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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第3章 >4 労働と勉学よみ(新仮名遣い)
文献名3牧夫の生活よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-05-06 18:58:26
ページ128 目次メモ
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本文  一八九三(明治二六)年七月、二二才の喜三郎は父母の許しをえて、獣医学を勉強することになり、園部町(京都府船井郡)で獣医をしている従兄の井上直吉のもとに、書生として住みこんだ。
 園部の南陽寺わきの牧畜場で、喜三郎はまず牛乳の搾取から修練させられた。牧夫三人、乳牛七、八頭ばかりの搾取場であったが、園部と周辺の村落へ毎日二回配達しなければならないので、おきている間は、一日のうち寸分の暇もなかったという。そのうえ牛の飼料も、一人で草を刈り、藁を買いあつめてこなければならないし、一日に四、五回は清潔法のために、場内外を掃除しなければならなかった。「忙しき事目の回る如くにて口舌に尽し得べきにあらず、会計事務一切余の手に為さざるべからず……」と当時の回想にある。獣医学の研究などは名ばかりで、牧畜場の世話ばかりに追いまわされた喜三郎は、毎夜、うすい布団のなかで、なんとかして勉強する機会をつかもうと考えるのであった。
 しばらくすると、井上の実弟の徳次郎があらたに牧夫として手伝うことになったので、大分暇がえられるようになった。そこで、喜三郎は昼の労働のつかれもいとわず、毎夜、牧場の隣りにある南陽寺にかよい、寺内に住んでいた国学者岡田惟平(一八二一~一九〇九)について、「惟神の道」を学び、国学(聖師はこれを敷島の道とも称した)の研究にはげんだ。『古事記』などの神名は一つ一つ口伝えでおしえられたという。
 岡田惟平は摂津(大阪府)川辺郡西谷村大原野の人であった。喜三郎はこのころから、翁の孫岡田和厚と無二の親友になったが、その弟の岡田了範らの回想談によると、そのころの岡田惟平は、大原野から園部に往来し、南陽寺境内にあった雲水の修養場を枝寮と名づけて、一五、六人の塾生に講義をしていた。惟平は、かつて宮中御歌所の寄人に推薦されたことがあったが、健康の都合で辞退し、終始、民間にあって国学の教育にあたっていた。
 喜三郎は、古典の中に「歌垣の中に立たせ給う」とあることについて、いずれの有識者に問いてもわからなかったが、二二才のとき初めて歌を学んだ岡田惟平に、歌垣の作り方から、歌祭りの仕方やその由来をおしえられた。歌垣とは、素盞嗚尊が詠まれた〝八雲立つ出雲八重垣つまごみに八重垣つくるその八重垣を〟の歌の短冊を神体として、献歌の色紙を四方に立てならべた祭壇のことである。それ以来、喜三郎は優美な国風である歌祭を、機会ができたらぜひ復活したいと念願していたが、一九三五(昭和一〇)年の秋、始めて亀岡の天恩郷で復興された。
 惟平は耳がわるく筆談であったので、その筆談もすべて文法にかなわねばならなかった。惟平自身は「ありませぬ」「存じませぬ」という、ていねいな言葉づかいで、仮名づかいをとくにやかましくいったということである(佐佐木信綱は惟平の遺稿をみて、まれにみる仮名つかいの大家である。数多の原稿の中で一字の写し違いもみなかった、と語っている)。
 惟平は毎月南陽寺で歌会をもよおしたが、そのおりには喜三郎も必ず出席した。喜三郎が、俳句に趣味をもったのも、このころである。喜三郎は、枝寮にあった『古事記』をはじめ、あらゆる国文学書や医書等を閲読したというが、そのいちいちの書名は明らかでない。井上円了の著書を読んだのも、このころであろうと思われる。
