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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第6章 >3 弥仙山ごもりよみ(新仮名遣い)
文献名3弥仙山よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ236 目次メモ
OBC B195401c1632
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本文  弥仙山(標高五九九メートル)は丹波富士ともいわれ、綾部旧市街地より東北一二キロ、何鹿郡東八田村字於与岐(現綾部市東八田区)にある霊山である。『於与岐区史』によると、一八七二(明治五)年までは女人禁制であって、地元二又部落の婦人は現在でも登山しない。山頂の金峰神社は木花咲耶姫命をまつり、中腹の於成神社には彦火々出見命、山麓の三十八社には水分の神がまつってあり、近村の者はこれらの神々を子授けの神として崇敬している。奈良時代には、役の小角・行基が入山したという伝説があり、両部山と称されて修行者がよく参詣していたが、一六世紀の末に兵火にかかって衰微した。一七〇八(宝永五)年神殿を再建し、一九五六(昭和三一)年九月二八日には地元民の懇請で、大本が協力し現在の社殿を新築した。また現在の中の宮の神殿は、大正一〇年の第一次大本事件のさい、神職嵯峨根久左衛門が、弥仙山は大本と因縁の深いところであったから、その累が神社におよぶことを案じて祈願をしていた最中に、突然お宮がこわれたというものである。その後大本へ新築をたのみ、第一次大本事件のときに官憲が破壊した本宮山の神殿の材料で、大本があらたにつくりなおしたものである。最近頂上の一部を残して樹木を伐採したが、開祖のこもった当時は、うっそうとして白昼も薄暗かったという。
 開祖はにわかに弥仙山にこもることに決意したので、後野市太郎が久左衛門の父・久兵衛(神職)に交渉して承諾をえて、一〇月一九日(旧九月八日)午後三時開祖は綾部を出発した。山まで後野市太郎と中村竹蔵がお供をしたが、「だれもくることはならぬ」という開祖のかたいいいつけで二人は下山した。木下亀吉(慶太郎の父)と森津由松は、中の宮は板の間であるからと、さっそく藁で菰をあみ夜中にとどけた。開祖はこの両人の真心を喜び、記念にと直筆の半紙を渡した。後野は、だれもいってはならぬとのいいつけであったが、開祖の老体を案じて、内々に大石村から様子をうかがっていた。
 四方平蔵は開祖が山へこもったとき不在であったが、あとからこのことを聞き「たとえどんな事情があろうとも、老体の開祖お一人を弥仙山においておくわけにはゆかぬ、『だれもくるな』とのいいつけだそうだが、お叱りをうけようと打ち捨ててはおけぬ。ご面会してくる』といって、一〇月二二日、だれにもつげずただ一人で出発して、午後四時ころ中の宮へたどりついた。開祖は一人灯をつけて、静かにおこもりをつづけていたが、四方が挨拶をすると「だれもこないようにと申しつけておいたのに、どうしてきたのか」と不興のおももちであった。四方は「お身の上を案じご面会にまいりました」と答えたので、「一夜だけこもってよい」との許しが出た、四方は麦飯を食べて開祖と一しょに礼拝したが、開祖はお礼がすむと神懸り状態になって、一一時・一二時になっても静まらず、四方は始終平身低頭して礼拝をつづけていた。後日、四方は「深山の夜気は森々と社殿内に迫ってくるし、開祖の神懸りはやまぬし、そのあらたかさは身が引きしまるような心持だった」と話している。午前二時頃、開祖の神懸りが静まり、四方は羽織をきたまま菰の上に横になって眠った、
