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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第1章 >3 出口家入りと結婚よみ(新仮名遣い)
文献名3労苦の連続よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-11-29 13:15:28
ページ53 目次メモ
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本文  なおは二〇才(一八五六-安政三年八月二〇日)の夏に長女のよねを生み、二六才(一八六二-文久二年七月四日)の時に次女のことを生んだ。長女と次女の間に三人の子を出産したが、三人とも生まれると、まもなく死んだ。ことの次に二八才(一八六四-元治元年一二月三〇日)の時に長男の竹造を生み、三二才(一八六八-明治元年七月二三日)の時に三女ひさ、三六才(一八七二-同五年六月三〇日)の時に次男清吉、四一才(一八七七-同一〇年三月一一日)の時に三男伝吉、四四才(一八八〇-同一三年四月一二日)の時に四女りょう、四七才(一八八三-同一六年二月三日)の時に五女すみを生んだ。
 なおは一一人の子を出産したが、三人は早死で、三男五女を苦しい生活のなかで育てた。
 なおが結婚した当初は、家屋敷や田地・倉なども残っており、政五郎は大工としての技量もすぐれていたので、不自由もなく暮せたが、それもわずか一、二年の間であった。政五郎はあまりにも仕事に恬淡で、気がむけば熱中し、気のりがしなければいつまでも手をつけないという調子で、また、請負仕事に欠損ばかりするようになった結果、おいおいと家計が苦しくなってきた。
 政五郎はどうも取引は下手で、請取仕事をしては欠損をかさねていた。屋敷の裏に近所の人がきて何かしているので、なおが不審に思っていると、政五郎が「おなおや、お前にはすまなんだが、あの屋敷は大分前に売って酒にして飲んでしまったんや」という調子であった。このように、あまりにも家事に無頓着な政五郎とまだ若いなおにつけ込んで、親族たちが、先代に金が用立てしてあるの、田を一枚もらう約束があるの、品物が貸してあったなどといってたかりはじめた。
 また、なおたち夫婦の仲人であった辻村藤兵衛は高利貸をいとなみ、政五郎の無欲につけ込んでむやみに高い利子で貸付けたりした。ある年の元旦に、辻村がわずか五〇銭の催促をしたことがあったが、なおは日もあろうに元旦から催促にこないでも、またの日もある。わずかこればかりの金銭なら私が何とでもして返しますからとのべて、悔し涙を流したという。後年のなおは「あの頃は、夫が藤兵衛さんと何か奥の間でコソコソと話していると、きっと二、三日ののちには田がなくなるか、畑が人手に渡るかしていた」とのべている。こうして田地は無くなってしまった。
 なお夫婦は二人とも他所者であり、しかも政五郎が人のよい放漫家だったので、周囲の人たちから意地悪くあしらわれた。「経歴の神諭」に「綾部の本宮村は人に憐みのない村であるぞよ。人が死なうが倒けようが、われさえ好けりゃ構わん人民ばかりであるから、改心を致さんと、世が治まりたら此村は悪党鬼村と名をつけて、万古末代悪の鏡と致すぞよ。」(明治27・1・3)とあるが、それが、なおからみた本宮村の実態であった。明治二〇年代の実態を伝えていると思われる、すみの『つきぬおもいで』によれば、三一軒の「私の村」(行政区画ではなく近所の家々をさすものとおもわれる)に、首つりが三人、殺人・強盗・ニセ札などで終身刑が三人、泥棒が四人、バクチ打ちが二人、それ以外に監獄に行ったものが三人、盲・半盲が七人、片輪が四人、健忘症・阿呆・ゴロ(唖)が各一人いた。そのほかにも、恋人と結婚できなくて婿をもらった暁に毒をのんで自殺した娘や、野壺の肥をとったことが知れて、それをせめられ、十両の金を枕元において自殺した女もいた。三一軒の家々のうちで二〇軒以上になんらかの不幸があり、「まともな人は二、三軒のものだった」(『おさながたり』)という。恋人と結婚できなくて自殺した義母ゆりをはじめ、不幸のたえない出口家自身が、こうした不幸や悲惨のひとつの典型であった。