 こうして、喜三郎は牧夫生活の余暇をみて多方面の勉強を懸命にやった。本をいつもふところから離さず、枕もとにはたえずたくさんの本をおいていた。ある時などは、獣医になる決意をし、家畜医学書の『家畜医範』一六冊五千ページを全部複写して、すっかり暗記したともいう。また暇さえあれば、近くの藤坂薬店に行って薬の名を覚えた。そして、薬学のほかに解剖学にも興味をもつようになった。
 当時、喜三郎は台所仕事も受持たされていた。飯のたき方はこの時はじめて覚えたというが、井上から借りた馬の解剖書に読みふけり、馬の生殖器の図解に没頭している間に、そばで飯のふくのに気がつかず、飯は釜の底で約三分の一が炭化してしまっていた。こういう失敗は、たびたびであったから、従兄の井上は、つづけざまに焦げ飯をくわされて腹をこわしたという。解剖にも喜三郎は興味をいだいていたので、牛乳を与えて野犬をおびきよせてつかまえ、犬の解剖をしたり、猫・イタチ・ネズミなどの動物を片っ端から実験台にのせたりもした。
 南陽寺の飼犬が病気になり、びっこをひきながら死んだ。井上獣医は「気管支炎」だと診断したが、喜三郎は病状から判断して、心臓部の血管の中に虫がわく心臓糸状虫(フイラリヤ病)らしいと思った。そこでその夜こっそり起きて、南陽寺の境内の墓地から、犬の死体をテーランプをとぼして掘りおこし解剖したところ、まさにそのとおりであったという。
 このころの友人には前述の岡田和厚のほかに、園部本町の菓子屋の主人内藤半吾や、その息子の栄次郎があった。半吾は士族出身で、変わり者であったといわれる。喜三郎は暇あるごとに遊びに行っていたが、それも仕事や研究に関係があったようである。
 喜三郎は、昼の荒仕事の疲れもかえりみず、夜は惟平について国学の研究にいそしむことを楽しみにしていたが、一八九四(明治二七)年九月、日清戦争の最中に、岡田惟平※は摂津へ帰ることになった。翁に師事すること一年三ヵ月であったが、喜三郎には感銘ふかいものがあった。聖師は、後年、南陽寺を訪れ「敬老尊師」と染筆したが、この書は現在も南陽寺客間に横額にして掛けられている。惟平は喜三郎のことを「あれは、なかなかの傑物だ。しかし、一歩誤ると堕落してしまうおそれがある」といっていたとつたえられ、喜三郎に非常な期待をよせていたようである。
 日清戦争がはじまると間もなく、井上直吉は従軍獣医候補に呼び出され、喜三郎は、その間船井郡の仮獣医となった。木崎の屠牛場で牛の検査をしたさい、病気の牛を無病と誤診し、その肉が約七キロ腐っていたので、肉屋から「肉代を弁償しろ」と抗議された。喜三郎は、その時「こんな大きな動物を打ち殺す獣医はイヤだ」としみじみ思った。人はなんのために生くべきか、青年喜三郎の苦悩はつづいた。それから半月ほどたって、井上は不合格のために第四師団から帰ってきた。喜三郎は、その日をさかいに獣医学の研究をやめ、牧畜を生業にしようと考え、搾乳術の本格的な習得にいそしんだ。デボン種やホルスタイン種等の乳牛の研究をはじめたのもそのころであった。

※岡田惟平は、一九〇九(明治四二)年九月一五日、園部で帰幽した。戒名は「石城院文学宗竜居士」。聖師はのち枝寮の跡に惟平の歌碑を建立したが、第二次大本事件で破壊された。大原野には摂津の門弟達が建立した歌碑が現存している。

〔写真〕
○往年の南陽寺 p129
○岡田惟平 p130
○喜三郎の知識欲は多方面にわたって旺盛であった p131
○牛乳販売帳(園部殖牛社)牧夫・配達・会計のいっさいを受持たされた喜三郎の日々は多忙だった p132
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