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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第3編 >第1章 >1 事件の背景よみ(新仮名遣い)
文献名3事件の背景よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ516 目次メモ
OBC B195401c3112
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本文  事件の真因を理解するためには、事件勃発にいたる過程をたどるまえに、その前提として、事件の背後によこたわっている、当時の歴史的な状況をみておく必要がある。
 大本が爆発的な成長をとげた一九一六~一七(大正五~六)年頃から、事件の発生した一九二一(大正一〇)年頃までの数年間は、いったいどのような時期であったのか。この期間は、日露戦争後の入超継続と外貨利払い負担によって正貨が流出し、恐慌状態にあった日本が、第一次世界大戦を契機に空前の大戦景気をむかえ、輸出が急増し、債務国から一転して債権国となり、化学・機械・金属を中心に世界有数の資本主義国に発展していった時期にあたっていたと同時に生産工場規模の増大、それにともなう労働者の急増、物価騰貴などによって資本家と労働者、地主と小作人という階級対立がはげしくなっていった時期でもあった。その最初の爆発が米騒動である。
 米騒動の最中に寺内軍閥内閣は倒れたが、この従来の小作争議や労働運動の規模をはるかにこえた民衆運動のたかまりが、原敬内閣という政党政治出現の端緒をひらいたのであった。米騒動は為政者をふるえあがらせることもに、資本主義社会の矛眉がいかに深刻なものであるかを明らかにした。そして一九一九(大正八)年には、流行性感冒が猖獗し一五万人余が死亡した。労働運動は質・量ともに発展し、労働争議は散発的なものから組織的な形態へと成長し、労働組合が結成されて統一行動がとられるようになった。一九二〇(大正九)年にはわが国最初のメーデーが実施され一万人が参加している。
 労働者の要求は賃上げから八時間労働制要求へと発展し、全国にその声はあがっていった。こうした傾向に対処するため政府・資本家は協調会をつくり、あるいは床次内相は、宗教家から博徒の親分までを招集して対策をこらし、大日本国粋会などをつくって、側面から労働運動への抑圧をこころみた。
 改称したばかりの大日本労働総同盟友愛会の指導のもとに、足尾銅山・川崎造船所・東京市電などのストライキが続出し、ことに労働運動史上において有名な、官営八幡製鉄所三万人のストライキ(大正九年二月)などがおこった。この争議によって、ついに溶鉱炉の火が消えたために、国粋会・警察・憲兵隊がその鎮圧にのりだしたのだが、この争議が、社会全体の思恕にあたえた影響はおおきなものがあった。「天佑」ともうけとられた大戦による産業界の飛躍発展もながつづきはしなかった。大戦が終了することもに、やがて不況がおとずれはじめる。そしてついに一九二〇(大正九)年の三月には、戦後恐慌がおこってきた。これは世界恐慌につながるものである。主要商品の価格はいっせいに値くずれを示し、生糸や綿糸は三分の一以下の値となった。金融はひっそくし銀行取付けさわぎがおこった。その数は一六九件にもおよび、大商店の破産は二八五件と報告されているほどである。とくに軍需にもとづいて発展した重工業の不況はいちじるしく、三〇~四〇%の設備遊休となった。農産物価も急速に下落し、対米輸出に依存していた養蚕農家も繭の値段が半分になって苦境におちいった。慢性的な農業恐慌がつづき、富農もまたおおきな打撃をうけた。恐慌が深刻化するにつれて農民運動も頗発し、地主層と小作農民との衝突も各地ではげしくなってきた。
 大逆事件いらい、はげしい弾圧のなかにあった社会主義思想もあらたな活動を開始し、一九一九(大正八)年には、河上肇の個人雑誌である「社会問題研究」や雑誌「改造」などが創刊された。さらにこのころになると、天皇制にたいする批判もつよまってくる。共和制の主張や皇居の焼却をさけぶものがあらわれ、大正時代における不敬事件は一三六件をかぞえている。そうした動きに対応して、赤化防止・国粋保存を目標とする大正赤心団などの右翼団体も誕生した。こうした動向を反映して「改造」や「解放」という言葉が思想界の流行語となり、「社会改造」さらには「大正維新」というような問題についての関心が、かつてみられないほどにたかまってきた。
 政府はこのような事態にたいし、どのような態度をとったのか。一九一八(大正七)年の五月には、全国警察部長会議が召集されたが、その席上検事総長平沼騏一郎が、新聞や雑誌のとりしまりについてのベた訓示の一節(「警察協会雑誌」二〇一七号)は、当時の社会不安の現実にたいする支配者層の焦慮と、思想弾圧への覚悟のほどを端的に物語っている。その一節には、

思想及び言論の自由は、深くこれを尊重す可く、軽々しく制抑を加ふ可きに非ず。従って新聞紙雑誌等出版物の記事に関する取締りに付ては、特に慎重の考慮を要するや言を俟たざる所なり。然りと雖も出版物の記事は冥々の裡に世道人心に影響する所大なるを以て、之が取締りを放漫に付するときは、其弊や測り知る可からざるものあり。故に能く其内容を精査検覈して其感化の及ぼす所奈何を考察し、苟も其規を踰え安寧秩序を害するが如きものに在りては、固より之を寛仮することを得ず。殊に輓近我国の思想界は世界の変局に伴いて異常の衝撃を受け甚しく安定を欠くものあり。為に往々異常の流風習俗に適応する言説又は事例を引き、我淳美なる国性民情を蔑視するが如き記事を見んとするの傾向なしとせず。而して此種の記事たる必ずしも明白率直に其趣旨を表わすことなく、巧妙婉曲に之を諷喩せんとするものなきに非ず。故に各位は特に此等の点に留意し、其内容にして国本を害するの虞ある事項を包含するものの如きは、其題号又は立論の形式又は行文措辞の如何に拘らず、必ずや厳に之を糾弾して毫も仮借することなきを要す。

