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文献名1出口王仁三郎全集 第1巻 皇道編
文献名2第6篇 愛善の真意義よみ(新仮名遣い)
文献名3第2章 伊都能売よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
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ページ392 目次メモ
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本文の文字数14365
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本文    (一)

 吾々大本人の唱導する、伊都能売の御魂とは、如何なる神格を具有する神であるかと云ふに、古来仏教家の間に唱へて来た、観昔に等しきものである。神道にては、木の花姫命と称へて居る神の事である。
 観音の性質を調べると、報身の観音あり、法身の観音あり、応身の観音あり、或は蔵通別教の観音あり、円教の観音あり、理想の観音あり、事相の観音あり、分身の観昔あり、本体の観音があつて、その一々の意味が、幾分づゝ違つて居る如くに、木の花姫命の性質又は御活動の点に於ても、幾分の違いがあるのである。
 扨て茲に読明せんとする、観音即木の花姫なる伊都能売神は、右のやうな狭い意味の者では無く、色合の付いた木の花姫でも無い。仏祖の言葉をかりて云へば報、法、応三身一体の観音、即ち木の花姫神であつて、絶対的の一実法如の観音、木の花姫をいふのである。
 木の花姫神は、本有無作の一実体神であつて、決して世界の森羅萬象の存在より推理せる所の、運命上の唯一神論的の神でも無く、又単に自然界の因果律を見て宗教化した、酬因感果上の一神格でも無い。木の花姫神は、無始本有妙覚円満の神であって、天地宇宙に遍満し一切の時、一切の処を悉く照覧する処の神である。仏家の所謂、無所不至の宇宙の一大生命である。大本尊である。然も体の上に於ては、本然として衆生と一如なる神格を有し玉ふ神であって、所謂汎神的一神観上の、或は一神的汎神観上の神格が、即ち伊都能売神で、又の名は木の花姫神、仏称聖観音である。
 信仰の上から見れば、世界一切教化の現象とも云ふべきものは、悉く、観音即木の花姫神の活動であつて、天地八百萬の神も、仏教の諸々の仏も、諸宗教の神々も、世界一切の教典も、一切の教化的人格部ち釈迦も、孔子も、基督も、皆悉く木の花姫神、観音の顕現である。世界一切宗教の本尊神は、悉く木の花姫神 即 観音即伊都能売神の活現であつて、世界を創造せりと云ふ基督教の神や、婆羅門教の大自在天大梵天、ウラル教の盤古神王の如きも、木の花姫神即観音の一顕現として見らるゝのである。厳の御魂、瑞の御魂の神も、亦た伊都能売神の分身的活現であります。
(大正一五、七号 神の国)

   (二)

