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文献名1出口王仁三郎全集 第5巻 言霊解・其他
文献名2【随筆・其他】よみ(新仮名遣い)
文献名3惟神の大道を邁進せよよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考2023/09/28校正
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-09-28 17:23:52
ページ450 目次メモ
OBC B121805c223
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本文の文字数3936
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本文    三十六回目の節分

 今年の節分祭は私が神様の御用を努め始めてから三十六回目の節分であります。丁度三十六はみろくと云ふ言葉に通じまして非常に意義のある節分祭であると思ふのであります。開祖が明治二十五年からお道を説かれて愈々今年は四十三年目であります。それから私は丁度三十六年、明治三十一年私の二十八才の年齢までは社会的に色々と暴れ回って居りました。
 家の中に寝ながら月を見る様な水呑百姓の家に生れて、社会の凡ての圧迫を一身に受けつつ大きくなり、稍独立が出来る様になつて捨鉢気分になり非常に社会を呪ふ様になり、又強い者は癪にさはり、挫いてやらうと云ふ様な考へが起り、已に侠客にでもなつて大にやつつけてやらうとさへ思ひ、命の瀬戸際迄行つたのであります。其時に──二月九日旧の二月八日の晩に、ある関係から三人程の友達に袋叩きにあはされて虫の息になつて居つたのであります。そこで俄に心境の変化を来したと見えて、壁に『大本大神』と書きまして一生懸命に祈つて居つた。さうすると打ちのめされたとか半殺にされたとか云ふ評判が出て、私の側に母上が之を知つて来て非常に悲観されたりしましたので、之は到底世の中は暴力では行かぬ、やはり自分に力を拵へて、そして愛と善とで世の中を改造するより仕様がない、腕づくでは行かぬと俄に信仰の念が起つて一生懸命に祈つて居つた。その夜の十二時頃に愈々幻覚を感じたと云ふのか或は夢遊状態に入つたと云ふのか、知らぬ間に富士山上に上つたかと思へば、高熊山の岩石の上に修行して居つたのであります。それから其当時に初めて神勅によつて『西北を指して行け』と云ふ事で、こちら(綾部)に来る様になつたのであります。其時には開祖が只一人で、開祖を利用して金光教会が信者を集めて教会を盛んに広めて居つたのであります。其年が明治三十一年で、私は二十八才で未だ若かつたのであります。それではたの者が『あんな若い先生が来たかて何の役にも立たぬ』と排斥し喧しく云ふので、一先づ園部へ帰つたのであります。そして又翌年に四方平蔵氏が開祖の内命を受けて私を迎へに来ました。これが旧の五月の中頃で田植の済んだとこであります。新では七月になつて居ました。それからこつそりと裏町の開祖さまの寓居に参りまして平蔵氏と大本を開く相談をしてゐましたところが、又金光教会の教師がかけつけて来て一騒動が起つたのであります。
 その当時の話はいくらでもありますが思ひついた事だけを話して行きます。その時代の役員は、世の立替立直しは、今にも来る様に思つて居つた。その年の中にでも来るかの様に騒いで居つた。神様は過去、現在、未来を問はず、総て神様の御目から見られた時は、総てが平面的に見え、何千万年前の事も何千万年未来の事も一度に三千世界がうつつて見えるのであります。人間は七八十年或は百二三十歳位しか生きられないものである。そして人間としての二十年三十年の命はほんの瞬間である。神様は何百万年の昔から永劫の後迄も一つにして見て居られるのでありまするから、立替立直しがそこ迄来て居る様に神様の目から見ると見えるのであります。あの浮塵子と云ふ虫は生れて五分間にして死ぬのであります。さうすると浮塵子の五分間は浮塵子にすれば一代の命である。浮塵子にとつて浮塵子の一分間と云ふものは吾々人間の二三十年位になるのであります。さう云ふ一代無限なる神様の年と御目から見られたならば、人間の一代はほんの一瞬としか見えないのであります。それで神様の云はれる立替立直しが早く来るから改心せよと教へられたのであります。それを人間が永劫の神様の目と、自分の目とを一つにしてしまうて今年中に出て来る様に考へて居つた。
 お筆先には三十年間で世の切り替へをすると云ふ事がありまするが、人間界の三十年は一世であります。一世と云ふ事は、世界の世の字であり、十という字が三つ寄せてあつて三十年を一世紀と云ふのであります。日本では昔三十年を一世と云つて居つたのであります。先づ人間にしても三十歳でお嫁さんを貰ひ、六十になると又三十位の子供が出来てゐる。それで隠居とか云つて子に後を譲る。すると人間は三十年より世を持たない事になる。これであるから、やはり人間の一生は神様の一日位のものであります。で開祖が金光教会と一緒に居られた前後の信者と云ふものは、私欲で強欲な連中ばかりで、嫁も貰はずに我慢して居つた。今に世の立替立直しがあり、その後に貰つたなら、嫁さんもよい嫁さんが貰ひ放題に貰へる。それも後二年か三年かしたら来ると思つてきばつて居つた。それはいけないからと色々説いたり諭したりしてもわからない。しまひには開祖の教をつつ込んでしまつて、自分が開祖に代らうとする様な、又は反対ばかりする信者であつた。しまひにはこの頃も役員の取違ひ、及び信者の中には幹部を立替へしようとか云つてる人があるけれども、其の時代のはテロも濃厚なテロ陰謀であつた。私は其の中を神様の御恵みを受けて無事にくぐりぬけ、そして明治四十年より大本に入つてから十二年間、四十二年まで非常な苦労をしたのであります。三十九年にはたまりかねて京都に行き、そして四十年に官幣社の神職となり、四十一年には御嶽教の副管長となり、そして教会の事情をよく調べて四十二年に帰つて来て初めてこの神様の御経綸をする事になつたのであります。私が綾部に居ると極力反対して来た者もあつたけれども、それでも信者はちよこちよこやつて来たが、私が綾部を出て神職になつてゐた時には大本へ誰もやつて来ない。役員も皆散つてしまつて、只一人神様に御給仕する者が一人と、も一人の役員が居つたが、それはもう六ケ月見て居つて、立替が来ないならば帰ると云つて居つた。それで四十二年に私が帰つて来た時には本当に神様に給仕してゐた人が一人で、役員と云ふ役員は皆二股膏薬であつた。それから私が綾部へ帰つてきた時、家族や付近の信者が寄つて来たが、小さい子供や婦人を皆集めて四十九人であつた。四十九と云ふ数字は余りよい数ではないので、もう一人こしらへようと思つたが、どうしても出来なかつたので、神様を一人混ぜて五十人にしました。私はその年が丁度十二年目でありまして、三十九才でありました。そして愈々その年の節分祭が済んでから大本がぼつぼつ発展し始まつたのであります。
 それから丁度十二年して、その年の節分祭にあの有名な十年事件が突発したのであります。この事件の起る迄と云ふものは役員信徒等、それも少しは知識階級も来たけれども、形は同じく前の信者の様で吾々の身辺を始終狙つて居つたのであります。それであの事件までは私は奥へすつ込んで居つて信者に面会する事も出来なかつたのであります。信者に面会すると或る幹部は『全部役員は総辞職する』等と云つて一切吾々を遮断して居つたから、信者の人と会ふ事も出来ねば役員と話する事も出来なかつたのであります。丁度其の時分が押込まれた時代で、あの事件が起つて未決に入り、それから蒙古入りをし、大正十三四年頃は大本の借金と、それから信者の離反散乱、及び新聞雑誌の攻撃等、更に官憲の圧迫、色々雑多の障害が一緒に集つて来ましたが、これが普通の会社であり、或は人間の拵へた団体ならば目茶苦茶にやられてしまつて居るのでありまするが、大本の神様がお造りになつて居り、神様が発起人でありますからして、さう云ふ難関に遭つてもびくともせずに突破して来たのであります。その後の十二年間は蒙古へ行つて見たり、人類愛善会、世界紅卍字会との提携をしたり、海外宣伝をしたり、明光社を起したり、ローマ字普及会、エスペラントの普及をはかり、活版事業の拡大をはかる等、色々の事を致しまして、そして又十二年は暮れて今日に至つたのであります。