 開祖は朝五時ごろ、まだ夜も明けないのに起きて「サアこれから不動の滝へいってお水をいただいてきましょう」と眼の悪い四方の手をひきて、一丁ほど下方の不動の滝で禊をして中の宮へ帰り、燈明をつけて朝の礼拝をすませた。このとき谷間でメラメラと大木を倒すような音がして向山から地響きの山彦がするので、四方がビックリしていると、開祖は静かに「ご守護神がおおぜいでにぎやこうてよろしいな」という。四方はいまさらながらに、開祖の豪胆さに敬服した。このおこもりのとき、神が太い手で腹をなで、開祖の度胸をためされたのであると、のちに開祖がすみに語ったこともある。開祖は「平蔵さん、わたしはこれから神様のご用があるので、早く帰って下さい。そしてだれもこぬように大石の慶太郎さんにいって下さい」といったので四方は安心して山をくだった。
 開祖はひきつづき山ごもりの中で筆先をかいていたが、その後四日目、村人が宮の掃除に登山して礼拝する気配がしたので、開祖が顔をだすと、社殿の中から、思いもよらぬ白髪の老婆が、突然顔を出したので村人は驚き、社内にヒヒ猿がはいっているといいふらして大評判になった。村人はヒヒ退治だと竹槍をかつぎだし、巡査までが出張してくるという大騒ぎになったが、村人が宮へ押し寄せてきたとき、おりよく後野市太郎がきあわせ、ヒヒ猿というのは開祖であることがわかった。村人は開祖を取りかこんで「なぜこんなところへきておるか」と尋ねたので、開祖は「世のなかが暗がりだからこもっている」と答えた。村人が「早くでてゆけ」というと、開祖はおちつき払って「今日はおこもりしてちょうど一週間目であるから、でるなといってもでる日じゃ。ついでに上杉まで送ってください」と悠然と応対した。
 一方、留守中のできごとを知らなかった会長と木下は、静岡で相談をすませ、京都に立ちよって法人の手続きをすませようとした。ところが印形が一つ足りなかったので手続きができず、木下に印形を取りに綾部に帰らせ、会長は京都にしばらく滞在して布教にあたっていた。ところが、いくらまっても木下はもどってこなかった。木下の帰りをまっている会長のところへ、京都の役員らがたずねてきて、会長に、京都の稲荷下げや交霊術者の霊力をためしてみてはどうかといいだした。会長も仕方なく、あちこちと稲荷下げをたずね、片っ端から霊縛していたが、伏見の横内に青柴つゆという稲荷下げがいて、その評判が高いというので、そこへ松井元利(権少監督)・杉浦万吉(取締)・田中善吉(副社長)・時田金太郎(副社長)・三牧治三郎とともにでかけた。青柴がでたらめをいうので、同行した者が新聞種にするといじめていると、この日はちょうど祭礼の翌日で村の若者が集まってきており、会長をやっつけてしまえということになった。そのうちに岡田良仙という坊主あがりのならず者をよんでくる者があって、大騒ぎとなったが、巡査が駆けつけてきてしずまった。会長は、京都の金明霊学会魚店会合所西村栄太郎方へおちつき、侠客いろは幸太郎のはからいで、子分の山田重太郎(祇園会合所の社長)の供で綾部へ帰ってきた。すると上田会長の荷物は、またまた、みんなくくって片付けてあり、四方平蔵・中村竹蔵らが、世を乱すような者はでていってもらいたいといい出した。
 そうこうしているうちに、警察署から開祖に呼びだしがきた。会長が上杉の駐在所にいってみると、開祖を無理やりに訊問所へ入れようとしているところであった。会長は、開祖を入れないようにたのむと、警察側では、開祖が村の規則を破って女人禁制の山をけがし、宮の錠前をちぎってこもったのは規則違反だから、罰金を出せという。そこで会長は「明治五年の太政官布告(神社・仏閣の地の女人結界の禁止)によって、日本全国の霊山の結界はとかれているから登山しても差しつかえない」と説明し、宮の中へ入ったのは、神主に内々承諾をえているのだから、問題にならないと反駁した。そのため警察の方でもどうすることもできなかった。
 開祖は下山してから後も、六畳の別荘にこもって筆先をかき、一〇〇日間も岩戸ごもりの状態がつづいた。

〔写真〕
○中の宮 第一次大本事件で破壊された本宮山神殿の材料でつくられている p237
○みそぎをされた滝 p238
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