 伊都能売神は慈愛の本源であつて、如何なる罪悪者をも救済して、一人も漏さない絶対無限の慈悲の神である。精神界は勿論、現界に於ける人間一切の苦悩を払ひ清めて、天国に導き玉ふ愛善神であつて、その愛善たるや絶対無限である。故に既成宗教の唱ふる如き、審判的思想は全然無いのである。善悪を超越し且つ審判思想を打破する、大愛大善大慈悲神であつて、一人と雖も蒼生の滅亡するのを忍ぶことの出来ぬ愛の生神である。而して霊肉の調和に就ても、難行苦行の修行を経過せず、信仰と歓喜との内に実現せしめんとする、真の絶対愛に住する神である。
 悪人を悪人として罰し、善人を善人として賞するは、是現実界即ち自然界の人為的法則であつて、愛善そのものとは非常に遠いものである。罪悪に苦しみ、痛み、憂苦に沈んでゐる蒼生は、宜しく大本大神即伊都能売の神を信仰すれば、優窕しき慈顔を向け、温かき御手に、罪を負つて救つて呉れる神である、
 伊都能売神はまた智慧の源泉であるから.人々が悔悟して此の神を念願し、至誠心よりの信仰が、胸中に紅潮して来たなれば、如何なる愚痴の涯境も、転じて聖智聖慧に到逹せしめ、転迷悔悟の花の光明を授けたまふ、大智の神である。吾人蒼生の信仰心も、要するに伊都能売神の本智本能の廻向である。
 又伊都能売は勇猛なる道義の本源であつて、精神上は勿論、現界の諸種の戦争の中に於ても、如何なる震天動地の畏怖の中に於ても、此の神を信念する力に依つて、悠然として、其の苦しき境涯を脱せしめ玉ふ、大威力神である。即ち心内心外の怨敵と雖も、悉く断滅せしめ、安心立命せしむる大勇猛神である。
 王仁が先年自晋太拉に於ける、銃殺場に曳き出だされたる時、泰然自若として少しも怖畏せざりしも、又伊都能売の神の守りである。
 光明遍照十方世界の神徳完全に備はりて、斯謂真如の日月にましまし、至大無外、至小無内、若無所在、若無不所在、無遠近無大小、無広狭無明暗、過現未の三世を通じて守り賜はぬは無く、透見したまはざるはなき独一真神である。一名天之御中主神と称ヘ奉り、天地創造の大元霊神であつて、天地修斎の為に人体と現じ、爰に萬世不動の松の神代を創立し、蒼生を安養浄土に救ひ玉ふ神である。
 伊都能売神は、吾人と如何なる関係にあるかと云ふに、凡てのものゝ真実の父母である。本有無作、宇宙普遍、応現自在にして、其体に於て其神性に於て、吾人々類と寸毫も差のなき所の本体である。伊都能売神と人類その他一切は一如であり、二而不二である。相用上から見れば差違はあるが、而も絶対不離の関係であつて、宗教上から云ふなれば、親子の間柄である。
 斯の天地宇宙は、伊都能売神が活動の舞台であつて、一切の蒼生、一切の萬物は、この智慧の本体、慈悲の本体、道義の本体なる、この神の生域化育し玉ふ所である。
 伊都能売神は、その大清浄の大願力の上に、暉き来れる神であると共に、宇宙開発進化の大根源である。伊都能売神は、仏者の所謂観音と同一神であつて、又の御名を木の花姫神と称え奉つてゐる。
 荘厳経に曰く、観自在菩薩は、其の眼中より日月を出し、額中より大自在天を出し、肩より梵天王を出し、心より邦羅延天を出し、身より弁財天を出し、口より風天を出し、臍より地天を出し、股より水天を出し、観自在身斯の如きの諸天を出すと。かく神話的に説かれてあるのを見ても、観音即伊都能売神の神格は、推知されるのである。又観音は虚室大身大地を以て座となし、境涯及び有情皆之より出でざるは無しとある。要するに天地宇宙一切が、観音即伊都能売の活顕であつて、一として斯の神の圏内を脱しては、存在するものでない事を現はしてゐる。
 実に吾々人類は、伊都能売神の天地に生活し、長養せられつゝあるのである。又伊都能売神は、吾人精神界の大地であつて、吾々はこの大地を離れては、一刻も安住することの出来ない、活ける一箇の常磐木である菩提樹である。
 又伊都能売は、宇宙精神界の太陽である。光明遍照十方世界の神徳に浴さずには、一時間と雖も存在する事の出来ぬ菩提樹である。又宇宙の大能力であり、無量無凝の慈悲、愛善、智慧、証覚、道義の大円霊体であつて、この大円霊体こそ、吾々人類の真の親である事は当然である。
 某々宗教の所談の如く、一切の衆生なるものは、神の命令に由りて、忽然として創造されしもので無くして、凡ては皆斯の、伊都能売神の懐から出生したもので、木の花姫そのものゝ顕現である。即ち一体不二、親子の関係を保つて居る。
 観音経にある五観五音なるものは、一切衆生と親子一如の意義を表現するもので、五音とは、妙音、観世音、梵音、海潮音、勝彼世間音のことであり、五観とは真観、清浄観、広大智慧観、悲観慈観のことである、
 今之を神道の神名に対照すれば、

   五音

          妙音     市杵嶋姫命
          観世音    木花咲耶姫命
観音        梵音     多紀理姫命    瑞の御魂
即 木の花姫神   海潮音    玉依姫命
一名 伊都能売神  勝波世間音  多紀津姫命

   五観

   豊   国常立尊    天神の祖
豊受大神                   厳の御魂
   受   天照大神    地神の祖

      真観     正哉我勝々速日天忍穂耳命
厳之御魂  清浄観    天之菩日命
      広大智慧観  天忍穂耳命
      悲観     天津彦根命
      慈観     活津彦根命

 厳の御魂五柱、瑞の御魂三柱(又は五柱)活動力を総称して、伊都能売の御魂と奉称するのである。而して伊都能売は即ち、観音にして木の花姫の顕現である。天地宇宙の間に、斯の神より外に何ものも無いと云つても良い位である。或る時は天神となり、地神と現じ、八百萬の天使と変じ、千変萬化五六七の活動を為し玉ひ、宇内を光被し、開発し、整理し、天国霊国に日月神と化現し玉ふは、皆伊都能売神の大神格の活動である。
(大正一五、九号 神の国)

   (三)