   神勅による大祓

 今度の節分祭は余程意義のある節分であつて、私は夜前初めて神様の神勅によりまして、和知川まで瀬織津姫の先に立つて速佐須良姫として出張したのであります。そして今迄の罪と云ふ罪、穢と云ふ穢をすつくり払ひ清めて、役員も信者も吾々も、夜前から今朝にかけて神様の御用をさして頂いた有難い行事であります。それから私はこの大正十年までは色々と攻撃を受け、或は悪魔に邪魔されたのであります。この悪魔は正しい道を破壊するのに一番何を手段に用ゐるかと云へば、人間の最も好奇心を持つ、人間の最も嫉妬心を持つ所のエロの関係を持つて人を傷けるのであります。私も沢山の女を抱へてゐると云ふ事を度々新聞雑誌に書かれました。未決に入つて居る時も、京都の地方裁判所の予審判事が『あなたは二百人の愛人を持つてゐるさうやが一体何処にあるのや』と聞いたから『私の愛人は五千万人位あります。女だけでも五千万人位、男でも其の位はある。日本人ばかりではない、世界中にある。しまひには廿億にもなる』と答へた事があります。
 愈々私が来てから三十六年目、開祖から四十三年目の節分を迎へまして、益々罪穢を払ひ新しく生れ出る日本のために、昭和青年会なり、皇道大本なり、或は武道宣揚会なり、音楽部なり、その外芸術なり、一切の事を新しく世の中にひろめ、新しい弥勒の世を建設する時となつたのであります。就いては余り勢よく図に乗ると、あり余る勢で道を真直行かずに、それる事のない様に、右にもそれず、左にもそれず、真ん中を行く様に注意し、左へ向いたり右に向いたりして其筋の心配をかけぬ様に充分慎んで、神様の仰言る通り惟神の大道を進まれむことを希望してやまないのであります。これを以て今日は失礼します。
(昭和八・二・四 於信者総会 同八・二・一五号 真如の光誌)
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