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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >5 災厄と困窮よみ(新仮名遣い)
文献名3愛と苦しみよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ69 目次メモ
OBC B195401c1151
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本文  一八八五(明治一八)年、政五郎は、仕事先で高い庇から落ちて負傷した。その朝、なおは「今日はなんじゃ知らんが胸騒ぎがしてかなわんさかい、仕事に行きなはったら、かくべつ気をつけなはれや」といったが、その予感があたり、政五郎の座骨負傷は、酒毒の影響もあって中風を併発し、約二ヵ年にわたる臥床の身となった。
 なおは、りょうと小さいすみがいて、夫の看病にも仕事にも困るので、夫の生家にあずけてあったひさ(一七才)を呼びよせた。大工見習にやっていた竹造は、大工はきらいなのに、両親からは大工をつぐようにとせめられるというので、のみで咽喉をつき自殺をくわだてた。その知らせで、なおはすぐかけつけ、竹造を戸板にのせて連れ帰った。竹造は重傷で、父と枕をならべたが、傷がなおると、親のもとをはなれて京都にでかけ、行方不明となった。次男の清吉は一三才で、若狭から上野の家中にきて、紙漉業をしていた寅という人のもとで見習い職人となった。
 こうした不幸がつづいたので、なおの一家の生活はまったく行きづまってしまった。なおは、足腰のたたない病気の夫と幼ない子供たちをかかえ、一家の生活のすべてをささえなければならなかった。こうして、不眠不休に近い血のにじむような生活がつづいた。さすがのなおも「ああ私は業の深い人間や、地獄の釜の焦げ起しとは、我のことか」と嘆息して、涙した日もあった。
 長い間つづいた饅頭売りも、夫の医薬料に追われて資金に困り、どうしてもやっていけなくなった。どんな仕事にも熱中し、労をおしまぬなおであったが、かさなる貧苦にはあえいだ。時代はまさに、小生産者たちが続々と倒産してゆく不況の真っ最中であり、病気の夫と幼ない子供をかかえて、すでに、年老いたなおには、適当な働き口もなかった。まったく困り果てたなおは、資金のいらぬわりに利のいい紙屑やボロ買いをはじめた。ボロ買いや紙屑買いは、適当な仕事をもたぬ零細民の典型的な職業である。すこしのちの資料になるが「明治二七年度営業税等級課額」によれば、綾部町全体で「等外」三三名のうち、九名がこの職業に従事するものであった。「等外」とは年間収入一五円にみたぬ者のことであった。同じ統計によれば、綾部町でこの職業に従事するものは全部で一三名で、その多くは寡婦か、それと似た立場にある貧しい婦人であった。つまりこの職業は、近代社会の形成過程で、そのもっとも悲惨な犠牲者が、かろうじて露命をつなぐための職業であった。ボロ買いは資金はあまりいらないが苦しい仕事であった。なおは、ボロ買いに、綾部の近村から福知山・宮津辺の遠方までもでかけた。大雪の日に普甲峠の雪で危うく一命を失いかけたこともあったほどである。
 政五郎は病臥のはじめ「不自由はかなわんなれど、ちっとも心は病めんので、わしは歌でもうたいたいような」といい、「借金の尻ほど恐いものはなし、家打ちこめど穴はふさけず」「隣には餅搗く音の聞ゆれどわれは青息つくばかりなり」などと、得意の狂歌をつくったりなどして病苦をまぎらしていた。だが、二年ばかりも床について、なおの苦労のきびしさをみる政五郎の晩年は淋しかった。病床についたはじめのころの政五郎は、酒を買えとか、梨を買えとか、なおの苦労を知らぬようにわがままをいったが、のちには、妻の苦労と愛情が身にしみて、涙する日も多かった。「わしはいままでは気随気ままばかりしておったのに、お前のような親切な女房は勿体ないのう」などといって、病気で思うようにならぬ手をふるわしながら、なおの後姿を拝むようにしたという。なおは、夫のわがままにも従順に従い、大切に看病した。毎朝、ひさに留守中の注意をあたえ、幼ないりょうとすみにも、姉のいいつけを守るようにいいふくめて、ボロ買いに出かけた。そしてふところから、そっと自分の弁当を取り出して二人に与えたり、弁当すらないときには五厘をあたえて出かけた。子供らはまだ昼にもならぬのに串柿など買ってたべ、他人が昼飯の時には食べるものがなく、りょうやすみには日が長く感じられた。
 ひさは父が二年ばかりも床につき、あまりに生活がみじめになってくると、「お父さんもあんなにして生きとってんよりも、いっそのこと亡くなられた方が楽であろうに」などとつぶやいたが、これを聞いたなおは、こわい顔となり「世界中お前が鉄の草鞋で探しまわっても、お前のお父さんという人はこの人一人やないか。病人はなア、世話するものが飽いたら死ぬということがある。私はまだ病人の世話には飽いとらん。生きとっての間に大事にしとかなんだら、死んでしまってから涙が止まらぬことがある。お父さんのもの一つ見ても、も少し孝行しておきたかったと思い出して泣けるで、生きとっての間に充分に孝行してさえおけば後悔が残らぬものじゃ」とさとしたという。
 一八八七(明治二〇)年二月の末、政五郎の病状がかわった。政五郎は「おなおや、永う世話をしてくれたが、もう死のうやも知れんで、この世の別れにもう一杯お酒が飲みたいがなあ」といった。なおは門口まで出たが、その日は一文もなかった。ただ一つ商売道具の秤があったが、これを売ると商売に困るので、秤を抵当にして金を借りようと質屋へ行った。そして三銭貸してくれと頼んだが、質屋では、こんなものは質草にならないとことわられ、親切にしてくれる同業者のところへ行って頼み、二銭貸してくれたので酒を買ってかえった。
 政五郎は大変よろこんで「ああ、うまい、これで思いのこすことはない」といったが、それから間もなく、むくみがひどくなり臨終の日の近いことが、だれの目にもわかった。なおはびっくりして隣の大島の宅へ走り、「うちの人が死んだらどうしよう」とあおざめた顔をして、深いため息をついたが、人々はそうしたなおを見て、「手数ばかりかかる病人が死んだとて、どうだというのだろう」とけげんな顔をしたという。三月一日(旧二月七日)、政五郎は六〇才で帰幽した。近所の組内から費用を出してもらって葬式をすませ、禅宗西福院に葬った。「それは、それは、淋しい葬式でありましたがェ。少し覚えております」と、すみは当時を回想して語っている。時に、なおは五一才、こうして三二年におよぶ結婚生活は終わった。

〔写真〕
○丹波 丹後 但馬地方の糸ひき p69
○普甲峠 大江山の麓にあり前方に宮津湾がみえる p71
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