『神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の司宰者なり。神人合一して茲に無限の権威を発揮す』とは、是れ真如が入道の最初に当り、伊都能売聖霊より教示されたる大本の標語である。
 抑も人間の身心は、神の分体分霊であつて、実に大切なもので、且つ大責任と大使命を有する霊物である。故に苟くも大本信者たるものは、吾人の本体たる伊都能売の神を本尊としてゐるのである。否大本信者に限らず、凡ての神道信者も、仏教信者も、基督信者其の他の宗教信者と未信者を問はず総て自己の本霊本体なる、伊都能売の神の縁に継がれて居るのである。
 称号は阿弥陀仏、観音仏、大日如来、釈迦、基督などと種々に区別はあれども、畢竟するに伊都能売の神の別称である。
 伊都能売の神は、一切の衆生を自己の神格に合致させねば止まぬと云ふ、大慈悲心を以て、天地開闢久遠の昔から大救済運動を起し、瞬時と雖も、休止し玉ふた事は無いのである。斯の如き大御親心を本尊とする各宗教徒や、人類は、単に未来の楽土を欣求するとか、天国の住民たる事を祈願するとか、又は物質上の利益に預るとか云ふやうな事を目的として、尊敬礼拝するなどは、決して伊都能売神子たる人類の本分では無いのである。
 真の忠臣、真の孝子は、飽く迄も君のため、親の為に忠孝を竭すのであつて、決して自己の名誉や利益を目的として、忠孝を励むのではない。身体髪膚これを天地の神明に受け、父母に養はる、敢て毀傷せざるは孝の始め。と云つた聖者もある。この二種の親々の名を汚さぬ様に気を注けるのは、神子の本分であらねばならぬ。利益や報酬を目的として孝行すると云ふのは、真の孝行では無い。斯の如き心事でおれば、一歩誤つた時は、忽ち大不孝者に成つて了ふ。
 又忠臣は其の君の為に身命を犠牲に供し、屍を原野に晒すとも、決して悔ゆる事は無い。名誉や勲功の如きは、素より微塵も眼中に無いのである。自分の身を尊重するのも、皆君主の為にするのである。世の中には功名手柄の為に、或は勲章や恩給を目的にして、忠勤を励む者もあるであらうが、それは真の忠臣、真の愛国者では無い。自分の体は自分の体とせず、主君の体として、一挙手一投足疎かにせないのが真の忠臣である。
 苟くもこの大慈悲、大智慧、大能力、大道義の大元霊たる、観音即ち伊都能売の神を信じ、且つ其の神子たることを信ずる信徒は、本尊神の心を何て心と為なければならぬ。
 要するに人間は何所までも、伊都能売の神と成らねばならぬのである。この神と一体不離にして、初めて茲に親子一如たる、活きたる大信念を具体化せなければならぬ。是が大本信徒の真の大目的大修行である。大本信徒の処生法、大本教徒の覚悟、大本教徒が生活の理想である。(大正一五、一〇号、神の国)

   (四)

 全体、神が地上に、宗教を樹立し玉ふたのは、死せるが如き人生を憐んで、溌溂たる生気を賦与せんが為に、慈悲の御心より湧出したもので、恰も水気の失せた人生に、瑞気を与ふる霊の水を灌ぎ、復活せしめんとして、天極至微宮より法爾として降し玉ふたものである。罪悪の淵に沈淪し、五欲の痛手に煩悶苦悩する所の、人生を救ひ浄め、種々雑多の境遇から、悲惨の幕に包まれて居る可憐の衆生を撫恤り且つ慰め激励して、一大光明界に向上安住せしめんために、神々の久遠劫来からの御経綸である。神の無限無極の大慈悲より、湧発せられたものである。さすれば宗教なるものは、人事と決して没交渉なる無用の長物でも、玩弄物でもないのみならず、実に宗教は人生の光明であり、人生の生命であり、人生活動の大原動力である。
 昔の印度の婆羅門教が、儀式や呪詛や苦業一遍に流れ、且つ一方には哲学の如くになつて、煩瑣的研究に流れて了ひ、人生の活問題とは何等の接触もなく、婆羅門は実にお祭りの役人の様なものになり、全然宗教的生命を失つて了つた時に、仏陀の実際的、実力的宗教は起つたのである。この事を思ひ起す度毎に、今日の日本宗教の中に、特に真言、天台或は神道宗教等の中に於て、煩雑極まる儀式や、理由の分らぬ呪文を空誦したり、又訓詁的注釈や、古めかしい研究に囚はれて居るものが極めて多いが、実に歯痒き次第である。一日も早く此の種の外道が現社会より亡失しなくては、いつまでも世は妖邪の気に包まれ、衆生は迷朦の淵に沈淪し煩悶せなくてはならないのである。
 大八洲彦命の化身なる釈迦は、その時に於て衆生済度のために、極めて清新なる直載的なる宗教を開始したのであつた。その絶大無遍なる如来的、神的人格に依つて、先づ印度の民衆を、新しき活きたる仏教に風靡せしめた。これが為に当時の印度人は真の生命を得、現身が光明中に常住するの世界に復活し、悦楽したのである。
 然るに仏滅後爰に二千五百年、仏の説いた実際的宗教は、徒に戒律主義や学問的に流れて了ひ、その涅槃観の如きも、厭身滅智の外道的邪見に堕落し、貴重なる人生を空しく終り、人事を厭忌し始めたのである。
 そこで諸法実相、人事即仏法の大楽天主義の大乗仏教が、漸く興隆し始めたのである。法華経、勝鬘経、唯摩経、観音経などを見ても、驚く斗りに、其教理を説いてゐるのである。この目的は人事一切の行事を挙げて仏事となさんが為に起つたものである。
 抑も宗教なるものは、一切の人事を理想化し、清浄化し、天国化し、一人一家、一国世界全体を向上せしめ、安穏ならしめ、強盛ならしむ可きもので無くてはならぬのである。もし宗教にして、右の主旨に反するならば、何程その教理が深遠でも、高妙でも、約まり無宗教も同然である。所謂無用の長物、害世の醜教となつて了ふのである。
 そこで昔の高僧は、娑婆一日の化益は、未来永劫の極楽に勝ると云つたが、世に面白い観察であると思ふ。宗教は飽くまでも人生活動の源泉となり、生命となり、活力となるものでなくてはならぬ。故に宗教の信者は、この信念を覚悟とを以て宗教を味ひ、これを人生行動の生命と為さなければならぬ。
 彼の釈迦が八万四千の法門を開顕したのも、畢竟ずるに人生を向上せしめ、清浄ならしめ、安息活躍せしめて光明世界に導き、健全活発なる理想の天国を建設せんが為であつた。現代の宗教の堕落を救ひ、人生をして楽天、向上、清潔、統一主義実行の大理想国に進展せんが為に、天祖神明の勅を奉じて伊都能売の神と現じ、三五の真教を開始された所以である。
 伊都能売の神即観音の救世の目的は、昔は釈迦に依つて現はれ、今日は厳瑞二霊の慈願に依つて顕はれたものである。三十三身の応現の大主意は、全く人生救済の目的に外ならないのである。神と現じ、仏と顕はれ、基督となりて、茲に伊都能売の神は、渾身世界衆生の救済に思念を摧ひて居らるるのである。
 今この三十三身応現の大御心を少しく述ぶるならば、即ち伊都能売の神即観音が久遠の太古から、三毒の中に沈溺してゐる所の一切の衆生を救はんが為に、一大悲願力を奮ひ起し、常住妙楽の霊界を出でて此の地上に来り万有を救助し活躍せしめんとしたまふ大御心に原いて、茲に前代未聞の神教三五教を開顕し玉ふたのであつた。大本経緯の神書は、皆是れ伊都能売神の御聖慮に出でて成りたるもので、末代不朽の神宝であり、如意宝珠である。世の救ひの綱であるのである。
(大正一五、一二号 神の国)

