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文献名1霊界物語 入蒙記 山河草木 特別篇
文献名2第3篇 洮南より索倫へよみ(新仮名遣い)とうなんよりそーろんへ
文献名3第18章 蒙古気質よみ(新仮名遣い)もうこきしつ
著者出口王仁三郎
概要
備考2024/1/18出口王仁三郎全集第6巻を底本として校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-01-18 01:36:30
あらすじ
蒙古の宗教はラマ教である。ラマ寺はチベット式に建てられており、一つのラマ廟には、少なくて三百人、多くて七、八万人のラマ僧が大市街を構えている。

大庫倫には、先年清朝にそむいて蒙古皇帝を名乗った活仏があったが、現在は活仏の権威は有名無実なものとなり、ロシアの赤軍が割拠しているのだという。大庫倫には百七、八十万人の人口があり、日本人も数名住んでいるとのことである。

日出雄は蒙古の奥へ来てから、大神様のおかげにより、人民に尊敬され、心の限りの待遇を受けていた。一時的に老印君ほか二三の役人にやや冷遇を受けはしたが、一般の蒙古人からは少しもそのような扱いを受けなかったのである。

蒙古人の天真爛漫、子供のような性情に接して、まだ世の中に活きた生命のあることが楽しく思われた。

四月十四日に盧占魁は二百人の手兵を引率して、公爺府に到着した。盧は大勢の部下の前で日出雄に抱きついてうれし泣きに泣いた。日出雄も感慨の念に打たれたのである。互いに旅情を慰めあった後は、真澄別が事務を盧と協議した。

日出雄一行の日本人らは、蒙古人の歓待を受けた後、自分の子供をもらってくれとあちらこちらで請われて、迷惑をしていた。聞いてみると、日本人であれば、しかるべき世話をしてもらえるだろうから、という親心から来ているのだという。

ある日、ラマ僧が病人を祈祷をしているところへ出くわした。日出雄は家の主人に、病人を治してやろうと言い、病人の額に手を乗せて「悪魔よ、去れッ」と一喝した。たちまちに病人は全快し、ラマ僧たちは驚いて日出雄をますます尊敬するようになった。

白凌閣は日出雄、真澄別以外の日本人の言うことを聞かないので、あるとき猪野は怒って白凌閣の横顔を木片で殴りつけた。白は顔面が腫れ上がり、地がにじみ出たが、このことを自分の父に告げようともしなかった。

日出雄は見かねて白の手当てをし、鎮魂を施した。三十分もすると、腫れは引いてしまった。日出雄は白に、日本人にひどい目に合わされても、自分の親に告げに行かなかったのは感心だ、と言った。すると白は、『大先生の家来になったのだから、もはや父母を頼ることはできない。また、先生の代理である真澄別さんの言うことは聞きますが、その他の日本人に服従する義務はありません。道ならぬことをすれば、蒙古男子の恥になります。』と言った。

日出雄は感心して白を誉めたが、日本の慣習を言って聞かせて、今後は他の日本人の言うことも聞き、世話もしてもらいたい、と諭した。その後は白は他の日本人の言うことも聞くようになった。

またある日、白の父が訪ねてきて、一人息子だからあまり遠いところにはやりたくない、と日出雄に依頼して来た。日出雄は気の毒に思い、親孝行のために、父の言に従うよう白に諭した。

すると白は、蒙古男子がいったん誓った言葉は金鉄ですから、といって聞かない。これを見た父は観念したと見えて、『息子をよろしくお願いします』と言ったきり、公爺府出発の日にも訪ねては来なかった。

