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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第6章 >4 沓島ごもりよみ(新仮名遣い)
文献名34 沓島ごもりよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-07-28 21:03:01
ページ253 目次メモ
OBC B195401c164
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本文  一九〇五(明治三八)年五月、開祖は沓島ごもりをおこなった。日露戦争の最中のこの行は、とどめの行、すなわち開祖にとっての最後の出修であった。
 この出修の目的については、筆先に「こんど変性男子が沓島に行ってくれたのは、まことに結構なご用でありたぞよ。変性男子の行のあがりでありたから、こんどの沓島での行はつらい行でありたなれど、とどめの行と世の元のご用とでありたから、なかなかご苦労なご用でありたが、こんど出口なおが沓島へ行ってもらわんと、世に落ちておる元の生神は表になる事ができんので……」(明治38・旧5・5)と示されている。
 はじめには今度の出修の行先きも知らされず、供をつれてゆくことも許されなかったが、役員たちが心配して、しいてお願いした結果、お供は後野市太郎(二三才)と大槻伝吉(二八才-開祖の三男)の二人とされた。それらの相談を会長が知って、六八才の開祖の老いた身を案じ、開祖にたずねたところ「若い者二人を連れて行くから心配しなくてもよい。会長は坤の大金神となって、神妙に留守居をしていて欲しい」という答えであった。会長は『道の大本』に「国家のために生神に面会とやら、大望あるゆえ出口が行きて艮めをさすとか……全然夢の如きお話にて小生は心やすからず老いたる義母を行先も知れぬ処へ出しおき、後に安閑として気楽にうちすぐるにしのびず」と記しているように、今回の出修を心ひそかに案じていたのである。
 開祖は五月一四日(旧四月一〇日)大槻と後野の二人を供とし、午後一〇時役員・信者に送られて綾部駅(一九〇四年一一月福知山-舞鶴間の鉄道が開通し綾部駅が設置された)を出発した。一行は、舞鶴の大丹生屋で船をやとい、船頭は田中岩吉と橋本六蔵であった。その夜一一時沓島へ向けて漕ぎだし、翌一五日午前八時ごろ冠島へ到着した。そして老人島神社に礼拝したのち、ただちに沓島へ渡った。このときの携帯品は半紙一〆・筆・墨・種油一升・燈心・火くち・燧金に三人分のござ・笠・茶わん・さじ・および食糧として煎り米二升・麦粉二升・籾米二升・砂糖一斤などであり、水は竹筒(直径三寸五分、長さ一尺六寸)にいれられていた。これは市太郎の父滝三郎が真倉から舞鶴へ届けたものである。
 開祖は船中で船頭にむかい「たいへんご苦労でした。二〇日たってから迎えにきてもらいたい。もしそのとき姿がみえなかったら、さらに二〇日して迎えにきてほしい」と話した。船頭らは「この島には大きな長物がいるというので、昔からおそれて人がきたことがない。そのうえ水がないので、五日はおろか一夜も寝ることはできません」といったが、開祖は「神様が四〇日とおっしゃるから、どうしても四〇日はおらねばならん」といい、前回上陸した場所へ船をつけさせ沓島についた。そこで船頭は仕方なく、うしろをふり返りながら舞鶴へ帰っていった。
 このころ沓島は、自然ばえの菜種の花ざかりであった。島の頂上にひくい椿が八畳敷ほどおおい茂っており、木の下は落葉がつもっていたので、そこを寝所にしようとしたが、開祖の毎日の水行に不便であり、途中が危険なので、ちょうど格好の禊場がある近くの岩のうえにやすむことになった。開祖はその岩のうえの方にある屏風のような岩に神名をかき、岩のくぼみに燈明をあげて礼拝をすることにした。それより開祖は、毎日禊をしては一心に祈願をこらし、筆先をかいた。若い二人は薪を集め暖をとることぐらいが日々の仕事であったが、日がたつにつれて、食糧がすくないため空腹を感じ、海岸にでて若布や貝類をとって食べていた。しかし水が少ないので、のどが渇いてたえられなかった。ある日のこと、たき火にしようと椿の枝を折り束ねて下に投げおろすと、あやまって海中に落ち、沈んでしまった。後野はこれをとろうと工夫しているうち、意外にも岩間から一ヵ所清水がしたたっているのをみつけた。喜んでそのことを開祖に話すと、開祖は神様からいただいたのであると、さっそくお礼の祝詞を奏上された。
