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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第5章 >1 喜三郎の参綾よみ(新仮名遣い)
文献名3開祖との対面よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ167 目次メモ
OBC B195401c1512
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本文  一〇月八日(旧八月二三日)、綾部の裏町(現在の若松町)で、喜三郎は、はじめて大本開祖とあった。その日の喜三郎の姿は、陣羽織をきて、口にはおはぐろをぬり、手にはコウモリ傘とバスケットをもつという、念のいったいでたちであった。当時の様子について、開祖の「経歴の神諭」(明治35・旧8・9)にはつぎのように記されている。

上田がちょっと参らしてもらいましたと申すから、お前さんはどこでござりますと問いましたら、私は穴太でござりますと申して、八木の福島のうちで、あなたが書きなされた筆先を見せてもらいまして、福島やら娘(三女ひさ)が、一どついでがありたら、行ってやりてくれと申されましたゆえに、今日桧山からわざわざ参りましたのでござりますと上田が申せば、出口は艮の金神さまを世に出さしてもらいたい、お前さんは何神さんでござりますと問えば、私は駿河の稲荷講社でござりますと上田が申せば、この神さまはそんなほうでは世話にはなれんのでござります。私は時節を待ちて開きますと、すげのう申しておれば、そんなことなら来るでなかりた、さようなれば宿へまいりますと申せば、これでは八木へもすまず、上田にもすまんと思うて、不都合なとこでござりますなれど、とまり下されと申して、それがかかりでありたのざ

 喜三郎の初参綾当時、開祖は、金光教側が大本の神をなかなか世にだしてくれないことを残念に思っていた。そのため、開祖と、開祖に心服している一部の信者が、金光教とつながりのない有能な活動家を求めていたことは事実である。しかし、開祖は、喜三郎のいう稲荷講社の「稲荷」から、この地方にひろくおこなわれていた稲荷下げを予想して、最初は、喜三郎にたいしてあまり好意的ではなかったようである。
 この日、位田村から四方すみ・黒田キヨが参拝に来ており、開祖が「この方は金神さんを判けに来た先生でございます」と紹介すると、二人は、金神さんの力になる人がきたとよろこんで、四方すみが、わざわざ足立へ知らせにいった。足立は、傲慢なそぶりで歌を一首書き、「この歌の返事をもろうてこい。それができん奴にはよう会わんぜ」と言ってわたした。その歌というのは〝もみぢする赤き心をうち明けて語り会ふべき時をこそ待て〟というものであった。これにたいして、喜三郎は〝真心に暫しとどめて奥山のしかと語らむ八重の神垣〟と返歌をしたためて、四方すみに持って帰らせた。足立は「手ごわい相手だ、こんなものを綾部におくと、自分の足元が危ない」と思って、「風来者に呆うけるな」と四方すみを叱りつけ、世話係りの中村をよんで、「上田を追い返せ」と命じた。足立のみならず、金光教の世話係りをしている中村竹蔵らも、若くて有能な喜三郎を排斥しなければ自分らの立場が危うくなる、と直感したようである。足立と中村は開祖のもとに行き、開祖に喜三郎の追放を願った。しかし、開祖は、金光教側のこういう態度にたいしては明らかに不満であった。「おなおのそばへは正真の御方がお出で遊ばすから、来た人を粗末なあしらひを致すでないぞよ。なおは致さねども、足立どのは男のことであるから我も出るし、今ではわからねども、もうすぐに何ごともわかるぞよ…不思議な人が見えたなれば我をださずと、ひそりとお話を聞くがよいぞよ」(明治31・8・27)という喜三郎が綾部を去った直後の筆先が、そうした開祖の立場をよく物語っているといえよう。開祖の立場からすれば、稲荷と関係がありそうな稲荷講社の下につくことも、金光教に隷属することもしのびがたいところであり、喜三郎も足立も、「我」を出さず協力して、大本の神を世に出すようにつとめてほしかったのである。開祖には、自分にかかっている大本の神の偉大な神性を、まだ、だれも理解してくれないという意識がきわめて強かったから、大本の神が世に出るためには、そうした神格を理解されることが第一に必要なことであった。そこで、霊学の修業をつんで、神々を「審神」するという喜三郎にたいしては、期待するところがあったのである。
 そのころより約一年前の明治三〇年旧六月二七日の筆先には「綾部大望が出来るによりて、まことの者を神が綱をかけておるから、魂をみがきて、神のご用を聞いて下されよ。今では何も分からぬが、もう一年いたしたら結構が分かるぞよ」と示されていたが、その「結構」が具体化してきたのである。
 喜三郎は、その夜開祖のもとに泊った。翌日は、東八田村大安(現在は綾部市)から、一人の娘が病気平癒の祈願をたのみにきたので、大安に行き、その帰路四方与平の店に立ち寄った。その時のことが動機で、四方与平は入信することになったという。その日の夜も開祖の家に泊ったが、開祖は、喜三郎に三枚の半紙に筆先を書いてわたした。そのときの経緯を、聖師は歌集『霧の海』のなかで、つぎのように詠んでいる。〝今暫し時早けれどこの神を表に出すは上田と宣らせり〟〝神様をいつ迄おし込めおく様な金光いやだと開祖宣らせり〟〝汝こそ神のよさしの神柱としるしありたりかしこき筆先〟
 開祖もはじめのうちは、喜三郎の世話になろうとは思っていなかったようだが、筆先では、すでに、喜三郎は神を表に出す神柱であると示されていた。しかし、喜三郎は金光教側の強い反対があり、開祖の真意もとらえかねたので、時期なお早しと考えて、開祖にいとまをつげ、滞在わずか三日間で綾部を引上げた。
 喜三郎は園部にもどると、その足で、依頼をうけた八木の福島の宅へ報告に行ったが、すでに金光教会から連絡があったらしく、福島夫婦の様子が一変して、喜三郎を馬鹿にしたような態度をみせた。

〔写真〕
○大広前-裏町の伊助の倉(開祖と喜三郎の初対面の場所) p169
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