   (五)

 伊都能売主義は真の救世主義であつて、観音の三十三身応現の大精神、弥勒の五十六億七千万変化の世相である。神は常住妙楽の天国浄土に親臨し玉ふのみを以て足れりと為し玉はず、大慈大愛の大御心を以て、斯現実世界に予言者を降し、その御代身として是に内流し、地上に天国を樹立せんため千座の置戸を負はしめ、以て犠牲的活動を為し玉ふのであります。復蒼生の苦痛や煩悶を以て伊都能売神自身の苦悩と観じ、以て蒼生の苦に代り、解脱の生命と幸福と平和を与えんが為に、厳瑞二霊を通じて、現幽両界に千変万化の活動を開始し玉ふのであります。是れ即ち三十三身応現の主義であり、五六七の活動であります。観音経には慈眼衆生を臠し、福寿の海無量なりと出てゐる意味を考へ見れば、更に救世主義の意味が、明白になるのであります。
 伊都能売神の救世の主義は、第一に慈眼我が身を反省して、罪悪の淵に自身を沈没せしめぬ事。次には慈眼我が一家を顧みて、以て常に平和と幸福を増進せしむる事、次には慈眼我が一国を愛して、国利民福の大精神を発揮し実行せしむる事、次には慈眼宇宙人類を愛善して、内外東西洋の別無く、福利せしめんとするの大精神を発揮する事、次には慈眼一切の蒼生万類を見て、現世の汚濁を脱却せしめ永遠無窮に大光明界に入らしめ玉ふ事、次には天神の愛善と信真とを理解せしめて、不老不死なる天国又は霊国に安住し復活せんと焦慮する事であつて、是即ち慈眼衆生を臠す所以のものであつて、この心を体得し得念した上は、人生は実に実に福寿無量にして、歓喜悦楽の妙境に安住し得るものであります。  伊都能売主義なるものは、要するに人生即ち現実の世界を、中心として教ゆる所の神教であつて、この現世に即して永遠無世の天国生活の真諦を味はしむるもので、幽玄微妙不可言なる真理に住する秘奥を、現生命に即して、永遠の真生命を実得せしむる聖教である。飽くまでも現世をして、妙楽の光明世界と為すの大楽天主義であつて、厭世的隠遁的趣味は、伊都能売主義には断じて絶無なのであります。
 観音経の『光明普く世界を照らし、慈眼衆生を臠して、化益一機を漏すこと無し』とあるは、是即ち伊都能売主義にして、この信仰は非常なる楽天主義で、観音即伊都能売神の眼底は実に光明ばかりで、一箇の地獄的思想も包んで居ない。復この教義には、恐ろしいとか、厭ふべき事とか、忌はしきものは、寸毫も包含してゐないのである。他の既成宗教には実に厭ふべき一種の脅嚇があり、方便があり虚構があり、誘惑的言句が現はれてゐる。佛教、耶蘇教などは、勿論脅嚇宗教と言つても敢て過言では無いと思ふ。今日までの宗教は総て人間を恐怖せしめ、至粹至醉なる天成の大和魂を軟化し、立派なる男子の睾丸を抜取し、女子を罪穢の権化の如く蔑視し、人間の勇猛心を挫折せしめ、弱国弱兵の原動力となつたもの許りである。
 然るに伊都能売信仰に於ては、現幽共に大光明境に住し、化益一機を漏らすこと無く、触るる所往く所、見る所聞く所、一切悉皆伊都能売神の法悦と、救ひの網の中に摂り収めて了ふと云ふ、真の信仰であるが故に、楽天であり大安心であり、憂苦する所無く恐怖する所無く、愛善の徳と信真の光に依つて、固められたる難攻不落の堅城鉄壁であり、人生一切の後盾であり、現界に坐ながらにして一大光明世界に化住する真の救世教である。
(昭和二、一号 神の国)

