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文献名1出口王仁三郎全集 第2巻 宗教・教育編
文献名2【教育編】第1篇 皇道教育よみ(新仮名遣い)
文献名3第3章 日本教育の大本よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考2023/10/06校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-10-06 03:21:19
ページ537 目次メモ
OBC B121802c204
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本文  我大日本帝国教育の大精神は、教育勅語に明にして今更喋々する必要なしと雖、然れ共、之に達する所以の主義方針に至りては、国家も国民も共に慎重に研究せざるべからず。
 近時国民教育に関する諸問題は其声を高め、皮想外形的方面を脱して、漸次内形的方面に向ひつつあるは誠に慶すべき事なれ共、未だ以て我教育の大経大法たる、上は大学より下は小学幼稚園に至る迄、一貫したる根本的主義精神に至りては確立せるものあるを見ず。
 維新の初、遽に教育制度を変改して欧米に模倣し、一も二もなく時々の流行を追ひ、外の新学説といふものに盲従し、一時に外観を糊塗粉飾せるに過ぎざるが如きは何ぞや。之を譬ふれば我国今日の教育事業は、一時応急的普請の工場に幾回となく継ぎ足しに復継ぎ足を重ねたるが如し。大屋小屋雑然として厖大なる一区廓を為せども、本是初より一定せる設計ありて起工せられたるに非ざるが故に、間取の大小天井の高低等種々雑多にして、迂回曲折して急速の用を弁ずるに足らず各室各部の人亦随意に行動し、主脳者ありと雖、之を統一して事業の成る所は甚少く、到底損益相償ふこと能はざると一般なる観なくんばあらざるなり。
 主義精神の確立せざる教育は徒に諸多の科目を設けて子弟の脳髄を苦ましむる事多くして、教育の真効果を得る事甚少し。教育の設備愈々進みて子弟の軽佻浮華愈々加はるは実に当今の教育が諸国流行の寄せ集めにして、最初より確立せる設計に基きて経営せられたるに非ざるに源因せずんばあらず。
 近時学制改革の議、大に世人の注意を惹き起し、諸多の論議陸続として世に出るは喜ぶべき現象たることは勿論なれども、教育の大本たる主義精神の確立するに非ずんば、如何なる良制度も教育の真効果を奏すること能はざるは、従来数回の学制改革の、概皆一時人目を新にしたるのみに過ぎざりしを見ても之を知るべし。吾人の信ずる所によれば、今日に於て須らく先我大日本国教育の大本を確立し、此の国家民人本来の主義精神と一致契合せる設計を確定し、之によりて細大の施設と前後緩急の順序とを整へざるべからず。
 蓋し我が大日本教育の大本を分ちて
  歴史上の基礎
  地理上の基礎
  倫理上の基礎
  国家天職上の基礎
となす。この四者は教育の拠て立つべき所のものなり。一切の施設は此の四脚の上に結合せられて全体の構造を為すべきものなり。品性陶冶も此の結構によりて初めて成し得べし、精神教育も此の結構によりて初めて全かるべし。苟もこの四者を外にせる教育は基礎なき教育なり、架空の教育なり。仮令その枝葉の美観を極むるも、徒に外貌虚飾の教育にして、国家進運の本源として深く望を嘱するに足るべきものに非ざるなり。
 抑々文化の進運は世界各邦の境界を超越して、人類の思想を均一ならしむる傾向ありと雖、これを以て遽に世界人類教育の軌を悉同一轍にせむと欲するは、猶翼あるものは之を養ふに皆同一の餌を以てせむとするが如きなり。
