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文献名1霊界物語 第81巻 天祥地瑞 申の巻
文献名2前付よみ(新仮名遣い)
文献名3総説 天地開闢の極元よみ(新仮名遣い)そうせつ
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-03-19 22:14:58
あらすじ天地開闢の極元考えられないほど大きく、浩く、漂い、恒久に変化がなく、霧を撒いたようなス(⦿)の時に、その機約の両極端に、対照となる力を起こった。(その当時の宇宙は)恒に張り詰め深く静かに満ちていたので、考えられないほど大きさの両極端に対照となる力が保たれ、至大宇宙のあらゆる極は相対照となった。その不思議な威を持つ対照力の中間を、極微点(コゴコ)を珠のように連ねた糸が掛けつなぎ、隣り合い並びあって、ヒシと充実極まる状態であった。しかしながら、そうした働きは気体の形であり透明であったので、人の眼に見えるような現象ではなかった。見えないけれども、この連珠の糸が霊気を保ち、初めて至大天球(たかあまはら)を作ったのである。そのとき、対照力(タタノチカラ)が至大天球の外面を張り詰めたために、至大天球(たかあまはら)は球形になったのである。たしかに、極元となったス(⦿)は、大きいことこの上なく、ひろびろとして漂い、恒久に変化がない状態で、花形をしており、凹凸を繰り返して呼吸を保っていたのであった。そのようにして、極元のス(⦿)は、その平らな輪の部分のところで対照力を起こし、その外面を対照力によって張り詰め、張り詰めして至大天球(たかあまはら)となったのである。それゆえ、、極元のス(⦿)の凸の所にあって、区切りの部分にあった珠の外に成ったために、鰭のような状態になった極微点は、張り詰めた珠を塗って移動した。そして至大天球の東岸部、西岸部に門を開けて、至大天球内に競って進入しようとする力を生み、押し入ってきた。この押し入ってくる極微点の力は、始めの対照力に張り詰められて至大天球中に固まっていた極微点の連珠の糸の霊気を中央に押し込み、押された気が北極、南極に押し出される。押し出された気はまた至大天球の外面を塗って移動し、東岸部、西岸部に来ると、また至大天球中に入っていく。このようにして霊気は、永世無窮に果てしもなくならび連なって、至大天球の内外を循環運行しているのである。本当のところ、ここまでに説いてきたひとつひとつの真の説は、釈迦や孔子でさえ、探求したけれども知ることができなかった、極みの重要な教えである。比喩、たとえ話の説明、謎かけ話のような、不正曖昧ないいかげんな話ではないことを理解してもらわなければならない。だから、一言一句がことごとく真正に、至大天球(たかあまはら)の組織、細かな特徴の理、大なる造化のはたらきを捉えて、明細に密に審査して、表に現れたきざしを証明した、極限の典説なのである。大いなる智恵に照らされて、全体を見通すことに熟練したあかつきには、これが一切世界に無比なる極みの教えであると称えるようになるであろう。そのことを感得すべきである。だから、謹んで本書を拝読する者は、その鑑識眼を明らかにして、一切の迷いを一掃するべきである。愚蒙にして鑑識を誤る者は、比喩や喩え、謎かけ、想像を働かせて、この説をお経や哲学の類とみなしてしまい、他の説と比較したり、愚案・愚考と談じたりして、自分はいっぱしの哲学を語っているように信じている、という有様になってしまう。読者においては、鑑識眼を正しく明らかに極めることを切に希望する。たしかに老子はこの至大天球を語っているが、明言することはできなかった。ただ、「玄のまた玄、衆妙の門」、とだけ言った。「門」とは、表半球の形を謎にかけたのである。もしはっきりと「天球」云々と言った場合、さまざまな質問・疑問が起こってくる。老子の教えでは、それらに答えることはできないので、よくよくその辺りを思案するように。釈迦は「無辺法界」「不思議界」と言う。まさに、思いはかることができないもの、という意味である。孔子は至大天球のことを「容(とるる)」と言い、また「一ツ」と言った。みな、謎かけ談のようなものばかりである。まったく、このような謎かけ談しか語ることができなかったのは、行き届かないことこの上ないが、はっきりと言ってしまうと様々な質問・疑問が起こることを恐れて、比喩、たとえ話、謎かけでもって世間をごまかし、神器を持った弥勒が出現するのをただ待っていたのである。まったく憐れな話である。このような有様であるので、『最大一なる霊魂精神は至大天球(たかあまはら)、またの名を至大霊魂球(おほみたま)であり、一個人の神経は、この霊魂球の中の一つの条脈、つまり玉の緒と言うべきものに他ならない』、と明言したとする。そうすると、釈迦、老子、孔子の教えでは、その明細を説明することができないのである。ただ頑迷な謎かけ話を作ってそれを愚かにも崇拝しているだけなのである。僧侶は、霊魂心性のことを第一に説き明かす人々であるはずなのに、『その心性とは、至大天球(たかあまはら)中の真霊に他ならない』とはっきり言ったとき、その詳細や、造化がどのように始まり、どのように終わるか、ということをはじめ、億万劫々年間に生まれ死んでいった一切の事柄を、詳しく教示することができない。ただ迷妄な謎をかけて迷っている達磨は憐れ極まる者である。だから僧侶たちに、現在行われている教えの道の本元は何だ、と問い詰めると、一言でも答えることができる者がいないのである。まして、その教えの本元が、究極的には何に基づいているか、などということには夢にも思い至らない、情けない僧侶ばかりなのである。そんなことはない、という人がいたら、道統の本元が基にしている極元は是である、と一言でも説明してみるがよい。釈迦も達磨も、その教えの道が、究極的に何を基にしているかを知らないが故に、直接はっきりと道法を説明することができないのである。だから、比喩、たとえ、謎かけのみで、ただ弥勒如来の到来を待って教えを喜び奉っているだけなのである。速やかに弥勒の出現を乞い奉るべきである。いや、弥勒はすでにここにある。請ぜよ。
