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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第2編 >第3章 >3 積極的宣教よみ(新仮名遣い)
文献名3内地宣教の展開よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ461 目次メモ
OBC B195401c2332
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本文  一九一九(大正八)年一〇月二日、教主王仁三郎は一行六人で綾部を出発した。そして三日未明には名古屋に到着、同夜名古屋を出発して東上の途についた。四日には鎌倉に着き、鎌倉御殿とよばれる枝吉熊彦の別邸に入った。翌五日にはこの御殿を「瑞祥閣」と名づけることになり、その周辺の圏内を「瑞竜園」と命名することになった。六日には高橋是清の子息である新八男爵夫妻に面会し、七日には瑞祥閣に大神様を奉斎した。八日鶴岡八幡宮に参拝して、九日に東京へ出向した。このときは中村純也が随行している。ただちに銀座の枝吉の本邸、千駄ケ谷の山田春三邸を訪問一泊し、一〇日は離京した。そして鎌倉の田畑健三郎邸に小憩したのちに西下している。
 王仁三郎の東行を期として、東京では四谷区南寺町七番地(須賀神社「天王さま」境内)に確信会が結成され、一〇月一九日には発会式がとりおこなわれた。そしてその初代会長には浅野正恭が就任した。この確信会が東京における大本宣教の拠点となるのである。
 一一月五~六日には、綾部町で京都府下五郡の青年連合会が開かれたが、この機を逸せず、木島完之・深町泰仁らは、五日に大道演説をこころみて非常な反響をあたえ、翌六日には大本の金竜・銀竜とよぶ二頭の馬に乗って馬上演説をなし、七日には新舞鶴へ、八日には福知山へと進出して、馬上での大獅子吼をなした。
 一一月一八日、浅野・岩田・高木らの三人は前述のように台湾へ宣教の旅に立ったが、一二月には井上留五郎らは東北地方へ、桑原道喜をはじめとする西田・上西・谷村・篠原・木島らの一行は九州へ、吉原亨は四国へと宣教の旅につき、そのほか全国にわたって積極的な宣教がすすめられた。桑原らの熊本市公会堂における講演内容は、「世界の大立替」・「艮の金神と大本の出現」・「鎮魂帰神」などであった。
 こうした前提によってきずかれつつあった宣教活動は、一九一九(大正八)年末から翌年の前半にわたって、ますます全国的に白熱化してきた。一九二〇(大正九)年一月二五日には東京駿河台の明治大学大講堂で、東京最初の大講演会が昼夜二回にわたって開催されている。この講演会は、平松福三郎の開会の辞にはじまり、浅野和三郎ほか五人の講師が演壇にたった。聴衆は堂にあふれるばかりの大盛況であった。二月一五日には、大阪中の島の公会堂で大講演会が開催され、浅野ほか数名の講師が熱弁をふるったが、そのときの聴衆は五〇〇〇人にたっした。さらに東京では二月二二日より二五日にわたり、専修大学および、慶応大学の各講堂や学士会館・有楽座などを会場とする講演会がひきつづきもよおされ、ついで二七、二九日には横浜・横須賀で大講演会がもたれている。
 二代すみ子は、二月二四日にはじめて上京し、数日間滞在して多数の名士や信者に面接した。このような宣教活動の積極化にともなって、本部の講師も一せいに全国各地に派遣され、いたるところで講演会を開催して、国民大衆に大本の道を説いてまわった。
 なかでも吉原亨は、四月中旬より二ヵ月間にわたり、東北六県から栃木・群馬・茨城・千葉の各県を巡回講演し、熱心に大本の道を宣教した。そのときの演題のうちには「敬神尊皇愛国の大道」のほかに「神と陛下と人との関係」・「世界覆滅の大陰謀と大本神諭」・「日本対世界の大戦争」などがふくまれており、その異色ある演説は大きな反響をあたえた。
 全国の新聞が大本攻撃や中傷などに意欲的となるなかにあって、「九州日報」・「愛媛新聞」・「大やまと新聞」(野口如月が関係している)・「茨城新聞」・「北タイムス」などの地方新聞は、好意的な大本紹介の記事をのせたので、宣教にはかえって役立った。
 こうした宣教活動によって修業者も激増し、積極的な宣教の反響もおおきくなり、教勢は急速な展開をみせた。地方機関としての支部・会合所の設置は、一九一七(大正六)年までの四、五年間はせいぜい四〇ヵ所前後であり、その大部分は近畿地方であったが、一九一八(大正七)年から一九一九(大正八)年の一一月にかけては、支部・会合所数も八〇ヵ所に急増し、その範囲も、北は北道から南は熊本にいたる二六の道府県にまたがってゆく。そして台湾にも設置されるという状況であった。その教勢はその後もおとろえなかった。むしろ一九二〇(大正九)年に入るとさらに倍加してゆく。すなわち同年の九月現在においては、その数は一四八ヵ所となり、わずか九ヵ月間に六八ヵ所の急増をみ、台湾に二ヵ所、さらに沖縄にも一ヵ所が新設された。その分布は全国三五道府県におよぶにいたるのである。一八九二(明治二五)年、丹波の綾部に誕生した大本は、こうして地方的な教団から、教主・役員・信者の努力によって発展をとげ、ついに全国的な教団へと成長したのである。
 大本の信者数は、一九二〇(大正九)年初期のころは「信徒十万」といわれていたが、じっさいには、それよりも下廻っていた。しかし大本をある程度理解していた人々は予想以上に多数あり、したがって、これらの理解者が背景となった大本の教勢は、意外に大きく評価されたのである。
