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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第3編 >第2章 >2 事件の影響よみ(新仮名遣い)
文献名3内訌と凋落よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2020-11-22 11:21:36
ページ595 目次メモ
OBC B195401c3224
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本文  五月一四日、公判にそなえて弁護士選定のための役員会がひらかれた。すでに三月一一日、信者の弁護士である松岡帰豊を介して京都の渡辺昭と契約が結ばれ、五月一〇日には森田茂が弁護士に決定されていたが、この役員会は、弁護陣をさらに強化するためにひらかれたものであった。その結果、二五日には、江木衷・足立進三郎・渡辺・松岡の四名が公判弁護士に決定し、後に控訴訴からは花井卓蔵がくわわることになった。ところがその役員会の席上において、早くも筆先を焼くことについての是非に関する議論が沸騰した。けれども結論をだすことができず、「大本教改良の意見」にのべるところについては、王仁三郎の真意をきいたうえで決定するということで、いちおうその場はおさまった。
 ここで事件当時の教団内の事情をみておこう。教団の体制は、表面的には王仁三郎と浅野和三郎を中心とするまとまりをみせてはいたが、そこに対立がなかったわけではない。それは新旧二派の流れとして具体化しつつあった。すなわち、明治時代に入信した「開祖派」と称する筆先にたいする素朴な信仰によって結集している信者および、二代教主すみ子の姉福島ひさを中心とする「八木派」とよばれた信者のグループと、王仁三郎・浅野和三郎を中心とする信者グループとがそれである。後者の信者層が大正期の大本発展のにない手として、教団をリードしていったことはいうまでもない。しかし、王仁三郎・浅野を中心とするグループも、さらにこまかくみると、つぎのように大別することができる。つまり、王仁三郎を無条件に支持する「大先生派」、浅野和三郎を中心とする知識層の信者、浅野の兄正恭を代表とする軍人組、軍人組でありながら「浅野派」と対立する「石井派」といったぐあいである。そして、それぞれの派は、筆先にたいしても、立替え立直しの時期についてもそれぞれの見解をいだいていたのである。にもかかわらず、こうした複雑な教団内における対立があまり表面にあらわれることがなかったのは、「大先生派」および「浅野派」を中心としてすすめられた宣教が、現実に教団の大発展をもたらしていたからであった。
 しかし、事件が勃発した。そして事件によって、一時的にしろ教団の発展が阻止されることもに、このような内部対立は激化してきた。くわうるに「改良意見」の公表が、その具体化に火をつけることになったのである。
 「大先生派」の信者は、王仁三郎は「大化物」であるから、この改良意見もその立場から理解しなければならないとして、比較的に動揺するものはすくなかったが、信者の一部にはすくなからぬ衝撃をあたえた。ほとんどすべての信者が、筆先を焼くことには強く反対したといってよいが、もっとも強硬に反対したのは、「教祖派」と「八木派」に属する信者層であった。また軍人信者も反対した。
 かねて大本の主導権をにぎろうとしていた福島ひさは、「開祖の教には、お直はなんぼ出世しても木綿着物に晒の湯巻で通すとあります通り、総て質素を旨としてゐますのに、此頃の幹部のやり口はどうも華美ですから誤解を招くのです。先生がお筆先を焼くと云ふ起誓をしたと云ふのは以ての外です。お筆先を焼く等とは大事件です。そんなことをしやうものなら訴訟を起す外ありません。而して身命を懸けても争ひます」(「大朝」大正10・5・17)とのべ、この機を逸せず焼却反対の急先鋒となって、幹部は今度の不敬事件の責任をとって総辞職し、二代教主は引退せよとせまった。
 一方、二代教主すみ子は五月一八日、神諭焼却の件について、本部の役員に向かって

大先生に如何なる事情があって、しかく言はれたかは能く解りませぬが、私は大本を代表する現教主として、焼却などは致させませぬ。甚だ現行法に触れるやうな即ち予審決定書に示されたものの如きは、今後決して用ひさせぬ事に致します(「大正日日新聞」大正10・5・19)。

と談話を発表し、さらに六月八日、信者および役員をみろく殿にあつめて、「私が最近受取った大先生からの手紙によると、獄中で認めたあの告白書(改良意見を指す 引用者)なるものは全然検事局の威圧的事情の下にあって、余儀なく認めたものであるから、決して信用すべきものではない、とありますから左様御承知下さい」(「大朝」大正10・6・10)との注意をあたえた。
 こうして、「改良意見」をめぐって教団が紛糾しはじめた五月二〇日、石井弥四郎の「皇道擁護団」は、「筆先は神の真理であるが、卑近の比喩を用ひてあるために、真の意義を理解することが困難となり、誤った解釈をおこなった結果、事件が起きた。その責任は修斎会にある」と主張し、修斎会の幹部を排除するようにすみ子に申し入れたが、「邪神は勿論虫けらまで助けるのが大本の教である」と拒否されたために、大本から離脱した。
 五月二一日、王仁三郎は獄中において、修斎会会長および大正日日新聞社社長の辞任を発表したため、会長には四方平蔵が就任し、副会長には高木鉄男・岡田瑞穂がなり、社長には横浜の豪商上滝七五郎がなった。

〔写真〕
○王仁三郎自筆の弁護資料 p595
○弁護士のみた大本事件観 p596
○花井卓蔵 p596
○中村古峡は大本攻撃の手をゆるめなかった 記事解禁前の発表文 警察協会雑誌 p598
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