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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第1編 >第7章 >2 会長の研鑽と綾部の苦況よみ(新仮名遣い)
文献名3皇典講究分所入学よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ277 目次メモ
OBC B195401c1721
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本文  これまで上田会長は、行政の干渉にたいして、信仰の自由を楯に活動をつづけてきたが、公認をえていないため集会もゆるされず、布教はいよいよ困難となった。そこで会長は、なんとかして公認教としての法人組織をつくり、官憲の圧迫をのがれて、自由に布教活動ができるようにしたいと日夜苦慮を重ねた。
 そのころ、開祖や役員たちと対立しながら、忍苦の生活をつづけていた会長は、とうとう一九〇五(明治三八)年三月二八日、綾部をとびだし桧山の坂東宅・園部の浅井宅・南陽寺・木崎・亀岡をへて王子の栗山宅へと転々とし、四月二日には王子から老ノ坂の峠を越えて、嵯峨の供川弥一郎宅につき、四月五日まで滞在した。会長は京都附近の信者や知人の家を泊り歩き、治病で入信者を得ることはできたが、しかし、綾部から来た役員に先き回りされて布教を邪魔されたために、布教活動は思うにまかせず、ほどなくしてふたたび綾部にもどった。
 そこで、一九〇一(明治三四)年ころにも関係のあった稲荷講社に連絡をとり、一九〇六(明治三九)年四月一日には、駿河の稲荷講社総本部から、改めて講名公称の認可書をえて、金明霊学会は稲荷講社の傘下で斯道学会と公称することになった。
 同年九月、会長は、京都の皇典講究分所、国史・国文科(京都国学院の前身。当時は京都市一条通り烏丸西入に所在)に入学をした。
 出口すみは『つきぬおもいで』のなかで「聖師さまは皇典講究所へ入って、一時神主にでもなって、時節を待つとおっしゃって、わずか五銭の金を持って京都に上られました。そのとき私は須知山峠まで、直日ともう一人の子を連れて見送りましたが、聖師さまは大変子ぼんのうでして、五銭の金の中から二銭でお菓子を買うてやり、たった三銭だけ持って立たれました」と語っている。
 会長の入学は、京都にはじめて学校らしい神職養成機関が設置された時で、その第一期生としての入学であった。会長としては、神職としての資格をとり、宗教活動の合法化の道を得ようとすることが、講究所入りの重要な目的であったようである。
 同年一一月には、国史・国文科内の生徒間に組織された文芸クラブ秋津会の幹事に推され、月刊雑誌「このみち」の主筆となって、文筆をふるった。このころは、印刷物が唯一のマスコミにちかく、新聞・雑誌は思想伝達の主役を演じていた時代であった。
 翌一九〇七(明治四〇)年三月三一日、会長は半ヵ年の課程をおえて皇典講究分所教育部(同年から教育部と改称)を卒業した。その直後の四月五日には「このみち」拡張のため1ヵ月の予定で京都管内を巡回するなど、卒業後もなお秋津会の発展のために尽力した。こうしたことから、思想伝達の手段として印刷物を活用することを体得したが、その後会長が宗教活動で、たえず印刷出版に力を入れるようになったのは、このときの経験をひとつの参考にされたのでもあろう。
 当時の講究所の学生気質は、いくら寒くても、寒いと口にはださず、暑くても暑いといわなかった。ことに当時の会長の生活はずいぶん苦しい生活であったが、苦しいなどという弱気はすこしもあらわさず、真理を探究するところに燃えたぎっていた。
 同学であった尾山神社の厚見は、当時の会長について「『古事記』や『日本書紀』に精通しており、論文を書いても、絵でも、書でも、なにをやっても非凡であった」と語っており、また、菟橋神社(石川県小松市)の上田正宣は「木綿の着物に縦縞の短い小倉袴をはいてきたが、手にはいつも、本をつつんだ風呂敷包をかかえていた」といい、国学の研鑽に精励した。一九〇二(明治三五)年ごろ親交のあった大石凝真素美との学問的交流も、会長の勉学の素地をつくっていた。

※大石凝真素美は一八三二(天保三)年に伊賀国上野に生まれ、一九一三(大正二)年四月一一日に八一才で帰幽した。その著に『弥勒出現成就経』『天地茁貫の極典』『真訓古事記』などがある。

 会長は卒業するとすぐ、四月八日より三日間にわたる京都府庁の神職尋常試験を受験し、四月一五日に合格して第一号証書を下付された。そして、五月三日には京都府より別格官幣社建勲神社の主典に補せられ、同時に二級待遇、年手当金三〇円給与の通知がきた。会長は、在職中も大本の信者と連絡をつづけ、たえず教団組織の発展を考えていた。
 このころも会長は、説教をすることが好きで、あちこちの個人の家へいっては説教をしてまわった。あるとき、宿直の夜にそっと外出して説教にゆき、あとで、そのことが、宮司にわかって叱られたこともあったという。その当時説教を受けた人々や、かねて会長にこころをよせている信者が、つぎつぎに神社へ会長をたずねてくるようになった。
 これが宮司の気にさわって、宮司から、会長は官幣社の尊厳をきずづける行為として叱責された。官幣社のつとめが窮屈になってきた会長は、同年一二月建勲神社を辞任した。

〔写真〕
○須知山峠をこえて会長は研鑽の途についた p277
○皇典講究所 1882-明治15年に開設(東京) その後京都に分所が設けられた p278
○試験成績表 p279
○建勲神社(上)全景(下)奉職のさいの報告祝詞 p280
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