 『おさながたり』には「そのころの本宮はそんなに多い家かずでもなかったのですが、宮津の監獄では綾部から来る人はみな本宮村からの人ばかりだと不思議がったということです」とのべている。むろん右にのべた事情は主として明治二〇年代の状況を示すものであって、経済的・社会的激動によってもたらされた側面を無視できないが、出口家の所在したあたりは、幕末期から既にならず者集落的性格をもち、不幸な人々が集まってくる地帯であったようである。なおの伝記関係の史料には、周囲の人々に対する尊敬や信頼を示すものはほとんどみられず、村人から非道にあつかわれた記事が多い。なおが超人的な「苦労」を重ねたことは疑いないが、その「苦労」はこうした環境のなかでおりなされたのである。なおはこうして人間の悪をいやというほど見せつけられたが、しかもその人間悪のために、なおの一家はしだいに貧困におちいっていったのだから、その人間悪は、なおに、ことに強い印象をあたえ、いきどおりの思いがひそかに蓄積されたにちがいない。こうした環境のなかで、なおは、「わらすべ一本」も他人のものは盗ってはならぬという実直な人生態度をつらぬいたのであり、なおの心に、周囲の人々にたいする批判精神が芽生えてきたとしても不思議ではない。なおがこうして人しれず苦労をかさねているときに、政五郎は酒をのみつづけていた。
 政五郎は、大工としての腕はたったが、酒と芝居と冗談が大好きな楽天家で浪費家であった。政五郎が勘定を忘れて呑み歩き、巡業の村芝居がかかるとそのあとを追って、いく日も家へ帰らず、仕事は遅れ、明日の米にもこと欠くというような状態であっても、なおは黙って苦労に耐えた。このような政五郎の性格は、人間的にはどんなに善良であったにしろ、社会の生活者としてまったく不適格なものであった。幕末の開港以来、商品経済が急速に発展し、共同体的な古い秩序が崩壊してゆくと、政五郎のこうした性格は奔放自在に発揮されて、その一家を没落させてゆく最大の原因となった。なおは口数の少ない物静かな生まじめな性格で、政五郎とは「正反対の性格」(『おさながたり』)であった。そのため政五郎は、なおの前にはいづらく感じ、「お前のようにそう黙っていると口の中に虫がわくわいなあ」といったといわれるが、こうした夫婦間の性格の相違のために、政五郎はますます外で遊び歩いたのであろう。
 仕事先では、いくら好きでも酒をつつしみ、目の前に出される二本の銚子のうち一本は必ず残すという人であったが、仕事先を出ると虎屋という料理屋へ上がり、家に持って帰る金をすっかり飲んでしまい、夜になって小唄を唄いながら帰ってきた。そして政五郎は、酒に酔って反物を一二反くらい買ってきて「おなおや、それさ」といって出したり、串柿を一度に一二連ぐらい持って帰るというぐあいであった。このような政五郎にたいしても、なおは不平をもらさぬ従順な妻であり、苦労を一人で背負いこもうと努めた。酒を飲んで遅く帰る夫を食事もせずに待ち、夫の無事な姿を見てはよろこんで迎えたという。そしてここには、意地の悪い姑に誠意をもって仕えた母の生活態度が継承されており、孝行娘として、また忠実な奉公人として、周囲の人たちから賞賛された若いころの、なお自身の生活態度を貫いていた。それは「家」のわくに宿命的にしばられた、悲痛ではあったが真剣な女としての生き方であった。

〔写真〕
○出口家の戸籍(1879-明治12年) p53
○明治5年1月戸籍簿が編成された p54
○1897(明治30)年ころの本宮村の位置 p56
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