主な人物 舞台 口述日1934(昭和9)年08月04日(旧06月24日) 口述場所伊豆別院 筆録者森良仁 校正日 校正場所 初版発行日1934(昭和9)年12月30日 愛善世界社版 八幡書店版第14輯 419頁 修補版 校定版1頁 普及版 初版 ページ備考
OBC rm810001
本文のヒット件数全 2 件/霊魂球=2
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本文  至大浩々漂々恒々として撒霧たる⦿の時に於て、その機約の両極端に対照力を起して、恒々湛々たるが故に、その至大の両極端に対照力を保ちて、至大悉く両々相対照して其の機威の中間を極微点の連珠絲が掛け繋ぎ、比々隣々ヒシト充実極まり居る也。然れども気形透明体なるが故に人の眼には見えざるなり。見えねども此の連珠絲が霊気を保ちて初めて至大天球を造る時に、対照力を以て至大の外面を全く張り詰りて球と成りし也。蓋し極元の⦿は至大浩々漠々漂々恒々として、花形を如して凹凸として呼吸を保てり。然り而して其の平輪分の所に於て対照力を起して其の外面を対照力にて氷張り、全く張り詰めて至大天球となりたる也。
 故に其の凸所に居て局珠外と成りて鰭となりたる極微点は、張り詰めたる其の珠を塗りて競ひて球内に入らむと欲し、東岸部、西岸部に門を得て局中に押入らむと欲し、自然の勢力を得て押入る。ここに於て其の初めの対照力に氷張り詰められて、既に球中に固有する所の極微点の連珠絲の気を中央に押す、その押されたる気は北極、南極に向ひて走り去る。その走り去り出たる気は亦復球の外面を塗りて、東岸部、西岸部に来りて亦復又球中に入りつつ、端なく循環運行しつつ永世無窮に、尾なく果なく終りなく本末もなくつららぎ居る也。
[#図 至大天球]
 蓋しこれ以上に説く所の条々の真説の如きは、釈迦も孔子も敢て以て知らざる所の極典説なるが故に、譬喩、寓言、謎かけ談の如き不正曖昧なる妄談に非ず。復世間並なる想像談に非ず。極乎正明なる極典説なり。故に一句一言皆悉く正真至大天球の組織、紋理、大造化機を捉みて、明細審密に証徴したる極典也。大智慧を照して熟覧を遂ぐる時は、一切世界無比類なる極典矣と称ふ事を感得すべし。故に謹読の輩は其の目利を明らかにして一切の迷ひを一掃すべし。愚蒙にして目利を誤る時は譬喩、寓言、謎かけ想像談を以て、契経也、哲学也などと思ひ、愚案説、比例説、愚考説を陳述して哲学也と信じ居る也。乞ふ、目利を正明に極むる事を冀望する也。
 蓋し老子は此の至大天球の真を明言する事不能、玄之復玄衆妙の門と言ふ也。門といふ者は表半球の形を謎にかけたる也。若し明言して天球云々と言ふ時は、種々の質問起る也。諸に答ふる事不能也故克々思ひやるべし。釈迦は無辺法界といふ、不思議界といふ。実に思ひ議る事不能者也。孔子は容と言ひ復一ツと言ふ、皆謎談のみ也。誠に以て不届千万なれども、明言すれば種々の質問起るを恐れて、譬喩、寓言、謎談等を以て世を籠絡し、神器(〓)を持ちたる弥勒の出づるを相待ち居る也。憫と言ふも愚なり。
 されば最第一なる霊魂精神は、至大天球一名は至大霊魂球にして、一個人の神経は此の霊魂球中の一条脉なる即ち玉の緒と言ふ物也と明言して、その明細を説明する事不能也也。頑々たる謎談を作りて愚拝し居る也。故に六識七識八識九識十識の事は、目録にも足らぬ譬喩談を演説したるのみ。実明したる契経とては唯の一巻も無き也。天親菩薩が七識以上は迚も叶はぬ、依つて唯六識を説くといひて唯識論を置きたれども、妄々たる譬喩談にて目録にも足らぬなり。古今無双の大学明信なる天親にして既に妄々なる事如此也。況やその他の派下の愚僧をや。
 嗚呼霊魂心性の事を最大一に説く僧侶にして、その心性は至大天球中の真霊即ち是也と明言して、その明細造化を行ひ居る始末柄を初め、億万劫々間の年度を生死往来して居る一切の事を、明細に教示する事不能、妄々たる謎をかけて迷ひ居る達磨は、実に憫然極まる者也。
 故に現今行はれゐる所の道統の本元は何なりと詰問すれば、敢て一言も答ふる者無し。況や其の本元が寄て来る極元の事は、夢にも思ひ居らざる浅ましき餓鬼僧のみ也。
 ササ有リと知る人あらば、道統の本元寄而来るの極元は是也と一句たりとも説明して見よ。釈迦も達磨も其の道統の本元因て来るの極元を不知故に、直接明言に道法を説明する事不能也。故に譬喩、寓言、謎談のみにして、弥勒如来の当来を待ちて教を楽び奉る也。故に六識七識八識九識十識の柄を少くも説く事不能也。故に識の事を記したる経は一巻だも無し。天親菩薩の唯識論の妄々たる者が極々珍書の位を占め居る実に憫然の至也。速に弥勒の出現を乞ひ奉れ、否弥勒を請ぜよ。
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