   (六)

伊都能売のまことの神は人々の罪あやまちを審き玉はず
千早ふる神の仕組は人皆を天津神国に導かんため
よきを褒めあしきを罪する神ならばまことの愛の神におはさず
今迄の神や仏の御教へは人の心に出でし枉言
世の中のすべての人をおびやかし醜の曲人道をひろめぬ
皇神は愛の善徳にましませば罪ある人も憎み玉はず
人の罪憎ませ玉ふことあらばまことの愛の神にはあらじ
人は皆霊肉脱離の其後に天津神国にゆくものぞかし
草も木も天に向つて延びる如人の霊魂も天国に行く
わくらはに根底の国にゆく魂は神を背にせし報ひなりけり
ことさらに神は地獄はつくらねどおのが造りておのが行くなり
愛善の徳に充ちたる魂なれば皆天国に籍を置くなり
真信の光りに住める魂なれば死後霊国のエンゼルとなる
悪と虚偽好む霊魂は忽ちに地獄つくりてひとり落ちゆく
皇神は人を地獄に落さじと貴の教をひらき玉ひぬ
今の世の神の取次僧侶は此の世ながらに地獄に籍置く
地獄てふ醜めき国は僧侶や醜の神司の常住の宿
今の世の神の取次僧侶は天国地獄のあるさへ知らず
人の世の悲哀の極み待ちくらす醜僧侶の心きたなき
み仏の法を伝ふる道忘れさかしま事を待つ坊主かな
人の世は死ぬにましたる憂ひなしともらひのみ待つ坊主のきたなさ
今の世の坊主の所作は俗人にまさりて醜のわざのみぞする
末法の世の有様は目のあたり親子訴訟の生仏見れば
今の世の神の取次おほかたは皆枉神の権化なりけり
偽りの神の教は人々の恋てふものを罪とするなり
神を恋ひ人を恋ふるは惟神神の授けし心なりけり
世の中に恋てふものを捨て去れば人は岩木と変らざるらん
人の世に恋てふもののあればこそ世はおだやかに進みゆくなり
鳥獣虫けらまでも惟神恋を語らぬものは世になし
鳥唄ひ蝶舞ひ虫の諸声も恋てふもののあらはれなりけり
偽りをつきかためたる曲法は恋をきたなきものと云ふなり
人々の心の陽気ふき払ひ陰気に沈むる醜の曲法
国人の日本魂ぬきとりて骨なしにする既成宗教
男の子てふものの勇気を抜き去りて骨無しとする蛸坊主かな
極楽へ導くといふ僧侶が地獄つくりて父子訴訟する
久方の雲に聳ゆる大伽藍建てて火の海降らす宗教
おのが身の仕末に困る坊主らが導き得べきいかで浄土へ
凡俗も今の坊主の醜業を見て鼻つまみせぬものはなし
銅臭の嗅々匂ひ鼻もちのならぬ曲津は糞坊主かな
観音も阿弥陀も釈迦もそつちのけ媽は観音金は弥陀よと
金やれば阿弥陀如来にいやまして醜人までも拝む僧かな
宗教の名のみ残りて今の世は狸坊主や狐の取次
虎よりも狼よりも恐ろしき曲鬼と云へば糞坊主なる
キリストを表にかざし信徒の懐ねらふ醜の牧師等
釈迦阿弥陀真向にかざして糞坊主高野の中まで汚しけるかな
鐘叩き拍子木を打ち経を読む八人芸の狸坊主め
若後家の家をめがけて蛸坊主いとながながと経を読むかな
宗教はすべてを支配するものを俗吏に監督さるるはかなさ
教育や政治芸術一切を指導するこそ真の宗教
今の世は真の宗教滅び失せ死神死仏の教へはびこる
(昭和二年一月二十七日 昭和二、二号 神の国)

   (七)

