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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第3章 >2 教勢の発展よみ(新仮名遣い)
文献名3亀岡大道場よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2018-11-12 02:20:06
ページ446 目次メモ
OBC B195401c2324
本文のヒット件数全 8 件/亀山城=8
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本文  一九一九(大正八)年の一一月一八日、大本は亀岡町大字荒塚小字内丸(現亀岡市内丸町)の亀岡城址の一万三五〇〇坪の土地に関する買収契約をなし、一二月六日に登記をおえた。
 亀岡はもと亀山といっていたが、廃藩置県のとき、亀岡と改称されている。
 太古は亀岡地方はおおきな湖水となっていたようで、亀山城のあたりはその丘陵地であった。口碑のつたえるところでは、大国主命が保津川を掘り、流水の便をはかったという。また一説には、丹波とは「赤い波」の意で「あかなみ」=丹波といったともいう。慶長年間に、角倉了以が保津川をさらにきり開いてその流通をはかった。
 亀山城は明智光秀の築城になるもので、当時は天下五城のひとつに数えられたといわれる。明智の没後、幾多の変還をへて、幕末にあっては松平家の居城となっていた。明治に入って貴族院議員であった田中源太郎らの所有地となったが、大本が入手したときは、天主閣はもちろん城の石垣までが売り払われて、狐狸がすむほどに雑木雑草が生いしげり、すっかりあれはてた状態になっていた。かつて王仁三郎は、〝吾がために何かゆかりのある如くなつかしかりし亀山城趾よ〟〝ひまあれば亀山城趾にしのびゆきて無言の銀杏といつも語れり〟とよんでいるが、ありし日の亀山城の雄姿が、いつも王仁三郎の心をひきつけていたものであろう。
 一九一九(大正八)年の一一月一八日、王仁三郎は青年隊員二人に早馬の用意をさせ、古くから謡われていた「福知山出て長田野こえて駒を早めて亀山へ」の民謡そのままに、福知山から長田野をのりきり亀山城へと疾走させた。そして自分は汽車で亀岡につき、城址でおちあい、ただちに所有者と買収の交渉をした。この日は京都府が農業学校の指定候補地として買収の交渉をしていたが、折り合いがつかず、土地収用法を適用する最後の段階にあたっていた。その日夕刻、王仁三郎ゆかりの穴太小幡神社の社務所で買収の交渉がまとまり、城址一万三五〇〇坪を三千円でゆずりうける契約が成立した。たまたま東尾吉三郎が、綾部へ参拝をかね献金するために持参していたのが、契約金にあてられることになったのである。
 大正九年一月一日号の「神霊界」には「王仁随筆」として、

神諭に梅の局と松の局の御脇立といふ事がある。松の局とは……地の高天原、竜宮館の松の大本の教壇であり、梅の局とは皇道宣伝発揚の教壇である地場の名称である。松の大本は神界経綸の基礎が稍固まったので、弥々梅の局の経綸に着手せねば成らぬ時期に向ふて来ました。亀は鏡である。鏡は言霊学上の梅である。又透明無欠の神教である。故に皇道大本の神教を普く天下に宣伝するため、三百余年の昔、天正の十年に明智光秀が天下を治めた亀山城跡に道場を開設するのは、国魂の関係上、最も適当な神策である。……天の時と地の利を占め、人の和を得たる要務である。……昔から鶴は千年、亀は万年と祝ひ来る、この亀の名に負ふ亀山の万寿園に審判庭なり修行場を設くるは神界所定の真神業である。……梅に因縁深き亀山の万寿園に教の園を開設するは実に神界経綸上機宜に合したものである。

と発表し、四月二七日に山開式をすませて整地のための開拓に着手した。そして六月一三日に亀岡万寿園の地鎮祭を、王仁三郎みずからが斎主となって執行した。その時の「紀行歌」に

世は大正の時は今 天の下梅雨五月空 有職故実に精通し 智勇兼備の名大将 領地は三十五万石 食みし明智の光秀が 武名とどろく名城址 万寿神苑開かむと 斎主王仁副斎主 湯川教監諸役員 神籬建てて厳粛に 土木工事の地鎮祭……千年の松や万寿苑 亀岡城址を開墾し 世界改良神国の 寛けき道を伝へなむ

とうたわれているように、この地が神教宣布と瑞霊の神業の聖地と定められた。そして南側の比較的整理しやすかった一隅に、バラック式の建物がたてられ、そこに亀岡大道場がおかれて、亀岡に在住する幹部の人々によって、修業者のために大本の講話がなされることになった。
 ついで一九二〇(大正九)年の八月には「皇道大本夏期講習会」が開催されることになり、全国にポスターが配布されておおがかりな宣伝活動にのりだした。一方聴講者の便をはかって、亀岡町内に三ヵ所の宿舎が設備された。
 夏期講習会の第一回は、八月五日より一四日までおこなわれ、第二回は八月一六日より二五日までであって、講習科目および講師は、「皇道大意」出口王仁三郎・「日本の国体、皇道大本の教義」浅野和三郎・「天津神算木学」水谷清・「大日本言霊学」水野満年・「皇道霊学」谷口正治・「神諭の権威」今井梅軒・「敬神尊王愛国の根本義」江上無峯・「比較宗教」近藤貞二・加藤明子・「言霊学概論」岩田久太郎であって、このほかに科外講座が聞かれ、出口王仁三郎や丸山貫長らが講師となった。
 九月一四日に、綾部の至聖殿落成式がおこなわれたのを期として、綾部での講座は亀岡へうつされることになり、教務局は「至聖殿落成と共に綾部五六七殿に於ては御筆先の奉読及御神徳に関するお話しに止め、其他の講演は専ら亀岡大道場に於て行はる事に変更相成侯間比段及謹告侯也。」という告示をした。
 亀岡大道場では「天地惟神の大道を体得して、健全なる国民の中堅を養成し以て日本民族の使命を全うせんとする者は、少くとも亀岡大道場に於て数日の修行を積むを必要とす」として講演科目が広告された。それは、「大本の教義」・「大本の沿革」・「大本の神諭」・「大本の信条」・「大本の特色」・「大本の言霊」・「大本の鎮魂」・「大本の霊学」・「皇道大意」・「日本の国体」である。
 こうして亀岡大道場は、大本宣教の聖場として発展することになったのである。

〔写真〕
○寛政時代の亀山城古図 記録には御城南北大手御門外木戸より中ノ島外まで4町6間 古世御門外堀より保津御門外まで3町14間 御本丸建坪1385坪 あき地1326坪 二ノ丸建坪5185坪 西ノ丸建坪29坪 あき地876坪とある 本丸・二ノ丸・西ノ丸がほぼ現在の本部本部の位置 p447
○亀岡大道場 p448
○夏期講習会のポスター p449
○夏期講習会の広告 p450
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