 現今幾十人の児童を一教室に合同して教授せむにも、到底真正なる教育は施し得べからずといふに非ずや、各邦の人民は到底各邦人の特殊なる性質に依りてその教養の法を設けざるべからざるは言ふを待たざるなり。且夫れ人類の各邦に分居し、人種を異にし、歴史を異にし、生活の状態を異にするは偶然に非ず、その現在に於ても、将来に於ても永遠悠久に等しからざるは天地自然の大法にして、人類の真面目なり。夫れ人類文化の本源は各国人民の性質と、その生活の状態との相等しからざる所にあり。故に各国民に特性特質を教養して、益之を進歩発達せしむるは、是実に全世界を通ずる教育の主義たらずんばあらざるなり。然るに我国民教育を云々するものは、漫に自由教育といひ、或は普通教育なり、など云々して邦家の特性特質を発達せむとする者あれば、却りて頑迷とし固陋として之を呼ぶ、惑へるの甚しきものと謂ふ可し。一般の状勢如此なれば、近時教育に関する学術上の智識は益発達して、心理倫理教育等の学説を講ずる者は日に多きを加へ、殊に近頃児童学なるもの起り世界的問題となりて近世科学より独立し、国家経綸の一大要素として研究するの傾向となれり。
 吾人は大本的教育の研究に腐心すること茲に十数年、常に少年を集めて、皇道の精神を鼓吹しつつある熱心の一人なりき。然ども之等は教育の一部分にして未だ大体にはあらず、殊に吾所謂根本的主義精神たる日本国体の教育によりて、宇宙と人生との関係を闡明して人生本来の面目を発揮し、世界の平和人類の慶福を図り以て祖宗の遺訓を宣揚して、国民の精神を統一し、延いて世界統一の天業を補賛せむとするは今日の急務なるも、却りてこの根本問題は不急時として後に廻し、徒に基礎なき建築に汲々たるもの多きが如し。請ふ、之より我大日本帝国教育の大精神に就き聊か論明する所あらむ。
 夫れ一国の歴史は、その国家の成立人民発達の過程を表示せるものにして、現代の国民が祖先より譲り受けたる遺産の総目録とも称すべきものなれば、その国家を継承し、先人の遺業を恢弘すべき相続人たる者は、明瞭正確に之を知了すべき必要あるは言ふを俟たず、況んや均しく歴史といへる名目を冠すといへども、その中一種特別なる性質を具有せる我国史の如きは、国民教育に於ける諸学中国典を以て一切万学の統一学として首位を占むべきものなるをや。
 欧米諸国に於ては、歴史は道徳の経典とは別物なり。道徳は専ら之を聖書に本づけ、歴史は単にその国家社会に於ける物事の発達変遷を記述せるものに過ぎずとせり。我国に於ては歴史と経典とは同一物なり、殊に我国典は宇宙の成立より国家人生の成立変遷を記述すると同時に、国民の精神を支配して、千古東の天に磅礴せる道義の本源を包含す、則ち皇室典範、帝国憲法も教育勅語も此の国史より抽象せられたるなり。我道義の精神たる祖先教は実に国史を離れて存するものに非ず、祖先教は即国史、国史は即祖先教にして、国史と道徳の経典とは全然一体なり。祖宗の遺訓洪範、父祖の忠誠孝敬の事蹟、燦然として其表に輝耀す、斯の史は則ち是此の国家の大精神なり、雄大なる元気も、崇高なる品性も、皆此の中に含まれたり。
 然るに我が現今の教育より見たる国史は、道徳の経典と国史とは全然別物なる欧人の観念を其まま直写せるものにして、我が国史の特質には深く注意せざるものなり。さればその編纂の体裁に於ても勉めて欧米歴史の様に模擬して、上古の事蹟の如きは勉めて彼と同一の事蹟のあらむ事を求め、吾等の祖先は盲味にして猛獣穴居の伍たりきなどといふが如き事を排列して、以て歴史の体裁を得たりとす。吾人が少時竹越与三郎氏の著、二千五百年史、松井柏軒氏の日本帝国史の如き、当時之を繙き憤慨激怒思はず其書を裂きて地上にすて、東方を睨んで何故に政府が是の如き書の刊行を許したるかをうらみし事ありき。嗚呼如是書を以て学習の標準とせる今日の学生には、国史を研究すと言ふ精神はあれども、国史を尊崇するといふ念慮は毫もある事なし。彼等講学の余暇、我国史と英米独仏史の書冊と同一に結束して書笈の中に押込むることはありとも、その間我が国史に対して一種尊敬の念を動かすことはなかるべし。偶我国史の真義を闡明せむとすれば、直に固陋とし、頑迷とし、国学者の旧夢として一笑に付し去らざるはなし。吾人は嘗て国学院、其他を視察して、其意外なるに一驚を喫したり、同大学は言ふまでもなく、日本唯一の古典専攻のところたるにもかかはらず、四方より集るところの学生は、中等教育者受験の学科に汲々乎として、更に古典などに耳を傾けず、偶篤学の士あるも、史的文学的研究の徒にして、古典の内面より幽政上の神律を窺はむことに力むるもの、実に一人として在るなし。かかる有様なれば寧ろ国学院は不当にして、中等教員養成所の方当れるの観なくんばあらず。
