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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >3 出口家入りと結婚よみ(新仮名遣い)
文献名3生活の変貌よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
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ページ49 目次メモ
OBC B195401c1133
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本文  幕末のあわただしい政争も、丹波の小藩綾部の藩政には、直接、きわだったかたちでは反映しなかったが、封建社会の崩壊過程の進行は、領民の生活に変化をもたらさずにはおかなかった。生活の変化は、物質面にも精神面にも、はっきりときざしていた。綾部の商工民・農民の宗教生活にも、この歴史の流れを、幾分なりともみてとることができるのである。
 幕末の綾部には、各様な神社崇敬の講が活発に活動していた。この種の講は、霊験の聞えた有名寺社への現世利益信仰によって発達した民衆の宗教組織で、従来の土地にむすびついた氏子組織や村内の信仰の寄合いどころとなり、封建支配の境域をこえた横のつながりをもつ組織であった。綾部には、伊勢講をはじめ、金比羅・秋葉・多賀・天王・愛宕・祇園のそれぞれの講があって、毎年、講員が交代で本宮代参をつとめ、神札をうけて配布した。また、本宮から禰宜がやって来て配札をすることもあった。このほか、青年には、大和の大峰山への行者参りすることが慣行となっていたし、老人を中心とする大師講・観音講や、こどもの天神講などがあった。在所ごとの氏神には、強固な氏子組織がつくられており、これは宮講とよばれていた(『綾部町史』)。
 江戸時代には、全国的に組織されていた伊勢講を基盤に、数度の大規模な集団的伊勢参宮が爆発的にひろがり、「ぬけまいり」「おかげまいり」とよばれた。
 この「おかげまいり」は、民衆のなかに奥深く浸透していた天照大神信仰がほぼ六〇年毎に爆発し、広範な民衆が一時的に封建支配のわくを踏みこえて、伊勢神宮へ参詣するものであった。この「おかげまいり」の信仰が、この地方の民衆にも深く浸透していたことはたしかであって、一八三〇(文政一三)年の「おかげまいり」には伊勢へぬけまいりする民衆が、天田郡上六人部村の生野を毎日五千人・六千人も通り、また福知山土師の渡しを、多いときには一日七千人も通り、綾部の町も多いときには一日千五、六百人ずつ通ったという。この「おかげまいり」は、文明開化の世となった一八九〇(明治二三)年(一八三〇年から丁度六〇年目)にもこの地方でおこった。
 「ええじゃないか」は、神秘的な終末観に支えられて、社会変革の到来を予感した民衆のなかにおこった集団参宮であった。この運動は、幕末の政争もいよいよおしつまった一八六七(慶応三)年一一月、京都・大阪からはじまって、畿内はもとより、東海道一帯と江戸・神奈川・甲府・松本・伊勢・淡路・阿波などにひろがって広汎な民衆をまきこみ、神政到来の昂奮した雰囲気がひろがった。「ええじゃないか」は「ええじゃないか」とうたいながら、昼も夜も熱狂的に踊りつづけるもので、人々はそう叫びながら、富裕なものや平常因業な者の家にあがりこんで金穀や酒食を奪いとった。「ええじゃないかええじゃないか、なんでもええじゃないか」と民衆が叫ぶとき、それは旧秩序を「なんでもええ」として原理的に否認しているのであり、そこには、「世直し」の思想が素朴な形で表現されている。事実、「世直し踊り」ともよばれたのである。この「ええじゃないか」が、この地方でどの程度の範囲でおこったかは、興味ある問題であるが、いまのところ『御蔵米直段』に、「此年御札様ふり候故、方々おどり有是候也、金銀もふる也」とあるのが注意をひく。
 幕末の社会の激動は、既成の封建的な宗教秩序をゆるがし、民衆の解放への意欲を部分的に反映した新宗教の成立を準備する。岡山在の神官黒住宗忠は、天照大神信仰を基礎とする独自の神道説によって黒住教を創唱したし、つづいて、近畿・山陽の先進的な農村で、天理教・金光教が成立した。大本に大きな影響を与えた金光教と、大本に多少の影響があったと思われる天理教がこの地方におよぶのは、はるか後の明治二〇年代であるが、黒住教は、すでに幕末において、教線をこの丹波の山間部にもひろげていった。
 一八六〇(万延元)年から一八六二(文久二)年にかけて、黒住教の四天王の一人といわれた赤木宗一郎らが、この地方に来て有岡・法恩寺・私市・西方などに布教した。これは、この地方に伝えられた幕末維新期の新宗教の最初のものであり、赤木とそのグループは神楽岡に宗忠神社をつくり、京都で幕末の尊皇運動に参加した。山々を越えた篠山盆地では、このころ、法華系の神道を説く妙霊教が発展しはじめており、まもなく、船岡を中心にこの地方にも浸透してきた。
 結婚後まもなく政五郎は、なおと相談して、新宮坪の内の屋敷に新たに家を建てた。この地は昔から何かのたたりがあって、村の者はおそれて、だれも家を建てる者はなかったが、そういうことには無頓着な政五郎であった。そのところは、現在大本のみろく殿の西北、銀明水の井戸あたりである。

〔写真〕
○ペリーの来航 p49
○元伊勢講(京都府大江町) p50
○おかげまいり(宮川の渡し) p51
〔図表〕
○出口家系図 p52
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