と外的想念とは、一つも自有のものではない。ただその内面的な意志と想念に属するもののみが自有となしうるのである。そのため、永遠の生命に入ったとき、自有となるものは、神の国の栄のために努力した花実ばかりである。その他一切のものは中有界においてはく奪されるものである。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年05月24日(旧04月9日) 口述場所竜宮館 筆録者加藤明子 校正日 校正場所 初版発行日1926(大正15)年2月3日 愛善世界社版137頁 八幡書店版第11輯 310頁 修補版 校定版139頁 普及版64頁 初版 ページ備考
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本文  人間が霊肉脱離の後、高天原の楽土又は地獄の暗黒界へ陥るに先んじて何人も踏まねばならぬ経過がありまして、この状態は三種の区別があります。そしてこの三状態を大別して、外面の状態、準備の状態、内面の状態と致します。併し乍ら死後直に高天原へ上る精霊と地獄へ陥る精霊とのあることは、今日迄の物語に於て読者は既に已に御承知の事と思ひます。中有界一名精霊界の準備を経過せずして直に天界又は地獄に行くものは生前既に其準備が出来て居て善悪の情動並に因縁によつて各自霊魂相応の所を得るものです。右の如く準備既に完了せる精霊にあつては只その肉体と共に自然的世界的なる悪習慣等を洗滌すれば直に天人の保護指導に依つて天界の、それ相応の所主の愛に匹敵した楽土に導かるるものであります。之に反して直に地獄に陥る精霊にあつては、現界に於て表面にのみ愛と善とを標榜し且つ偽善的動作のみ行ひ、内心深く悪を蔵し居りしもの、所謂自己の凶悪を糊塗して人を欺くために善と愛とを利用したものであります。中にも最も詐偽や欺騙に富んで居るものは足を上空にし頭を地に倒にして投げ込まれるやうにして落ち行くものです。この外にも種々様々の状態にて地獄へ陥ち行くものもあり、或は死後直に岩窟の中深く投げ入れられるものもありますが、斯の如き状態になるのは凡て神様の御摂理で精霊界にある精霊と分離せむがためであります。或時は岩窟内より取り出され、又ある時は引き入れられる場合もありますが、斯の如き精霊は生前に於て口の先計りで親切らしく見せかけて、世人を油断させ其虚に乗じて自己の利益を計り、且つ世の人に損害を与へたものですが、斯様な事は比較的少数であつて、その大部分は精霊界に留められて神教を授かり精霊自己の善悪の程度によつて神の順序に従ひ、第三下層天国、又は地獄へ入るの準備を為さしめらるるものであります。人間各自の精霊には外面的、内面的の二方面を有しております。精霊の外面とは人間が現世に於て他の人々と交はるに際し其身体をして之に適順せしむる所の手段を用ひる事で特に面色、語辞、動作等の外的状態であり、精霊の内面とは人の意思及びその意志よりする想念に属する状態であつて、容易に外面には現はれないものであります。凡ての人間は幼少の頃より朋友の情だとか、仁義誠実、道徳等の武器を外面に模表する事を習つて居りますが、其意志よりする所の凡ての想念は之を深く内底に包蔵するが故に、人間同士の眼よりは之を観破することは実に不可能であります。現代の人間はその内心は如何に邪悪無道に充ちて居つても、表面生活上の便宜のために似非道徳的、似非文明的生涯を営むのは常であります。現界永年の習慣の結果、人間は精神痳痺し切つて了つて、自己の内面さへ知る事が出来なくなつて居ります。また自己の内面的生涯の善悪などに就いて煩慮することさへも稀であります。況んや自己以外の他人の内面的生涯の如何を察知するに於ておやであります。死後直ちに精霊界に於ける人間精霊の状態はその肉体が現世にありし時の如く依然として容貌、言語、性情等は相酷似し、道徳上、民文上の生活の状態と少しの相違もない。故に人間死後の精霊にして精霊界に於て相遇ふ事物に注意を払はず、又天人が彼精霊を甦生せし時に於ても、自己は最早一箇の精霊だといふことを想ひ起さなかつたなれば、その精霊は依然高姫の如く現界に在つて生活を送つて居るといふ感覚をなすの外は無いのです。故に人間の死といふものは唯此間の通路に過ぎないものであります。
