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文献名1出口王仁三郎著作集 第3巻 愛と美といのち
文献名2美 >うたの道よみ(新仮名遣い)
文献名3歌祭りよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ200 目次メモ
OBC B195303c332
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本文  歌祭りということについて一言申しあげます。日本の和歌の道、すなわち敷島の道のはじまりというのは、素盞嗚尊が出雲の簸の川の川上で八岐の大蛇を退治されて、ほつと一息おつきなされた。その時に、お祝いとして詠まれた歌が「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」の歌であります。
 このお歌の意味は、言霊によつて解釈すると、「出雲八重垣」の「出雲」というのは「いづくも」のこと、「どこの国も」ということでありますが、つまり、大蛇は退治したけれども、まだ世界各国には八重垣が築かれ、そして八雲が立ち昇つている。「八雲」というのは「いやくも」ということである──。それで、この「いやくも」をすつかりはらわねばならぬし、また、この垣もはらわねばならぬ。
 今日も「八重垣」はたくさんあります。日本の物を外国に持つてゆこうと思えば、「税関」という八重垣ができている。「つまごみに」というのは、──日本の国は「秀妻の国」というのである──日本の国もまたいつしよになつて八重垣をつくつているということであつて、これは世界万民が一つになつて、一天、一地、一君の政治にならなくては、この八重垣はとりはらわれないのであり、「八雲」をはらい、「八重垣」をとりはらつて、はじめて一天、一地、一君の世界になるのであります。これが一つの意味でありますが、もう一つの意味があります。神さまがお鎮まりになつているその神さまを中心として「八重垣」を築く。その「八重垣」は「瑞垣」という意味になり、外から悪魔がはいれない。ここでは神さまを守る「ひもろぎ」となるのであります。八重雲(八雲)も、幾重にも紫雲がたなびいている意味にもなるし、また、真つ黒な雲が二重にも三重にも包囲しているという意味にもなるのであります。
 それで、この歌は、「八重垣作るその八重垣を」で切れていて、あとがまだのこつているのであります。内外をとわず悪い、「その八重垣を」今度はとりはらわねばならぬということをのこして、「を」の字でおさまつているのであります。
 そこで、仁徳天皇の御宇までの古典を調べますと、「歌垣に立つ」ということが、時々みあたるのであります。「何々の皇子歌垣に立たせ給うて詠い給わく……」とある。「歌垣」というのは、歌を書いて、それを垣にしてあるもので、今日のこれ(歌垣を示され)がそれであります。それで歌祭りというのは、この歌垣を中心として、自分の村々で年にいつぺんずつ行なつたのであります。そうして、平素からの村人間の怨み、妬み、または一家のもめごと、夫婦喧嘩とか、そうした村内における今までのいざこざを、この歌祭りによつて、神さまの御心をなごめるとともに、村人の心もちをも和め、いつさいの罪悪をはらうてしまう、つまり八重雲をはらうてしまうという平和な祭りであります。
 その祭りによつてすべてが流れ、河で尻を洗うたように綺麗になるのであります。
 また、若き男女にいたしましても、昔は自由結婚でありました。それで、歌祭りの時に、一方の男から思う女に歌いかける。それが嫌だつたら女は歌いかえさない、この人と思つたら歌いかえすのであります。この言霊ということは、「真言」とも書くのであつて、真言ということは、言うたことはいつさい違えないということであります。つまりいつさい嘘は言わないことが真言であり、言霊であります。
──一言いえば、それは違えさせられない。それで、一度、歌によつて歌をかえしたならば、その女は一生涯、その人の妻になつたことになつたのであります。その場所で一言いうたら、それでいつさいは決まつたものであります。また今までのいざこざも、歌祭りに列して歌を献上した以上は、それですつくりと流れたのであります。
 しかしながら、この歌祭りも、源頼朝が鎌倉に幕府を開き武家の世になつてからは、絶えてしまつて、宮中に歌会がのこつていたくらいなものであつたのであります。
 それから、あの定家卿が、はじめて小倉山の二尊院という処で歌祭りをされた。その時には、故人の歌も新しい人の歌も集めて、そのなかから百首えらんだのが百人一首となつたのであります。
 しかし、定家卿のやられたのは、山城の国の小倉山という小暗い山であつたが、今日の歌祭りは、明光殿という、明らかに光つている御殿で、処も花明山という明らかな山であります。この花明山の明光殿において歌祭りが行なわれたのでありますから、すべて会員および皇大神を奉斎する諸氏は、今日かぎり、いかなるもつれがあつても、何があつても、この祭りに列した以上は、すつかり河に流さんと、神さまのご神罰があたることになつているのであります。
 私は、古典のなかに「歌垣の中に立たせ給う」とたくさんあることについて、どこの国学者に聞いても判らなかつたのでありますが、その時に、今日はもう故人になられましたけれども、私の二十三歳の時に、歌をはじめて教えてくれました岡田惟平翁という国学者があつたのであります。その人に、歌垣の作り方から、つぶさに、こういうぐあいにして祭り、また、こういう歴史があるものだと聞かされたのであります。
 その後いつぺん、どうかして歌祭りをしたいと思つておりましたが、本日ここにめでたく行なうことができました。この集まつた歌のなかから、百人一首をこしらえる考えであります。一回ではとても百人一首はできないから、年を重ねて百人一首をつくり、後世にのこる、小倉山百人一首ではなくて花明山百人一首をこしらえたいと思つているのであります。
 それから今、弓太鼓をとんとんとたたきましたが、これは、素盞嗚尊が須賀宮にお入りになつて、この大原、すなわち地上世界を全部治めらるる処の責任を伊邪那岐尊からお任せになられたについて、非常にご心労あそばしたのであります。
 朝鮮や、出雲の方は平定したが、さらに八十国の雲霧をはらい、八重垣をとりはらうには、どうしたらよかろう、たいていのことではないと心配に沈んで、腕を組んで、うつむいておられる時に、櫛稲田姫が、弓を桶にくくりつけて、それをぼんぼんとたたかれた。それが弓太鼓の濫觴である。その音を聞いて、素盞嗚尊は心を和めて、そうして「八雲立つ……」の御歌ができたのであります。その音を聞いて非常に勇ましい御心になり、お喜びになられた時に、「八雲立つ……」とでたのであります。
 それが、のちには一絃琴になり、二絃琴になり、八雲琴になり、今日のたくさん絃のある琴ができたのであります。さらに、右と左に侍女神がおりましたが、これは手撫槌と足撫槌になぞらえて、両傍に二人おつたのであります。しかしほんとうの手撫槌、足撫槌は、こんな若い人ではない。ほんとうはお爺さんとお婆さんであるけれども、われわれは更生せねばならぬので、爺さん婆さんではいかんから若い人に坐つてもらうたのであります。弓をぼんぼん鳴らしたのは櫛稲田姫の代わりであります。
(「明光」昭和10年12月)
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