これらをみても、蒙古人の男性的気性が窺い知れるのである。後に白はパインタラでも難を逃れて、公爺府に無事に帰りつくことができた。これもこういう心がけであったから、神の保護を受けたものであろう。
主な人物【セ】源日出雄、丑他阿里太(ウツタアリタ)、白厘九(白凌閣の父)、参謀長【場】丑他倶喇(ウツタグラ、丑他阿里太の娘)、白凌閣、喇嘛【名】老印君、盧占魁、観世音菩薩、守高、名田彦、岡崎鉄首、王元祺、名田彦、真澄別、猪野敏夫 舞台 口述日1925(大正14)年08月 口述場所 筆録者 校正日 校正場所 初版発行日1925(大正14)年2月14日 愛善世界社版161頁 八幡書店版第14輯 607頁 修補版 校定版161頁 普及版 初版 ページ備考
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本文  蒙古の宗教は皆喇嘛教で戸毎に仏壇を鄭重に祀つてゐる。そして喇嘛寺は凡て西蔵式に建てられ、矮小な貧弱な蒙古人に似ず、巍然として雲に聳へ、遠方より凝視すれば恰も立派な洋館が立並んだやうに見える。さうして一つの喇嘛廟には、最も少いのが三百人、多いのになると七八万人の喇嘛が廟を中心として、普通民家とは変つた立派な居宅を構へて大市街をなしてゐる。先年支那政府に背いて独立を宣言し、蒙古皇帝となつた大庫倫の活仏が住んで居る喇嘛廟の如きは、三十万の喇嘛僧が沢山な住宅を並べて住んでゐる。現今では皇帝の位も大活仏の権威も全然有名無実になつて了ひ、露西亜の赤軍が自由自在に我儘を振舞つてゐる。さうして大庫倫には一百七八十万の人口があつて、日本人も数名住つてゐると云ふ事である。それから英、米、仏、露の人間が二万許り住居し、ヤソ教の教会堂も建つて居るが、蒙古人の信者は一人もないと云ふ事である。喇嘛教と云ふのは俗称であつて、喇嘛は蒙古語の僧侶といふ意味で、その実は仏陀教と云ふのが正当である。蒙古では各地の王様よりも活仏の方が上位に居り、国民の信用も尊敬も王様に比して非常に高い。蒙古は喇嘛の国と云はれる程あつて、総人口の四分の一以上は喇嘛である。何れも暗愚な無学な売主坊主計りであつて、蒙古人の尊敬の的となつてゐる活仏でさへも、自分の地位を利用し、沢山な女を姦し、梅毒に悩んで、病毒の伝播を行つて居るのが多い。
 一般の蒙古人は貞操の念強く、有夫姦等の忌はしい醜行は微塵も無い。さうして一夫多妻であり乍ら、狭い一つの家に沢山の女房が一所に暮して居て、少しも悋気喧嘩が起らないのである。気候の故と淡白な食物の影響であらうが、蒙古人は余り色情等には趣味を有たぬ人間らしい。
 それに引替へ衆生済度の地位にある高僧連は盛んに醜行をなし、風俗壊乱の首魁者となつてゐる。然し乍ら蒙古人は活仏の醜行に対しては少しも咎めない。活仏のお手が掛つた娘は仏縁に依つて立派な夫に嫁しづく事が出来ると云つて寧ろ歓迎してゐる風である。
 日出雄は数千里を隔てた蒙古の奥へ来て、其人民からは神の如くに尊敬され、心限りの待遇を受けて、全く大神様のおかげだと喜んで居た。日出雄の神徳は赫々として旭日昇天の如く、遠近の蒙古人に取囲まれて面白き月日を送つてゐた。一時老印君等の支那政府に憚つて稍冷遇をされた傾きがあつたが、之は老印君其外公爺府に仕へて居る二三の役員のみに限つたので、一般人からは少しも冷遇は受けなかつた。又内地人や支那人の狡猾なるに比べて蒙古人は真に天真爛漫、その性情は子供の如く、神代の人の如くである。現代の如き悪化した世の中に、こんな天国があるかと思へば、まだ世の中に活きた生命のある事を楽しく思はれるのである。