 現世を去りて未だ幾何の日時も経ない人間の精霊も又現界人の一時的変調によつて霊界に入り来りし精霊も、先づ以上の如き状態に居るものであつて、生前の朋友や知己と互に相会し相識合ふものであります。何となれば、精霊なるものは、その面色や言語等によつて知覚し又相接近する時はその生命の円相によつて互に知覚するものです。霊界に於て甲が若し乙の事を思ふ時は忽ちその面貌を思ひ之と同時に、その生涯に於いて起りし一切の事物を思ふものです。そして甲に於て之を為すときは、乙は直ちに甲の前に現はれ来るもので丁度態人を使ひに遣つて招いて来るやうなものです。霊界に於て何故斯の如き自由あるかと謂へば霊界は想念の世界であるから自ら想念の交通があり何事も霊的事象に支配されて居りますから、現界の如く時間又は空間なるものが無いからであります。それ故霊界に入り来りしものは其想念の情動によつて、互にその朋友、親族、知己を認識せざるは無く、現世にあつた時の交情によつて互に談話も為し、交際も為し、殆ど現世にありし時と少しの相違もないのです。中にも夫婦の再会などは普通とせられて居ますが、夫婦再会の時は互に相祝し、現世に於て夫婦双棲の歓喜を味はひ楽しんだ程度に比して、或は永く久しく、或は少時間、その生涯を共にするものです。そしてその夫婦の間に真実の婚姻の愛、即ち神界の愛に基づいた心の和合の無い時は、その夫婦は少時にして相別るるものであります。
 又夫婦の間に現世に於て互に了解なく嫉妬や不和や争闘や、その他内心に嫌忌しつつあつたものは、此仇讐的想念は忽ち外面に破裂して相争闘し分離するものであります。
 霊界にある善霊即ち天人は現界より新たに入り来りし精霊の善悪正邪を点撿すべく、種々の方法を用ふるものです。精霊の性格は死後の外面状態にあつては容易に弁別が付かないものです。如何に凶悪無道なる精霊にても外面的真理を克く語り、善を行ふ事は至誠至善の善霊と少しも相違の点を見出すことが出来ないのです。外面上は皆有徳愛善らしき生涯を送つて居る。現界に於て一定の統治制度の下にあつて法律に服従して生息し、之に由つて正しきもの、至誠者との名声を博し或は特別の恵を受けて尊貴の地位に上り富を蒐めたるものであつて、是等は死後少時は善者有徳者と認めらるるものです。併しながら天人は是等の精霊の善悪を区別するに当り、大抵左の方法に由るものであります。凡て何人も所主の愛に左右さるるものでありますから、即ち凶霊は常に外面的事物にのみ就て談論するを好むこと甚だしく内面的事物に就ては毫も顧みないからであります。内的事物は神の教、又は聖地救世主の神格、及び高天原に関する真と善とに関しては之を談論せず、又之を教ふるも聴くことを嫌忌し更に意に留めず、又神の教を聴いて楽まず、却て不快の念を起し面貌にまで表はすものです。現界人の多くは凡て神仏の教を迷信呼ばはりをなし、且つ神仏を口にする事を大に恥辱の如く考へて居るものが大多数であつて、大本の教を此方から何程親切を以て聞かし、天界に救ひ助けむと焦慮するとも、地獄道に籍を置いた人間には、到底駄目である事を屢実験いたしました。併しながら大慈大悲の大神の御心を奉体し一人たりとも天界に進ませ、永遠無窮の生命に赴かしめ以て神界御経綸の一端に仕へなくては成らないのであります。霊界に於ても現界に於ても同一ですが、地獄入りの凶霊と天界往きの善霊とを区別せむとするには凶霊は屢ある一定の方向に進まむとするを見ることが出来ます。凶霊がモシその意のままに放任される時はそれに通ずる道路を往来するもので、彼等が往来する方向と転向する道路とによりて、その所主の愛は何れにあるかを確めらるるものであります。