 されば現今の我教育界は、欧米諸国の社会より教育を破滅し、聖書を取除きたると同一なる状態に在るものといふべきなり。如此にして而も倫理を講し、教育勅語の御主旨を奉体せしめむと欲するは、左手に祖先の位牌を汚しながら、右手に祖先の遺書を披きてその遺言を尊奉せよと勧むると何ぞ異ならむ。
 今日の教育者、或は説をなして、道徳の教典には特殊なる倫理書といふものあり、何ぞ殊更に歴史中の隠微を尋繹して、教課に列するを須ひむやと云ふものあり。然れども今日の倫理書、修身書等は概して皆一般普通なる教訓の要目を排列したるに過ぎず。是を以て完全なる我道徳の経典として見るべきものは未だ之あらざるなり。そもそも初等中等の教育に於ける倫理教科の標準たるべきものは、専ら我皇道の淵源、祖宗の宏徳明範を記述し、一切のことすべて、祖先の遺風を顕彰するを以て中心真髄とし、以て人道の要目を掲げて、己を修め、人に接し、国家に対する道を指示する体裁を備へざるべからざるなり。然るに従来是等の著書は大概一様にして、多くは幕府時代の偉人儒者等数人の事蹟を排列し、之に支那西洋偉人の事蹟を参述して、間々古哲の訓言及世の俚諺等を加ふるに過ぎず。是単に倫理学上の普遍的なる人道実践の要目を臚列するには或は不足なかるべけれども、之を以て我道徳の経典たる国旨の精神を発揮し、以て教育勅語の御主旨を奉体せしめむための教科に充つるに至りては甚不充分なるの憾なき能はず。今誠に勅語に配していはば、僅に「爾臣民」と宣はせられたる段より以下「以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と宣へるまでの間の御主旨を敷衍したるに止り、初段の「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ、我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ、世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」と。後段なる「斯ノ道ハ実ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所、之ヲ古今ニ通シテ謬ラス、之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ」と宣はせたる一節、即ち勅語の首尾をば全然削除したるものとなるべし。如斯にては倫理書、修身書ありと雖、勅語の御主旨を発揮せむには、甚だ不充分といはざるべからず。
 啻に現今の倫理書、修身書等の体裁斯くの如くなるのみならず、一般教育者の倫理に関する思想も亦全然是と同一にして、単に世界的、普通的なる倫理主義のみをとりて、我が国史より修得せる信条に甚しく欠乏せりといふべし。倫理教育の精神とする所此の如くなるが故に、誠に今日の青年学生即ち国民教育を畢へたる者に向ひて、我倫理の大要目たる本支同統、君臣同祖、報本反始等の義を問へば、之に対して満足に解答し得るものは甚だ鮮少なり。少年は勿論之が教導の任に当れる者も、或は曾て此等の要目に思ひ及ばざるもの無きにあらず。此の如き状態にては当世の教育者、倫理学説に通暁すること如何に精細なりとも、史学上の知識に富むこと如何に深邃なりとも、国家教育上よりいへば甚だ要領を得ざるものといふべきなり。