 さて四月十四日、西北自治軍総司令上将として盧占魁は二百人の手兵を引率し、轎車に乗つて無事公爺府に到着した。盧は直ぐ様仮司令部に入り、其足で日出雄の宿舎を訪ねて来た。日出雄は盧が来たと云ふので門口に出迎へると、盧占魁は大勢の兵士の前で日出雄に抱きついて嬉し泣きに泣いた。日出雄の目にも感慨無量の涙が浮んでゐた。それから盧占魁は鎮国公から送られた純白の乗馬を日出雄に送り、且つ沢山の菓子や果物をすすめて旅情を慰めた。
 其後は真澄別が代つて凡ての事務を盧と協議する事となつた、日出雄は歌を詠んだり、詩を作つたり、日記を書いたり、喇嘛や村人に覚束ない蒙古語で神の教を説き諭してゐた。
 公爺府の傍に小やかな家があつて、そこの主人は丑他阿里太と云ひ二人の妻君を持つてゐる。さうして一男二女があり、長女を丑他倶喇と云ひ、日出雄が門前を通ると主人が、
『モンドユー、イホエミト、ポロハナ、イルジー イルジー』
と頻りに招くので白凌閣と共に小さい蒙古包の中へ這入ると、
『今日は喇嘛僧を二十人許り呼んで、御馳走をするのですから、ナラヌオロスのポロハナに先に食つて頂き度い』
と云つて、メリケン粉の団子に羊の肉を餡とし、爐の上で牛糞の火で茹でた団子を食へとすすめる。日出雄は妙な臭のする団子を勧められ迷惑したが、蒙古人の好意を否む訳にも行かず、感謝して二つ三つ頬張つた。其の家の妻は頻りに茶を汲んだり、団子を持つて来て勧める。日出雄は、
『此の上団子は腹が大きくて食へない』
と云つて体よく断り、茶と煙草を頻りに乾燥した口の中へ放り込んでゐた。此処の娘の丑他倶喇は当年十四歳で珍らしい美人であり、年に似合はぬ大柄であつた。
 ウツタグラと云ふ名義は東洋一の美人と云ふ意味である。どこともなく威厳が備はり、色が白くて目元が涼しく、丁度観世音菩薩の様な姿である。日出雄は此少女に向つて、
『チンニセーナホンモン(汝、美人)』
と称揚すると、その父親が直ぐに日出雄に向つて、
『ピーシヤ、ムツトルテ、チンニン、ウツタグラ、シヤルトゲヤ』
と云つた。此意味は、
『貴下は立派な人である。私の娘ウツタグラを貴下にあげませう』
と云ふのである。そこで日出雄は何とも答へず笑つて帰つて来た。さうすると其翌日から少女がボロボロの着物を立派な衣服に着換へて、日出雄の側へやつて来て、茶を汲んだり、ハンケチを湯に絞つたりして、身を忘れて世話をした。よくよく聞いて見ると『日本の活仏だから決して妻子は無いであらう。此娘を上げたならば、屹度自分の子として相当の処へ嫁けてくれるだらう』と親心から思つたのだと云ふ。蒙古人は日本人を見ると『自分の子をやらうやらう』と云ふ癖がある。一行の日本人も、あちらや、こちらで『子をやらうか』と云はれて有難迷惑を感じてゐた。
    ○
 或日ウツタナストの隣家に三十人許りの喇嘛が集つて朝の六時頃から夕方まで陀々仏陀々々々々とのべつ幕なしに経文を挙げてゐるので日出雄は怪しんで其の家に這入り覗いて見ると、一人の大病人を真中に置いて喇嘛が一生懸命の祈願をやつて居た。病人はダンダンと苦しむ許りで少しも快方に向はない。喇嘛の云ふのには、
『一日も早く国替さして天国に救ひ、病気の苦を救ふ為に臨終の早くなる様に祈願してゐるのだ』
と云つてゐる。そこで日出雄は家の主人に向ひ、
『即座に此病気をなほしてやらうか』
と云つたら主人は低頭平身して祈祷を頼むだ。日出雄は直に数多の喇嘛に会釈し、病人の額に軽く手をのせ『悪魔よ、去れツ』と一喝した。忽ち大熱は醒め、其場で病人がムクムクと起上り、嬉しさうにゲラゲラ笑ひ出した。
