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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第3編 >第1章 >1 事件の背景よみ(新仮名遣い)
文献名3民間諸宗教への政策よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ523 目次メモ
OBC B195401c3113
本文のヒット件数全 2 件/教祖=2
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本文  つぎに政府の宗教政策、とりわけ民間諸宗教にたいする政策にふれておこう。
 第一次大本事件にみられたように、教祖が逮捕されたり、祭壇が破壊されたりするのは、明治以来の新興諸宗教の歴史においては、なんら特殊なできごとではなかった。大本に先行する天理・金光・蓮門・丸山各教や、本門仏立講などの諸教団もまた、大本と同様に、淫祀邪教として圧迫され弾圧された歴史をもっている。たとえば天理教の場合は、一八七三(明治六)年に「梓坐市子竝憑祈祷狐下げ等ノ所業禁止」(教部省達第二号)にもとづいて最初の弾圧をうけ、つづいて一八七四(明治七)年には、私邸内神仏の「衆庶参拝禁止」(同第三八号)によって祭壇を破壊され、一八七五(明治八)年には同じ理由で教祖中山みき以下、信者までが警察に留置された。一八八〇(明治一三)年には、布教活動を合法化するために、真言教寺院の一講社となり「転輪王講社」をつくったが、それにもかかわらず干渉と圧迫がつづけられた。とのように、明治政府は、民間で自主的に形成された新宗教にたいしては、一貫して弾圧の方針をとりつづけてきた。
 それでは、これらの民間諸宗教はなぜ弾圧されたのであろうか。その最大の理由は、戦前の日本には、真の意味での思想や信教の自由が確立していなかったことにある。
 一八七〇(明治三)年、明治政府が、まず最初に施政方針として、天皇を中心とした「祭政一致」を宣言していらい、その宗教政策は一貫して国民の信教の自由を否定して、天皇の地位を神聖ゆるぎないものとするために、国家神道を樹立し、その崇敬を国民の義務として強制することに向けられてきた。
 太政官の上位においた神祇官に全国の神社・神職を所属させて、これを政府の統制下に置き、主要神社の社格をさだめて神仏の分離を強行し、神道国教化の政策をおしすすめたのもそのためであった。そして、神道国教化の政策が、信教の自由を求める民衆の抵抗、僧侶の反抗、そしてキリスト教抑圧にたいする諸外国の攻撃にあって、挫折したのちも国家神道の確立という方向がつらぬかれた。すなわち、一八七二(明治五)年に創設された教部省は、廃止までの五年間、神道・仏教・儒教そのほかあらゆる宗教や哲学を運用し、全国の神宮・僧侶・知事・副知事・区長・戸長、俳諧師・落語家・講釈師などを総動員して大教宣布にもとづく敬神愛国・天理人道・皇上奉戴・朝旨連法を教化内容とする、国民教化の運動を展開した。一方、一八七一(明治四)年には中央集権的な神社制度を確立し、伊勢神宮を頂点として官幣社、国幣社、府・藩・県社、郷・村社、無格社の社格を定め、歴代の天皇・皇族および忠臣を祭神とする神社を新設した。そして氏神その他民間の信仰にねざす神々を祭神とする神社を整理合併して縮少した。これらの措置によって、氏神の氏子である国民大衆は、あらたに天皇の氏子として組織されるようになり、「現つ神」としての天皇に結びついた国家意識にくみこまれていった。
 このような宗教政策や教化活動以外にも、紀元節・天長節など皇室のまつりを、神社や学校でおこなわせて大衆のなかにとけこませ、天皇の神聖性をたかめる方針がとられた。国家権力と結びついた国家神道が国民の義務として信奉を強制されるところに、真の意味での思想や信教の自由はありえなかった。したがって天皇崇拝と国家神道に背反する可能性を内包する他の一切の宗教には、従属的な地位しかあたえず、さらにすすんでその禁圧を積極的におこなってゆくのである。
 国家神道の成立過程において、天皇に関する神話とは別個な、独自の神を信仰対象とする民間の新宗教が弾圧されたのは、まさにこの理由による。その故に、一八八二(明治一五)年、祭祀と宗教の分離のたてまえから、純然たる宗教として「教派神道」が発足するようになったときに、独立公認宗教として生きのび、合法的に布教活動をするためには、国家の統制に服し、権力との対決を回避して、天皇崇拝と国家神道的な教義とを採用して、国民教化の路線に追従しなければならなかったのである。
 そしてこの事情は、帝国憲法が発布されていちおう信教の自由が承認されたのちにあっても、まったくかわらなかった。「帝国憲法」第二八条には、信教の自由について「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限リニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とさだめられている。それは、「安寧秩序」および「臣民タルノ義務」と矛盾しない限りにおいて認められているのであって、天皇の「神聖」と「万世一系」の承認や、神社にたいする「崇敬」が「臣民タルノ義務」である以上は、これを否定することは許されなかった。
 そして、国家神道のわくをはずれた民間の新宗教の神々を正しいものとして信仰すれば、天皇制がかかげる神々は権威を失墜し、天皇の絶対性を否定する結果とならざるをえないから、国家神道体制による公認宗教以外の新宗教に関するかぎり、類似宗教団体として、その「信教ノ自由」は完全に無視されてきた。神がかりや祈祷を禁じる明治初年の法令は依然として効力をもっていた。またすでに教団となったものには、「教会所説教所等ニ於テ衆庶ニ参拝セシムルヲ得サル件」(明治一四年内務省達乙四八号)や、神社・寺院以外の祠宇・教務所が神符・神札・祈祷札を授与することを禁じる一八九五(明治二八)年社寺局回答第二二号などがあって、たえず官憲の監視をうけ、かつ取調べをうける体制がつくられている。
 大本が前述したように、一九一一(明治四四)年大社教に所属して本宮教会の看板をかかげたのも、警察の干渉がそのころはげしくなったために、それに対応して、合法的に宣教活動を続行するためのてだてであった。
 大正時代になってからも、政府は「宗教及之ニ類スル行為ヲナス者ノ行動通報方」(大正八年宗教局通牒発宗一一号)によって、諸教団の動静を調査していた。
 このようにみてくるならば、前項にのべたような状況下にあって、発展してきた大本にたいして、国家権力からの干渉が強化されてくるのは、ある意味で不可避であった。

〔写真〕
○天皇の神聖を規定した帝国憲法第一条 p523
○神道国教化その普及のために落語家・講釈師まで動員された p524
○神社制度の権威をといた神社局長の論説 警察協会雑誌 p525
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