 之を要するに、我が国の教育に於ては、国史は実に全教科中の主脳中心たるべきものにして、一切の学科は皆之に付髄し、此国史の光彩を付加すべきものなり。今日の教育に於ける国史の位置、ここにあらずして漫然諸科目と相伍して格別に重きを置かざるは、是実に今日の教育に伴髄せる謬想の根源たらずむばあらざるなり。
 幕府の末造には、藩書調所を置きて専ら洋学研究の所とせり。この藩書調所は維新後に改名せられて開成所となり、開成所は遂に帝国大学の基礎となれり。藩書調所より今日の帝国大学に至る間、幾多規模組織の変更せられたるものありと雖も、その発達の起源、藩書の調所にあつて終始洋学の研究を以て主とせるものなれば、大学に於て我が国史を尊崇する習慣なきは当然のことといふべきなり。
 由来学士、博士といへる名称は、我国学術思想上の最上位を占むることとなり、その言ふ所は皆文明の新思想として承認せらるる風となりしより、世を挙つて欧米の文物には明なれども、却りて我が本国の書に暗く、嘗て憲法発布の前年、我が大使の一行議官の巡遊者等が欧洲に至りて、欧人により初めて我が国史上の説明を聴き、茫乎として後に瞠若たりしが如き奇観を現出せしこと再々なりき。今日に於ても遣外官吏が彼の国人より我が皇室の御姓氏を問はれて説明に窮したるが如き奇談なきにあらず。又日本古典、日本言語学等を初めとし、我が国特殊の事物を研究せむには、遥に欧洲に至りて、その学者に質すに非ざれば要領を得ざるもの少しとせず。我が国今日の大学は名は帝国と称すれども、その性質は依然として蕃書調所の旧時と異る所あらず。欧洲大学の学者却つて我が国の事物の研究に詳なりといふは顛倒も甚しといふべし。
 藩書調所流の頭脳のみなる博士の、思想界の最勢力者たる今日に於て、邦人全般の国史に関する思想の甚しく欠乏せるは固よりなりと雖も、世界無比の古典を為し、六十余州すべて歴史上の遺物を以て布置せられたりといふべき我が邦土に於て、残忍なる経済思想、或は地方的利欲心を以て、到る所無稽にも貴重なる歴史上の遺物を毀壊して顧ることなきは、正に国民的思想上、愛国心の一部を減殺するものといふべきなり。心あるもの誰か痛惜せざらむ。
 曩に幸徳一派の起りたるは、皇国思想界の大危期を証して余りありといふべし。爾来朝野の士は国民思想界の統一を図らむと、筆に口に国体の尊厳を唱導するの傾向に至れるは、人意を強くするに足るも、こは熱烈なる一部人士に止まり、国家教育の重任にあたり、終始国史上の精神光華を発揚するを以て教育の淵源とせよとの聖諭を奉戴せる教育者は、須らく先づ国史に関する自家の頭脳精神を修養改造して、誠意その本分を全うせむことを期せざるべからず。茲に重ねて一言せむ。我が国史は啻に我が道徳の経典たるのみならず、将来諸般の学術思想上に一新光彩を付加すべき真意義を包含せるものにして、諸外国の歴史とは遥にその性質を異にせるものなり。我が史以外の歴史には天地人一貫せる理想の発現として見るべきものなく、その惨酷非道の状態、君民惨害闘争の事蹟は殆ど人類の事蹟として見るべからざるものなり。人道の大体に於ては支離滅裂其の間何等の崇美真趣を見出すべからざるものなり。その国人が道徳の経典をここに求むるは固より当然なり。我が国史を読むもの、須らく眼をここに注ぎて、玉石混淆せざらむことを勉めざるべからず。
 吾人の多年主張する所は、我が大学に於て専門の国史科を更に大に拡張するはいふも更なり、各分科大学及高等学校同専問学校ともに学門の大綱として、必ず国史の一科を置き、其他官吏登用試験の如き、大小高下すべて必ず国史を以て試験の主科目とし、以て我が日本帝国政府の文武官僚及学者士人たらむものは、その頭脳必ずこの特殊なる国史の思想あるに至らしむるにあり。
 夫れ此くの如くにして、国家の本領、国民の全体に明にして、教育の根本初めて確立するに至らむ。
(大正七、八、一号 神霊界誌)
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