信教の真の自由は伊都能売の教をおきて他に自由なし
ヤレ五戒ヤレ十戒と六つかしく人の心を縛る曲教
何一つ滞りなく信仰に生くるは伊都能売おしへなりけり
いづのめの神の仰せは人類に差別をつけぬ教なりけり
バタ臭きミルクの世をば立かへて弥勒世立つる伊都能売の教
天地を包むむら雲掻き別けて世を澄み渡す伊都能売の神
三千年を忍びたまひし親神の光りは茲に伊都能売の神
厳と瑞陰と陽との神徳を世に照らします伊都能売の神
伊都能売の神の心は人皆を神国に渡し玉ふにありけり
一脈の清き流れを注ぎつつ世を洗ひます伊都能売の神
水濁り塵にまぶるる浪花潟よしもあしきも澄ます伊都能売
諸々の鬼の昼行く末の世を神世に救ふ伊都能売の神
利に走り名にあこがれて諸人の荒ぶ暗世を照らす伊都能売
世を挙げて利己一偏に傾むける汚濁を救ひ洗ふ伊都能売
千万の苦しみ重ねて胆気練り世にあらはれし伊都能売の神
愛の善信の真をば培へと教へ開きし伊都能売の神
一管の筆に曲津の牙城をば摧きたまひし伊都能売の神
伊都能売の高き光りは天地の暗を照らして道を明けたり
いづのめの神の任しのこの教は常夜を照らす光りなりけり
鬼大蛇虎狼も何かあらん伊都能売の神守る身なれば
千歳経し松の根本に伊都能売の清き神姿現れましにけり
千万のなやみをうけて現世に伊都能売神の功尊とし
打ち仰ぐ高き岩根に座をしめて慈眼清けく照らす伊都能売
瑞々し伊都能売神の御姿おろがみまつりて涙こぼしぬ
千年の昔を語る銀杏と共に名高き伊都能売の像
山は裂け海あする共伊都能売の神ゐます限り此の世は失せじ
大空の月の姿を地の上にあらはし玉ひし伊都能売の神
釈迦となりキリストとなり木の花の姫とあれます伊都能売の神
厳瑞の貴の誓約に現れましし五男三女は伊都能売の神
現し世の肉の宮居に天降りして世を澄み渡す伊都能売の神
伊都能売の神の慈顔を拝す時心の岩戸あけ渡りゆく
限り知らぬ億万劫の昔より世を守らせし伊都能売の神
地の上の青人草を隔てなく慈光に包む伊都能売の神
諸人の清き心にうつろひて身を照らします伊都能売の神
限り無く清き貴き御霊は伊都能売の神措きて他に無し
三五の御教をあまねく地の上に照らし玉ひし伊都能売の神
天教の山に清けく天降りして木の花姫と現れし伊都能売
春霞棚引き初めし心地かな木の花咲耶姫の御前は
非時に花咲き匂ふ心地すれ伊都能売神に守らるる身は
千年の松の木陰に永久に鎮まりゐます伊都能売の神
千年の齢寿き舞ひ降る鶴亀山にゐます伊都能売
芳ばしき薫り御身より伊都能売の御顔の親しくもあるかな
風猛り雨降り荒ぶ真夜中も人の詣ずる伊都能売の神
風早の亀山高台に永久に慈眼輝く伊都能売の神
高熊の山に憂き世を歎きてし霊にかかりて伊都能売の神
予言者に万のなやみ与えつつ霊を鍛へし伊都能売の神
神柱あまねく地上にまくばりて世を清めます伊都能売の神
人の世にあまねく自由を与へんと心をくだかす伊都能売の神
光り暗行き交ふ憂き世の有様に慈眼射照らす伊都能売の神
神となり仏ともなり鬼となり世を活かしゆく伊都能売の神
村雲の天地を包む世の中を祓ひ清むる伊都能売の神
地の上に生ふる人皆もらさじと救ひの綱をのぶる伊都能売
伊都能売が三十三相に身を変じみろくの御世を開かせ玉ひぬ
神によし仏にもよし伊都能売の神の慈顔の類ひなければ
伊都能売の神の御前にある時は春の弥生の心地こそすれ
伊都能売の神の恵みをまつぶさに説きさとしゆく三五の道
神柱綾の高天原にいでしより世に輝きし伊都能売の神
須弥山の山の尾の上に立ち玉ひ宇宙を統ぶる伊都能売の神
天照皇大神の本体は瑞伊都能売の神にましけり
八百万神ゐませども伊都能売の神の分ちし霊魂なりけり
春の花秋の錦も伊都能売の神の織ります御機なりけり
大空に澄みきる望の月見れば仰がるるかな伊都能売の神
日の御神東の空に伊都能売の光りは神の姿なりけり
穴かしこ穴太の寺にあれませる聖観音は伊都能売の神
村肝の心の暗も晴れにけり世に伊都能売の神に詣でて
弥勒と云ひキリストと云ふも伊都能売の御働きの一つなりけり
伊都能売の神の御稜威は天地の百々の神達統べ守るなり
(昭和二、三号 神の国)