とのべられている。このように「国本」を害するおそれあるものは、「題号又は立論の形式又は行文措辞の如何に拘らず」とりしまるべきことを指示しているのである。
 また政府が思想問題をいかに重視し、生活問題や宗教問題における国民の動向にも注意をはらっていたかは、つぎのような原敬首相の「日記」(『原敬日記』九巻)にも明瞭に示されている。

大正九年十月九日
……思想問題に言及したるに因り、余は一利一害は免かれざるも、学者の議論として仮借する事を得ざれば、青木某の皇室に対する論議に対し起訴せしめたりと告げたるに、山県適当の処置なりと賛成したり。なお余は我邦宗教の力は殆んど全滅したる結果として大本教の如きものすら蔓延する勢なれば、耶蘇教の如き近来非常の勢を以て伝播せり。この点よりすれば日曜学校の大会を東京に開きたるが如きは、さらに其勢を添うるものなるべし。而して儒教、仏教皆日本化したるが如く、耶蘇教も日本化する様子なりしも、何分外国宣教師によりて宣伝さるると、又欧州大戦の影響として人心の動揺を来たしたる際なるに因り、将来如何なる情況を呈せんも知るべからず。斯くの如き形勢なる、独り教育の力をもってのみ人心を指導せんとするは、実に至難の事業なり。併し何とかせざるべからずと考へ講究中なりと云ひ置きたり。……

大正九年十月十四日
……大谷光瑞来訪(西本願寺派老衲某より奥繁三郎により、外遊のみせず本邦におる事に注意を望むとの願もありたれども、余は夫れよりも彼に宗教界における意見を求めんが為、上京を機とし床次内相に伝言して招きたるなり)、余より我国宗教は殆んど滅亡せりというも不可なし。故に天理教にでも大本教にでも何んにでも忽ち人心を得るの情勢なり……。憂慮に堪へず。而して人心の動きは実に容易ならざる現況なるが、教育の力のみに因りてこの人心を穏健に導かん事固より至難なるのみならず、その教育家自身も宗教家と大同小異の様に思はる。政府の力には限りあり。人心の変化に対し刑罰のみをもって臨むことの不可なることは勿論なれば、この際人心感化の為めに尽力しては如何と言ひたるに、光瑞極めて同感を表したるも、現在の僧侶の外に立って人心感化の方法を取らんには、人物と金とを要す。金は如何にか相成るとするも、人には困難す。故に歳月を要す。……

 まさしくこのような状況のなかで、大本は「神霊界」・「大本時報」を中心として、立替え立直しを強調し、「大正維新の断行」を主張して活発な宣教路線を展開していったのである。そしてまたこのような社会情勢を基盤として、大本の活動が数おおくの人々の関心をあつめえたのであった。そのことについて当時活躍した堺利彦は、中村古峡著の『学理的厳正批判大本教の解剖』の序文「迷信的現象の社会的観察」のなかで、つぎのように語っている。

……彼等は頻りに「立替え立直し」といふ専門語を用ひているが、それは丁度、思想界の流行語なる「改造」に相当するものだと思ふ。彼等は又、近々来るといふ其の大変革(若しくは大破壊)の前兆として、疾病、天災、ストライキ等の現に頻発しつつある現象を指摘している。彼等がストライキまでを前兆の一つに数へて、「立直し」といふ巧みな通俗語を用ひ、そしてノアの洪水を思ひ出させる様な救済の希望を説いているのは、余ほど人心に投ずる所があるらしい。私は斯う云ふ迷信的現象を通観して、いよいよ痛切に社会の動揺、人心の不安を感知する。……
若し是等の漠然たる(然しながら切実熱烈なる)救済希求者が、別に明白端的なる純物質的の、而も全社会的の、政治経済救済法を知った時、如何なる熱情を示し、如何なる決意を為し、如何なる態度行動に出るであらうか。私は略ぼそれを想像することが出来る。……

 大本が、日本の大変動を予言し、その予言を信じて、多数の知識人や軍人などがつぎつぎに綾部へあつまるのをみて、「痛切に社会の動揺、人心の不安を感知する」のは、平沼の訓示や『原敬日記』に示されているように、米騒動いらいの深刻な社会問題の対策に心をなやましている政府それ自身であった。救済を求めて大本にあつまる人々が増加すればするほど、信者が「純物質的の、而も全社会的の、政治経済的救済法を知った時」どのような行動に出るかを想像し、それをおそれるのである。

〔写真〕
○米騒動─京都 (上)軍隊の出動 (下)街角のビラ p517
○民衆運動のたかまり 京都岡崎公園での普選運動労働者大会 p518
○改造についで 種まく人が発刊された p519
○原敬日記 p520
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