 一九一八(大正七)年から一九二〇(大正九)年までの間に、「神霊界」「大本時報」に掲載された「入信の経路」の四五例を分析してみると、予備役をふくむ軍人が五例、社会主義から転向した人が八例、立替え立直し・世界統一の主張に共鳴したものが全体の中の一二例をしめていて、立替え立直しと鎮魂帰神によったものが一七例となっている。合計すれば、立替え立直しをめぐる主張に共鳴して入信した数は全体の半数を越えている。これ以外で大きな比率をしめているのは、哲学的または運命論者的な、いわば「人生派」とよぶべき人々の一〇例があり、病気直しによる入信は、わずかに二例にすぎない。年令的には、二〇才から三〇才台の人々が全体の過半数をしめており、当時の大本は青壮年層に大きな共感をあたえたことが推定される。
 このほか体験を手記として発表する機会のなかった農村の人々は、現実には多数をしめているのであるが、大本七十年史の編纂にさいして実施した「入信の動機」に関するアンケート調査の結果をみても、この時期に入信した人々の職業でもっともおおいのは農業であって、前にも若干ふれたように、大本の教義や立替え立直しに共鳴した人々が多数をしめている。そして現存者の回答二九一例のなかで、この時期に入信した人々の学歴は、中学校卒業以上は全体の約三〇%をしめ、年令も二〇代から三〇代のものが全体の約五六%をなしている。そして入信理由は、全体のなかで、大本の教義・立替え立直しの主張などに共鳴したものが約五七%をしめ、病気直しによるものは、わずかに一一%にすぎず、その大勢は、「神霊界」や「大本時報」による分析とかわりのないことが判明する。
 このように急速に教線がひろがっていった背景には、大きくゆれ動く吋代の動向があったことを見のがしてはならない。大正期には日露戦争の時期よりも、国際的・国内的に社会的矛盾がいっそう激化しつつあった。したがって、社会経済のゆきづまりと政治の不安は、大本の立替え立直し思想と、神による経綸と救いを主張する大本の宣教にとって、好個の地盤となった。大本はこの時代の動きにのって、地方的な教団からいちやく全国的な教団へと発展をとげえたのである。社会変動のなかで、世の変革をねがう人々と、これにこたえた大本の教説との間には、時代と大本との深い結合があった。
 日露戦争の時期に、信者たちが立替え立直しきたれりとしてとらえたのは、ただ戦争という国をあげての非常事態を、素朴に立替え立直しの現実だとして解釈したものがおおかった。それにたいして、大正期における立替え立直しのとらえかたはどうであったか。すなわちし大正期にあっては、欧州大戦という歴史的大戦争だけにとどまらず、国内外の社会の変動が直接的に立替え立直しに結びつけられ、政治・経済・思想など、現実社会の一さいの現象が立替え立直しとして解釈され、複雑多岐にわたる具体的な社会事象をとりあげて、立替え立直しの内容としたのである。したがって社会の変動は、ことごとく神の経綸にもとづくものと解され、それが神政成就の前提であって、人民は社会の変動をみて、神の予言警告と悟り、改心して神意に従うべき絶対絶命のどたん場になったのであるというようにうけとめられたのである。
 大本は、「レーニンの過激思想、ウィルソンのデモクラシー、米の暴騰、職工のサボタージュ、世界感冒の流行等、皆悉く立替えの大潮流がもたらしてものであり、今ぞ我等が叫ぶべき秋、戦うべき秋、現在の一瞬は後の十年百年に相当して貴重」(「大本時報」大正8・10・5)のような変動期の社会現象を、立替えの大潮流がもたらすものとしてとらえ、大本神諭の断片を、それぞれの社会事象と結びつけて、あるいは文書によって、あるいは口頭で宣教活動を展開した。したがって、身近かに立替え立直しがせまってきているという訴えは、変動期にあった国民の大多数に強い感銘をあたえ、大本の宣教がおおきな効果をあげえたのである。
 しかし、信者の立替え立直しのうけとめ方については問題があった。神の意志にもとづく立替え立直しの内容とはなにか。それは現実世界の変動による社会改造や、世界歴史の変革だけを意味していたのか、どうか、という点にかかわっている。従来の社会や歴史が一変して、あたらしい社会が出現するということの内容も、当然立替え武直しの意義にふくまれてはいたが、大本のいう立替え立直しの内容は、根本的には、神幽現三界にわたる立替え立直しを意味していた。霊魂界の改造という側面も内包されていたのである。ところが信者のおおくは、身近かな現実界の変革にのみとらわれたり、時代の動揺を敏感に立替え立直しに結びつけたりした。そしてそれが神の意図だとして、本質的な霊魂界の改造を軽視し、あるいは忘却していたうらみがあった。そのために、時代がはげしくゆれ動くときには「時来れり」と活動するが、時代の動きがやや静まれば、活動意欲がうすらぐという傾向がないでもなかった。

〔写真〕
○確信会事務所 東京 p462
○幹部総出動で大本の全国的宣教は白熱化した 浅野・高木・谷村・吉原東北へ─仙台 王仁三郎・浅野・井上・高木・栗原・岩田山陰へ─鳥取 篠原・木島・谷村・深町九州へ─鹿児島 p463
○東京確信会の幹部と信者 p464
○東京・大阪大講演会の講演要旨 p464
○地方の信者たち 四国・新居浜 p464
○二代すみ子 p465
○大やまと新聞 p466
○現勢 1920─大正9年9月現在の支部・会合所の設置状況 1918─大正7年以降大本の教勢は急速に発展した p467
○世相を反映した月刊誌の広告─大正中期以降 p469
○はげしい宣伝はつづけられた 大本時報 p470
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