   八

伊都能売の神のこの世に居まさずば花咲く春も淋しかるらむ
冬の雪木枯さへも笑顔して松下にゐます伊都能売の神
大空を翔け行く鳥も憚るか伊都能売居ます辺り通はず
国人の身よ永久に安かれと雪の蒙古に伊都能売の魂
住み馴れし国の妻子や教え子に心残して伊都能売の魂
千早振神代も聞かぬ壮挙をばなして世人を救ふ伊都能売
海山を諸々越しの雪の空に伊都能売の神世を救ふため
機関銃前に立ちつつ悠然と御代を祈りし伊都能売の魂
数万騎の敵の陣屋へ只一騎進み伊都能売神ぞ雄々しき
打ちねらふ機関銃さへ毀れたる伊都能力の雄々しかりける
万民の悩み苦しみ身に負ひて笑ませ玉へる伊都能売の神
春来れば花と現れまし秋されば紅葉と照ります伊都能売の神
伊都能売の神の御出まし無かりせば弥生の春の花も咲かまじ
末の世の艮めの神と伊都能売の神の綾威も高し綾部花明山
地の上の高天原に伊都能売の神の光の普き御代かな
経緯の魂を合はせて伊都能売のいさほは高し桶伏の山
伊都能売の神の御魂のいさほしは外国までも照り渡るかな
かりごもの乱れたる世に伊都能売の柱とあれし魂ぞたふとき
天は裂け地はやぶるとも伊都能売の坐ます限りは心やすけし
いたづきて枕苦しき真夜中に心に浮かぶ伊都能売の神
伊都能売の神の御身は神直霊大直霊なる御魂なりけり
三柱の女神と男神五ツ柱月日の誓約に伊都能売の魂
敷島の道辿る身は伊都能売の神にし祈らば詠歌安けし
月もなく星も隠るる闇の夜も道を明かして伊都能売の神
百種のしいたげ悩みうけ乍ら真道拡むる伊都能売の魂
暗の世を厳の伊吹に清めんと天降り玉ひし伊都能売の神
地の上に所を得ざる人々の無きまで教を伊都能売の神
天も地も凡ての物は伊都能売の神のちからに依らざるば無し
現身を下津岩根に降しつつ世を救ひ行く伊都能売の神
雨となり霰とも降り雪と化し御代を清むる伊都能売の神
天地に伊都能売の神ゐまさずば世は永久に闇となるべし
西東神都を遠く天かけり国かけりつつ教ふ伊都能売
三界の神の主と現れまして森羅万象活かす伊都能売
遠近の貴の聖地を定めつつ御代を守らす伊都能売の神
伊都能売の神のいさほは天地の神と人とに生命賜ひぬ
ある時は人と現れまし或る時は曲と化ります伊都能売の神
世の中の百の出来事おしなべて伊都能売の神の守らぬは無し
上下の差別も付けず平等に世を救ひます伊都能売の神
地の上に建てる宗教悉く伊都能売の神守りますかも
山川も百も樹草も禽獣も恵みに浴せる伊都能売の神
肉体のなやみは更なりたましいのいたづき癒し玉ふ伊都能売
宗教や政治文学芸術に産業幸ふ伊都能売の神
天震ひ地は鳴り響く災厄も只一声に止むる伊都能売
渇きたる教に真清水あたへつつ死神死仏を生かす伊都能売
国は富み世人栄ゆる神の代を開かせ玉ふは伊都能売の神
伊都能売の神の出でまし寿ぎてあなたこなたに万年青はやれる
天も地も皆伊都能売のいさほしに安く治まる御代近づきぬ
もろもろの聖の教は多けれど伊都能売教に優れるは無し
うつし世は言ふも畏し幽り世も守らせ玉ふ伊都能売の神
白妙の衣の袖は濡れにけり伊都能売の神の貴の慈眼に
地の上のあらむ限りの生き物を子とし恵ます伊都能売の神
釈迦孔子も其の他の聖も伊都能売の神のいさほの分れなりけり
広き世に広き教を開きつつ狭き宗教を糺す伊都能売
山川もなびき伏すらん伊都能売の神の表に出でます御代は
人皆の心の塵を伊都能売の神の伊吹に掃ふ御代かな
世の中の柱ともなり塩となり花ともなりて伊都能売の神
乱れたる世を正さんと伊都能売の神は御空ゆ下り玉へり
キリストの再臨弥勒の下生とは伊都能売の神の顕現なりけり
ないぶるの強き猛びも伊都能売をまつる聖地は心安けし
村肝の心も空も晴れにけり伊都能売神の聖姿拝みて
鳥唄ひ蝶舞ふ春の長閑さも伊都能売神の手振りなりけり
万木の花に魁け咲き匂ふ梅は伊都能売神の御姿
八百万神の宰と現れませし伊都能売御魂は大本の神
天地のまことの親を尋ぬれば世に伊都能売の神にましけり
伊都能売の神の恵みを白雲の外国までも開く大本
(昭和二、四号 神の国)

   (九)