 現界を去つて霊界に新たに入り来る精霊は何れも高天原とか地獄界とかの或る団体に属して居ないものは有りませぬが、併し之は内的の事ですから、その精霊が尚ほ依然として外面的状態にある間は其内実を現はさない。外面的事物が凡ての内面を蔽ひかくして了ひ、内面の暴悪なるものは、殊に之を蔽ひかくすこと巧妙を極めて居るからです。併し或る一定の期間を経たる後に彼等の精霊が内面的状態に移る時に於て、その内分の一切が暴露するものです。この時は最早外面は眠り且つ消失し内面のみ開かるるからであります。人間の死後に於ける第一の外面的情態は或は一日、或は数日、或は数ケ月、或は一年に渉ることがあります。されど一年を越ゆるものは極めて稀有の事であります。斯の如く各自の精霊が外面状態に長短の差ある所以は、内外両面の一致不一致によるものです。何故なれば、精霊界にあつては何人と雖も思想及び意志と言説又は行動を別にする事を許されないから、各精霊の内外両面が一となつて相応せざればならぬからであります。
 精霊界にあるものは、自有の情動たる愛の影像ならぬものはありませぬから、その内面にある所の一切をその外面に露はさない訳にはゆきませぬ。此故善霊なる天人は先づ精霊の外面を暴露せしめ、是を順序中に入らしめて以て其内面に相応する平面たらしめらるるのであります。そして斯の如き順序を取る所は精霊界即ち中有界の中心点たる天の八衢の関所であつて、伊吹戸主神の主管し給ふ、ブルガリオに於て行はるるものであります。
 内面的情態は人間の死後或る一定の期間を中有界にて経過し、心即ち意志と想念に属する精霊の境遇を云ふのです。人間の生涯、言説、行為等を観察する時は何人にも内面外面の二方面を有することが知り得られます。その想念にも意志にも内外両面の区別があるものです。凡て民文の発達した社会に生存するものは他人の事を思惟するに当り、その人に対する世間の風評又は談話等に由つて見たり聞いたりした所のものを以て人間の性能を観察する基礎となすものです。されど人間は他人と物語る時に際して自分の心の儘を語るものではありませぬ。たとへ対者が悪人と知つても、又自分の気に合はない人であつても、その交際応接などの点は成る可く礼に合ふべく、又相手方の感情を害せざる様と努むるもので、実に偽善的の行為を敢てするもので、又此でなければ社会より排斥されて了ふやうな矛盾が出来する世の中であります。そして凡ての人は見えすいたやうな嘘でも善く言はれると大変に歓ぶものですが、之に反し真実を其人の前に赤裸々に言明する時は非常に不快の念を起し、遂には敵視する様になり、害を加ふるやうな事が出来るものです。故に現代の人間の言ふ所、行ふ所は、その思ふ所願ふ所と全く正反対のものです。偽善者の境遇にあるものは、高天原の経綸や死後の世界や、霊魂の救ひや聖場の真理や国家の利福や隣人の事を語らしておけば恰も天人の如く愛善と信真に一切基づける様なれども、其内実には高天原の経綸も霊魂の救ひも死後の世界も信じないのみか、只愛する所のものは自己の利益あるのみであります。斯の如き偽善者、偽信者は随分太古の教徒の中にも可なり沢山あつたものですが、現代の三五教の中には十指を折り数へたら最早残るは外面的状態にあるもの計りで、天国に直ちに上り得る精霊は少いやうであります。
 凡て人間の想念には内面、外面の区別がありまして、斯の如き人間は、外面的想念によりて言説をなし、内面には却て異様の感情を包蔵して居るものです。そして内外両面を区別する事に努めて、一とならない様にと努むるものです。真に高天原の経綸を扶け聖壇の隆盛を祈り死後の安住所を得むことを思はば如何なる事情をも道のためには忍ぶべきものであります。神様の御用にたて得らるるだけの余裕を与へられたのも皆神様のお蔭である事を忘れ、自有と心得て居るからです。爰に外面内面の衝突を来すことになつて来るのです。併し現代の理窟から言へば、内外両面を区別して考ふる事が至当となつて居ります。そして右様の説に対しては種々の悪名を以て対抗し、且つ悪魔の言と貶すものであります。又斯の如き人は内面的想念の外表に流れ出でて爰に暴露することなからむを勉め、現界的道理によつて、凡てを解決せむとし内面的神善を抹殺するものであります。
