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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >1 出口なおの出生よみ(新仮名遣い)
文献名3なおの父母よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ32 目次メモ
OBC B195401c1112
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本文  なおの父は桐村五郎三郎といった。母そよは綾部上町の出口惣右衛門の子であった。桐村家の家系については正確なことはわからないが、ただ数代前から「カメヤ」と称し大工を業としていた。そして浄土宗法鷲寺(福知山市寺町)の檀家であった。なおの祖父と曾祖父は腕の立つ大工であったらしく、藩の御上大工となり、苗字帯刀を許されて郷宿をつとめていたという。母そよが綾部から嫁いできたころは、貸家も両隣りにあり屋敷も広く、かなり大きな家に住んで、大工を見習う三人の弟子があった。桐村家は、一八七二(明治五)年の戸籍では士族となっているが、藩士録にはそれらしい名はみえない。なおが生まれた上紺屋町は大体において職人の居住地で、現在でも大工・ブリキ屋などが多く、広小路を中心とした商店街や、西町などの困窮者の多い地帯とは異なっていた。五郎三郎夫婦の子は四人あって、長男は大吉、次男は清兵衛、次はなおで、末子をりよといった。
 曾祖父と祖父はしっかりものの職人であったが、父五郎三郎は与えられた境遇に甘んずることのできない奔放な性格であった。「経歴の神諭」には、「直の祖父さまと申すのは発明のお人でありたなれど、父の五郎三郎が番頭に行っておりたのを、親というものは子にかけたら阿呆なもので、父の東京へ勤めに行きおりて、連れ帰りて、さっぱりごくどうにしてしもうて、その者の行きはが知れいで、もとの家にもどりて来たこともあるのざぞよ」(明治35・9・26)とある。右のことばのなかにみえる「東京」というのは、江戸の意味かどうかは不明であるが、若いころの五郎三郎が、思う存分に活躍できる新天地を求めて大都市に出奔し、父に無理に連れ帰られたこと、それ以来五郎三郎は道楽者になり、一時は行くえが知れなかったことなどがわかる。
 五郎三郎が成人した一九世紀の初頭は、寛政改革による緊縮政策が失敗して、奢侈と頽廃のなかで近世文化が最後の発展と爛熟を示す時期であって、大都市を中心とした町人文化が、山陰の一城下町福知山に大きな影響を与えるようになるのはこのころであるらしい。いまその二、三をあげるなら、福知山藩が「御教導役」を設け、藩主朽木倫綱自作の「訓条」を巡回講話させて、民衆教化になりだしたのが一八〇二(享和二)年、朝暉神社の祭祀余興として能楽がはじまったのが一八二八(文政一一)年であり、藩校惇明館ができたのもこのころである。
 「訓条」は「親には、ねんごろに致し、兄弟仲よく、夫婦むつまじく、何ごとにも和らぎかど立たぬやうに、能く言ひ合せて暮す者を、誠の人といふなり」という書き出しで、家族道徳を中心に儒教倫理を日常生活の規範として平易にのべたもので、心学の影響が強い。この「訓条」は、勤勉に働くように説くとともに、百姓は農業を専ら丹精して商売の利益を思うなとか、公事出入りをするなとか、女は従順でなければならぬとか強調しており、あらたに胎動しはじめた民衆の動向を抑制する意図が露骨にみうけられる。これらの規範は巡回講師によって領民にくまなく講話された。なおの母そよは、こうした類いの規範の忠実な実践者であったことは後にのべよう。また能楽は「近時城下の風紀、やや乱れたれば、之が矯正の一策として」始められたもので、その後ますます発展し、嘉永年間(一八四八~五三)には能師匠を若狭から呼びよせて居住させ、藩士にとりたてている。少女のころのなおが、祭礼のたびに胸をときめかせて見入ったであろう能楽は、数十年を経て帰神した、なおの行動に再現している。その他、明智光秀を祀る祭礼の御霊会が盛大になったのは嘉永ごろといわれ、大阪の文人木村兼葭堂が来住するのも嘉永ごろである。
 頽廃的な風潮が次第にひろがっているころ、粋人でもあった五郎三郎は仕事をなまけ、次第に家財を手離し、なおの出生のころには、貸家も自宅も売り払って小さな家に移るほどに困窮していた。五郎三郎の母は早世して、たけが義母となったが、たけは町でも有名な意地の悪い老婆で、桐村家に来てからはことにわがままであったために、五郎三郎の妻そよは大そう苦労した。家系の窮迫が、たけをますますいらだたせ、そのために五郎三郎はますます遊び歩き、そよが苦労するというような状態がくり返されていたようである。しかし、そよは誠実で従順な女性で、家の内は誰か一人素直になって誠を立て通せば、きっとよくなるというような信念をもって、わがままな姑によくつかえ、家計の苦労を一身にひきうけた。こうしてついに、口やかましくわがままだったたけも、そよの心情に感化されて、善良な人柄に変わったといわれる。没落にひんした婚家で気ままな姑や夫をかかえて、愚痴もこぼさず誠意をつくし、あらゆる苦労を一身にひきうけて生き抜くというのは、封建時代の日本における模範的な女性の生き方であった。この、そよの立場と生き方は、後年の、なおの生活態度のなかに再生している。そよの信仰についてはよるべき資料がないが、なおの人間形成にもっとも大きな影響を与えたのは、この母の生き方であり、考え方であった。

〔写真〕
○郷宿のころの桐村家(天保初年) p33
○一宮神社の能舞台(福知山市) p34
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