真善美愛の極致は伊都能売の厳の御霊の鏡なりけり
愛善の神徳充たし信真の光り遍ねき伊都能売神
久方の天津御空に照る月は伊都能売神の瞳なりけり
和田の原千尋の底も伊都能売の神の恵みの至らぬ隈なし
全宇宙守らせ玉ふ御光りは伊都能売神の御眼の輝き
春秋の移り変りも伊都能売の神の力の現はれなりけり
天も地もみな伊都能売の大神の御懐にありとこそ知れ
不老不死尽きぬ命を賜ひたる誠の親は伊都能売の神
伊都能売の神のでぐちの御教は此の世を渡す神船なりけり
久方の天王平の奥津城に鎮まり給ふ伊都能売の霊
もろもろの艱み一度に来るとも伊都能売ゐませば如何で恐れん
光り暗善事曲事行き交る世を守ります伊都能売の神
魂きはる人の命の源となり出でませる伊都能売神
伊都能売の伊都の御霊のゐます限り現し世幽世亡ぶことなし
地の上に生ひ立つ人の悉はみな伊都能売の御息より生る
春の花秋の紅葉も伊都能売の神の織ります御機なりけり
天高く大地は広く海清く守りますかも伊都能売の神
鬼大蛇醜の曲霊の猛びをも掃はせ玉ふ伊都能売神
朝夕の命の糧も伊都能売の神のなさけの御賜物なり
目はよく見口は物云ひ鼻は嗅ぎ耳聞ゆるも伊都能売の徳
災ひの多き此世に安々と人の生くるも伊都能売の徳
伊都能売の神の守りに外れたる物は天地に一物もなし
大空を自由にかける百鳥も伊都能売神の守りなりけり
大宇宙森羅万象ことごとく抱き守らす伊都能売の神
伊都能売の神の恵を知らずして世を渡り行く人の哀れさ
うつそ身の死れる後も伊都能売の神に抱かれ生き通すなり
幾万劫遠き昔の神代より黙して守る伊都能売神
無始無終無限の宇宙も伊都能売の神の守りに開け行くなり
我魂の真の親は天地をうしはぎゐます伊都能売神
鳥獣虫けらの端にいたるまで洩らさで守る伊都能売神
国と人種々変はれど伊都能売の神の守りに差別なきかな
霊幸ふ伊都能売神の御息に森羅万象栄え行くなり
伊都能売神の御教にまつろひて世に栄え行く人ぞ賢き
数万年歴史に記せる出来事も伊都能売神の仕組なりけり
天地の雲を払ひて伊都能売の光り輝やく時は来たれり
釈迦孔子や基督となり地の上に現はれませし伊都能売の神
大空の海の底ひも隔てなく厚く守らす伊都能売神
世の中のすべての物は伊都能売の神の恵みに洩れたるはなし
月を踏み星をいただき百姓の野に安けきも伊都能売の徳
三界の導師となりて地に降り世人教ふる伊都能売の神
人の世の隙間を覗ふ死の神も恐ぢて逃げ行く伊都能売の神
もろもろの死神死仏に生命を与へて活かす伊都能売の神
伊都能売の神の守りの無かりせば人は此世に生きん術なし
雨となり雪霜となり風となり世をうるほはす伊都能売の神
神霊魂伊都の千別に千別きまし物皆活かす伊都能売の神
一投手一投足の働きも伊都能売神の守りなりけり
言霊の天照り生くる神国は伊都能売神の宝座なりけり
八百万神は座せども伊都能売の真の神の御使なりけり
天清く山野は青く永久に栄ゆる御代は伊都能売の徳
やがて今伊都能売神の顕現に眼を覚ますらん四方の国人
日の守り夜の守りと人みなを育くみ玉ふ伊都能売神
天国に日の神となり霊国に月と輝やく伊都能売神
探女醜女影失せにけり伊都能売の此世に近く降ります世は
神殿を取りこぼちたる曲神も笑みてとがめぬ伊都能売神
蓮華台千代の乳房と定めつつ世人を恵ます伊都能売神
ヨルダンの清き流れの瀬々らぎは伊都能売の神の御息なるらん
踏まれても失せずほほ笑む草花は伊都能売神の露に咲くなり
伊都能売の恵みの露を受け乍ら露白雲の魂ぞうたてき
繰り返し繰り返し見よ伊都能売の厳の御教を記されし書
野も山も大海原もおしなべて厳の御魂の光り輝やく
現身は朝日に露と消ゆるとも魂を永久に活かす伊都能売
天国も中有界も根底国も皆一様に照らす伊都能売
須弥山の山に腰掛け永久に天地六合守る伊都能売
春の野に若菜を摘める乙女子の袖にも薫る伊都能売神
(昭和二、四、二一夜 昭和二、五号 神の国)

   厳霊瑞霊

 『天主一霊四魂を以て心を作り、之を活物に賦与す、地主三元八力を以て体を作り、之を万物に与ふ。故に其の霊を守るものは其の体、其の体を守るものは其の霊なり、他神有りて之を守るに非ず。是れ即ち上帝の命、永遠不易』とは道の大原の教ふるところにして、又大本の霊学観なり。而して一霊とは直霊なり。四魂とは、荒魂、和魂、奇魂、幸魂なり。荒魂は真勇なり。和魂は真親なり。所謂経魂にして厳魂なれば、一々万々確固不易の霊能あり。奇魂は真智なり。幸魂は真愛なり。所謂緯魂にして瑞魂なり。操縦与奪自在の霊能あり。而して天下一般の活物、皆此の四魂を多少なりとも具備せざるは無し。荒和二魂の活動完全なる霊魂を称して厳の魂と謂ひ、奇幸二魂の活動完全なる霊魂を称して瑞の魂と謂ふ。而して直霊能く四魂を主宰し、完全なる活動を為さしむる場合を称して、伊都能売の霊魂と謂ふ。大本祝詞に曰く『直霊魂をして益々光美はしき伊都能売霊魂と為さしめ玉へ』とあるは、各人四魂を研き、神に等しき活動を為すべき、伊都能売の御魂とならむ事を祈るに在り。然れば厳の御魂は教祖に限定し、瑞の御魂は教主輔に限定せるが如く思考するは、大なる誤解なり。各人皆進んで厳の魂、瑞の魂は愚か、伊都能売御魂の活用が出来る所まで、磨き上げて神業を補佐されむ事を希望する次第なり。
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