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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >5 災厄と困窮よみ(新仮名遣い)
文献名3行商と糸引きよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ73 目次メモ
OBC B195401c1152
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本文  一八八七(明治二〇)年、なおは、三女ひさを八木の鳥羽へ奉公にだし、りょうとすみを家において行商をした。髪はぐるぐる巻に結い、寒い日も縞の単衣を着て紙巻草履をはき、二〇銭と一反風呂敷をもって、朝早くから戸毎に屑を買いに回った。予定の古物が買えない時は、夜遅くなるまで村から村へと歩いた。夜になると、なおの留守宅では、行燈がわりに炉に肥松をたいて灯火にし、待ちくたびれた幼ないりょうとすみが眠っていることが多かった。家に帰ると、なおはボロを選りわけ、広小路で金に替え、わずかな利得で米を買った。このころ米一升が五銭か六銭ぐらいであったが、米に大根の葉や芋などを切り込んで炊いた。醤油も塩も入れかねるときもあり、近所の人は野菜に醤油をそえてくれたという。またすみの『つきぬおもいで』にも次のように語られている。「父さんが亡くなられてからは、母は西町(よね)に私をあずけて、亀岡や栗柄の遠い所に糸引きにいかれた。今の糸やのようにいつでも仕事があるわけではなく、夏しばらくの間でした。かたまった金を持って帰られるので、その金で家の屋根替えをしられたのを覚えています。僅かのまの糸ひきです。三十日ぐらいであったと思います。帰ると私の飯代を西町に払わねばならず、屋根替えをせねばならず、銀行に家を抵当にして七円の借りがあるので利子を持って行かねばならず、なみ大抵ではありません。清兄さんは一人前仕事ができるようになったら、鹿造さんがつれて帰って紙すきをさしたが月給はくれず、竹兄さんは行き場がしれず、母を助ける子がなかったのです」
 このような貧困のなかにあっても、なおは相変らず矜持の高い廉恥心の強い人であった。政五郎の死後は、ますます、周囲の人たちから軽蔑されたり、非難されたりすることのないように努めた。なおは毎朝、腕白な子供であったりょうとすみをよんで、お父さんが亡くなったのだから、なおさら家のまわりに草をはやさぬようにといいつけ、他人のものは「藁すべ一本」もとるな、ほしいものがあれば買ってやるとさとした。なおにとっては、自分がふしだらな人間や不正直な人間とみられたり、子供たちがうしろ指をさされるような行動をすることは、貧乏より辛いことでさえあった。
 ある時、りょうとすみの姉妹が火遊びをしたので、そのことを組頭から注意されたが、こうしたささいな事件も、廉恥心の強いなおにはひどくこたえたらしく、なおは「組頭はんから呼びつけられるやの、こんな口惜しいことは生まれてからはじめてじゃ、寡婦になっては他も馬鹿にする、情けないことじゃ」といってすすり泣いたという。政五郎の死から、なおが帰神するまでの数年間は、この地方の歴史にとっても画期的な意義をもつ蚕糸業の飛躍的大発展の年であった。一八九一年には生糸産額で一挙に約二倍となり、一八九二年には飛躍的発展の反動でいくらか減退したが、以後急速に増大していった。製糸高も同時に急増し、それとともに機械製糸が圧倒的に多くなる。一八八七(明治二〇)年には、すでに何鹿郡の全製糸高の半分近くが機械製糸であったが、大発展の年一八九一年には機械八七%、座繰九%、手挽四%と機械製糸が完全に他を圧したのである。こうして「細民」が家内工業的に従事する糸ひきは、明治二〇年代の前半で消滅し、なおはもっとも有利な仕事を失った。綾部地方における資本主義経済の本格的な成長を示すこの活況によって、なおは、かえって職を失い困窮を深めたのである。
 綾部の本宮は、商工業・雑業を営むものが約半分、農業を営むものが約半分で、両方を兼ねる住民の多い地域であった。平均耕作面積はきわめて少なく、耕地の大部分が有力商人をかねた寄生地主の所有であった。このような地帯に、重い租税と蚕糸業の発展を軸とする商品経済の嵐がおしよせてくるならば、周辺の農村部は養蚕の発展によって一応うるおいはする。また、有力商人は蚕糸業の発展を背景にして繁栄する。しかし、土地も、有利な仕事も持たぬ小都市の貧民はますます窮乏してゆくことになる。日本における最初の資本主義的恐慌の年、一八九〇年の上掲の綾部町の困窮者数(「本年九月十月ニ至リ生活ニ差支一時部落ニ於テ助力ヲ与エザルヲ得ザル見込ノ者」)の表をみると、本宮村が圧倒的に多いことがわかる。なおの一家もそのなかにふくまれていたであろう。この表は、資本主義経済の発展が半農半商工業的な地方小都市の貧民に与えた深刻な影響を、端的に物語っている。こうした貧窮こそ「人が死のうが倒けようがわれさえよけりゃ構わん」といわれる状況をかもしだした最大の原因であった。綾部だけでなく、明治一〇年代の末から二〇年代のはじめにかけての時期に、膨大な窮民の群が各地に形成され、これらの人々はいわゆる「下層社会」をつくり、大都市に流入した窮民はスラム街をつくった。一見はなやかにみえる資本主義社会の形成過程も、その犠牲となった下層民衆の立場からみればこのようなものであり、こういう最下層の民衆の苦悩のなかから生まれた筆先に資本主義社会の発展と結びついたさまざまの害悪にたいしてはげしい批判がおこなわれているのは当然であった。

〔写真〕
○西福院(綾部市上野町) p73
○二代すみ子の「つきぬおもいで」の草稿 p74
〔図表〕
○1890年における綾部町の困窮者 p76
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