 余りの奇瑞に喇嘛僧は驚いて益々日出雄を大活仏として尊敬するやうになつた。守高と名田彦とが柔術の自慢を朝から晩まで引つきりなしにやるので、岡崎や王元祺が立腹してゐる処へ、名田彦が岡崎の手を握つて自慢げに『柔術はこんなものだ』と云つた所、岡崎はカツと怒つて小便のしてあつた金盥を名田彦の顔にぶつつけた。名田彦は非常に口惜がつたが、岡崎の権幕に恐れ、且つ日出雄になだめられて歯切しりし乍らヤツと胸ををさめた。それから日本人側は白凌閣が日出雄と真澄別に対してはいろいろの用を聴くが、他の者の云ふ事を聴かないと云ふので大変に白凌閣を憎み、猪野敏夫等は木片を以つて白凌閣の横ツ面を厳しく殴りつけた。忽ち顔面脹れ上り、血が滲み出た。白凌閣は顔を抱へて蹲まり、涙を流して気張つてゐた。白凌閣の父は同じ公爺府の近い所にゐるけれども、白は此乱暴な日本人の仕打を父に告げ様ともせず一歩も動かずに泣いてゐた。日出雄は見兼ねて白の顔に焼酎を吹きかけてやり、且鎮魂を施した処、三十分間程の間に脹は直り、顔も元に復して了つた。日出雄は白を裏山に散歩を名として連れて行き、覚束ない蒙古語で、
『お前は猪野君にあんなひどい目に会はされても、自分の親に知らしに行かなかつたのは感心だ』
と云つて褒めた処、白は喜んで言ふやう、
『私は大先生の家来になつたのですから、最早や父に頼る事は出来ませぬ。さうして私は先生のお弟子となり喇嘛になる積りですから、先生の代理たる真澄別さまの命令は聴きますが、其他の日本人の命令に服従する義務はありませぬ。仮令日本人が怒つて殺すとも道ならぬ人の命令は諾きませぬ。そんな事をしますと蒙古男子の恥になります』
と云つた。日出雄は感心して白を褒めてやり、さうして日本の風俗や習慣を語り聞かせ、
『お前の云ふのも蒙古人としては尤もだらうが、日本人にはそんな理窟は通らないから、間のある時は他の日本人の言ふ事も聴き、世話もして貰ひたい』
と語つた所、白は諾いて其後は誰彼の区別なく言ふ事を諾く様になつた。白の父白厘九がやつて来て、
『此の伜は一人息子ですから、あまり遠い所へはやり度くありませぬ。そして白凌閣には隣村から嫁を貰ふ事に決まつて居りますから、何とかして体をあけて貰ふ事は出来ますまいか』
と丁寧に依頼して来た。日出雄は父の言を聞いて気の毒に思ひ、白凌閣に、
『お前は一人息子でもあり、お前の父は老年でもあるから大庫倫迄従軍することは親に不孝になるかも知れぬ。そして親と妻君を残して遠征に上つても、お前も気が気であるまいから、父の言葉に従へ』
と云つた所、白は首を左右に振つて、
『イエイエ一旦蒙古男子が誓つた言葉は金鉄です。父や妻は神様に任せておけば宜しい。私は大先生の行かるる所は何処迄もお供致します』
と云つて聞かないので、父も観念したと見え、
『アハヽヽヽヽ』と大きく笑つて、
『どうか伜を宜しく頼みます』
と挨拶して帰つたきり、日出雄が公爺府を出立する朝迄、その父は訪ねて来なかつた。之を見ても蒙古人の男性的気性が知れるのである。
 彼白はかう云ふ心掛を有つて居たから神の保護を受けたものか、六月二十一日の白音太拉の遭難の時も支那兵に捕へられ、銃殺の場に立たされた一刹那、参謀長が出て来て、
『こんな子供を殺した所が仕方が無い』
と云つて白を逃がしてやつた。それより白は色々と艱難辛苦して無一物で公爺府へ無事帰る事を得たのである。
(大正一四、八、筆録)
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