 さり乍ら人間の創造さるるや、その内面的想念をして相応に由りて外面的想念と相一致せしめなくては成らない理由があるのです。この一致は真の善人に於て見る所であつて、その思ふ所も言ふ所も、唯々善のみだからであります。かくの如き内外両面の想念の一致する事は到底地獄的悪人に於ては見る事が出来ない。何故なれば、心に悪を思ひながら善を口に語り全く善人と正反対の情態にあるものです。外面に善を示して悪を抱いて居る。かくて善は悪のために制せられ、之に使役さるるに至るのであります。悪人はその所主の愛に属する目的を達成せむがために、表に善を飾つて唯一の方便となすものです。故にその言説と行動とに現れる所の善事なるものは、その中に悪き目的を包蔵して居るので、善も決して善でなく、悪の汚す所となるは明白なものです。外面的に之を見て善事となすものは、その内面を少しも知悉せざるものの言葉であります。
 真の善に居るものは、順序を乱すこと無く、その善は皆内面的想念より流れて外面に出てそれが言説となり行動となるのは、人間は斯の如き順序のもとに創造せられたものであるからであります。人間の内面は凡て高天原の神界にあり、神界の光明中に包まれて居る。その光明とは、大神より起来する所の神真で所謂高天原の主なるものです。人間は内外両面の想念があり、その想念が内外互に相隔たり居ることは前述の通りであります。想念と言つたのは其中に意志をも包含して併せて言つたのです。盖し想念なるものは意志より来り、意志なければ何人と雖も想念なるものは有りませぬ。又意志及び想念と云ふ時は、この意志の裡にも又情動、愛、及び、是等より起来する歓喜や悦楽をも含んで居ります。以上のものは何れも意志と関連して居るからです。何故なれば人はその欲する所を愛し、之によつて歓喜悦楽の情を生ずるものだからです。又想念といふことは人が由りて以て其情動即ち愛を確かむる所の一切を言ふのです。何んとなれば想念は意志の形式に過ぎないものです。即ち意志が由りて以て自ら顕照せむと欲する所のものに過ぎないからであります。この形式は種々の理性的解剖によつて現れるもので、その源泉を霊界に発し人の精霊に属するものであります。
 凡て人間の人間たる所以は全くその内面にあつて内面を放れた所の外面にあらざることを知らねばならない。内面は人の霊に属し、人の生涯なるものは、此の内面なる霊(精霊)の生涯に外ならないからです。人の身体に生命のあるのは此精霊に由るものです。是の理によつて人はその内面の如くに生存し永遠に渉りて変らず、不老不死の永生を保つものです。されど外面は又肉体に属するが故に、死後は必ず離散し消滅し、其霊に属して居た部分は眠り、唯内面のために、是が平面となるに過ぎないのです。かくて人間の自有に属するものと属せざるものとの区別が明かになるのであります。悪人にあつては其言説を起さしむる所の外的想念と、其行動を起さしむる所の外的意志とに属するものは、一も以て彼等の自有と為すべからざるものと知り得るでありませう。只その内面的なる想念と意志とに属するもの而己が自有を為し得るのであります。故に永遠の生命に入りたる時自有となるべきものは、神の国の栄えのために努力した花実ばかりで、其他の一切のものは、中有界に於て剥脱されるものであります。アヽ惟神霊幸倍坐世。
(大正一二・五・二四 旧四・九 於竜宮館 加藤明子録)
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