 その後、水は毎日竹筒に一杯ずついただくことができるが、食物には限りがあった。このころ大槻はまだ信仰がなく、たびたび空腹をうったえて開祖を困らせ、鳥の卵を食べることを許してもらった。なお、開祖は自分は食べなくてもよいからと、自分の食糧を二人に分け与えることにした。沓島にきて一〇日目のこと、開祖は空腹にたえかねている二人のうしろ姿をみて憐れに思い、「自分一人なら十分の行もさせてもらえるが、しかし神様はほぼご用も済んだようにおっしゃられる。皆で帰らしていただくようお願いをしよう」ということであったので、二人は開祖のそばへより、ともに祈願をこらした。このときにわかに大風雨となったが、やがて祝詞もおわるころ、開祖は一声「ご苦労」とさけんだ。すると間もなく風雨がやんだ。あとでこのことを両人が開祖にたずねると、竜宮の乙姫がアリアリとあらわれたとのことであった。このときの模様を筆先には「明治三十八年には出口なお七十才(数え年)で後野市太郎、なおの六人目の伝吉と二人のお供で、出口なおの行の終結と、世の元のご用ができ結構なことばかりである。あのお光りは世の初まりの結構なお光りでありたぞよ」(明治40・旧7・11)とかかれている。
 開祖は、「これでご用も済んだから明日は船をよんで帰らしてやる」といわれたが、翌朝早く後野が人声がするというので、大槻が岩の端へ出て見ると、六、七艘の若布とりの船がきていた。大声でよんだが風下だったので聞こえなかったのか、岩の影にかくれてしまった。しばらくして別の船が一艘きたのでそれをよびとめ、その船にのって、その翌日の五月二五日舞鶴へ帰った。舞鶴からは徒歩で真倉に立ち寄り、汽車でその日の夕刻無事帰綾した。
 『道の大本』によると「漁師どもは三人を露探とみあやまり、警察へとどけるやら丹後の浦々は大騒ぎ、ついに大浦村のいのち知らずといはるる船頭二人もて、取調べのために小鳥の卵とりとなりて来たり……」とあって、当時は日露戦争の真っ最中で、バルチック艦隊をウラジオに回航してくるというので、国内が騒然としているときであった。
 開祖が沓島より帰って二日目の五月二七日、日本海大海戦があり、バルチック艦隊は全滅して日本の勝利となった。
 のちに筆先に「明治三十八年四月の十日(旧)に参拝さして、出口なお行のしまいと世の元のご用をさしたが、昔から人の行かれなんだとこを開かして、お水の無いとこまでもお水をさずけるし、二どめの世の立替えの元のご用でありたから、この世がでけてから、また無きことをさしたぞよ」(明治40・旧6・29)とあり、開祖のこの沓島ごもりは、開祖にとって最後の荒行であり、世の立替えにつらなる大事なご用であったとされている。おなじ筆先に「この先きは、なるべくは沓島を開きに参りた日に参拝いたしてもろうて、お光りを元の生神にお供えをいたしてくれ」とあり、また「この先は毎年ご恩を忘れんために、綾部の竜宮館の高天原から、身魂の洗濯のでけた身魂に使われておる肉体を連れて、参拝をいたすぞよ」とあって、毎年旧六月八日に沓島・冠島へ参拝することになった。近年は日本海に面する舞鶴の国見山※から、毎年六月八日に遙拝をおこなっている。

※国見山(舞鶴市瀬崎小字芦谷八三番地)は、一九四六(昭和二一)年四月三日、聖師・二代教主が大丹生支部(舞鶴市)巡教の際、この山に登り、沓島・冠島を遙拝して以来、遙拝所とされていたが、瀬崎在住の富永喜太郎が同所一〇四二坪を管財局から払下げをうけて、大本へ寄附をし、一九五七(昭和三二)年四月一八日登記をした。

 なお大槻伝吉※は、沓島で乙姫の神影をかいたが、その後開祖からその揮毫を許され、乙姫の神影をかいて信者に授けることになった。

※大槻伝吉は、一八七七(明治一〇)年、開祖の三男として生まれ、三才のころ大槻鹿造の養子となった。幼少のころ、機工場につとめた経験から、後年綾部の神苑内で機織場の指導にあたった。一九三九(昭和一四)年三月七日、六二才で帰幽した。

〔写真〕
○〝りう九゛んのおとひめ〟りうぐんのおとひめどのお あらわせにまいりたおり でぐちのじちのでんきちに おすがたおかきのこさすのであるぞよ へんじよなんしのみたまぞよ p253
○沓島の上陸地点と出修の地 p254
○出修の記念碑 p255
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