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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第2章 >2 あらたな胎動よみ(新仮名遣い)
文献名3エスペラントとローマ字の採用よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ695 目次メモ
OBC B195401c4222
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本文  一九二三(大正一二)年の五月二七日、この日はまことに意義ある日となった。というのは、王仁三郎から国際語エスペラントを学習するようにと加藤明子が命じられたからである。エスペラントはポーランドの、ザメンホフ博士が、人類愛の精神にねざして、一八八七年に大成したものである。それから三六年をへて、その使用者は世界各国にゆきわたり、エスペラントの図書はすでに五、六千種も発行されているといわれていた。しかしまだ日本国内では、人々の間にはひろく知られていなかった。けれども、それらの状況についていちはやく注目していた王仁三郎によって、一九一八(大正七)年ころにすでにして、「エスペラントは世界を支配する言葉になる」と役員の一部には語られていた。くわえてフインチからも、バハイ教ではこの国際語をとりあげていることをきき、その学習への意欲はいっそうたかまっていた。
 王仁三郎の命令をうけた加藤は、その学習法がわからないので困っていたところ、たまたま京大在学の高見元男から送付されてきた新聞のきりぬきによって京都同志社大学致遠館で、六月一日より一二日までエスペラントの講習会がひらかれることを知り、さっそくその講習会にでかけて受講した。それ以後、大本ではエスペラントを積極的に採用することになり、エスペラント研究会が設立されて、七月一日から七日まで一週間にわたって、当時同志社大学生であった重松太喜三をまねいて、エスペラントの講習会をひらくことになった。
 講習会は二組にわけて開催された。午前の組は天声社編集室で受講し、聖師をはじめ松村・井上(留)・西村(光)・桜井(重)・北村・大深・加藤・出口(宇)・渡辺・横尾・寛らが机をならべて、エスペラントの起源や由来、さらにその現状の大略をきき、発音からはじめて文法にいたるまでをひととおり学習した。夜の組は、みろく殿に白髪のおぢいさんから一二、三才の少年少女、赤ん坊をせおった婦人らの老若男女、およそ一三〇人ばかりあつまって学習した。そのとき王仁三郎によって、エスペラントに関するつぎのような一場の講演がなされている。

大本教祖の筆先に、いろは四十八文字で世界を統一するといふ意味がある。神さまはその予言者の智性意志、記憶を基礎として神意を洩らされるものであるから、かくお示しになったのである……。今後の大本の使命はめいめいに手わけして神の国の福音を普く宣べ伝へるにある。ついては今日のように世界各国の言葉が分れていては至難なことである。けれども世界共通語のエスペラントは僅か二十八文字で通用し世界へ行渡っているから、この語を研究して神意を世界へ宣伝するといふのは神意に叶ったことである。神の道を開くには「ことば」によらねばならぬのであるから、充分にこの語の研究をやって頂き度い。大本は型さえすればよいといっている人があるが決して型ではない。真剣にやって頂きたい。

 この講習会は多大の成果をあげて終了したが、その此終日にあたる七月七日には、天声社内に日本エスペラント学会綾部支部が設けられることになり、出口宇知丸がその代表となった。このようにしてエスペラント熱は大本本部内に急速にたかまり朝晩の挨拶にさえエスペラントによることもけっしてめずらしいことではなくなった。さらに七月二六日から大本エスペラント会の名のもとに、長期にわたるエス語講習会がもよおされることになり、会場を天声社製本場に設けて、講師組西村光月・B組─桜井重雄・C組─松村仙造の三人がそれぞれ担当することになった。七月三一日には日本エスペラント学会の講師で、雑誌「ラ・レヴォ・オリエンタ」の編集員であった由里忠勝が来綾した。由里は当時東京商科大学に在学中で、京都府下加佐郡河守町の人であるが、暑中休暇で帰省中大本をおとずれたのである。五日間大本に滞在して、毎夜日常会話の講習会をひらいた。
 八月、王仁三郎は九州の杖立温泉に滞在中、「記憶便法エス和作歌辞典」(大正13・2・4)の底本となった「記憶便法英西米蘭統作歌集」をつくりあげた。この作歌集はわずか四日間でつくりあげたもので、「只心に記憶し易からしめんために和歌の調などは省みず口から出任せに喋りおく」とまえがきに記されている。それはいかにも王仁三郎らしい、人間性のあふれた奔放な作歌辞典である。その若干例をあげるとつぎのようなものである。

名詞(オ)─(エスペラント語の名詞は、すべて語尾はOがつくのである)
現代の名士(名詞)は誰もおしなべて尻にオの付く人ばかりなり
○アーマス(愛して居る)
吾妹子を愛することの度が過ぎてもてアーマスなり惚れ助男も
〇マテーノ(朝)
朝寝して一足おくれ停車場へ友のあとから一寸マテーノ

 たくみな笑いをふくんだこの作歌集は、エスペラントにたいする王仁三郎のなみなみならぬ熱意を、信者たちにわかりやすく、かつひろくつたえることになる。のちにのべるように、エスペラント運動を通じて大本はヨーロッパに知られ、そこからヨーロッパ各国への海外宣教がはじまってゆくのであるが、エスペラント運動が本格化するにしたがって、大本エスペラント会は「エスペラント普及会」と改称され、エス語の普及活動がますますさかんにおこなわれていった。大本内では西村光月らが講師となって、エス語講習会が何回も開催されたが、王仁三郎は、その年の一一月にひらかれた第二回エスペラント談話会の席上において、「私の霊感に依りますと、今後十年を出でずして、エスペラントを知らぬ者は必ず時代遅れになって了ふであらうと思ひます。私は今エスペラントを日本ばかりでなく、支那・朝鮮から、ザメンホフ博士の生れた国の方へ、こちらから逆輸入をしてやりたいと計画してをります」と語り、受講者はエス語にたいする王仁三郎の強い熱意をひしひしと、感じさせられた。
 なおのちのことになるが、エスペラント運動について記すべきことは、一九二四(大正二二)年万国エスペラント委員に出口宇知丸が推薦されたこと、同年七月一日のエスペラント採用一周年記念大会の日に、大本の祖霊社にエスペラン卜の創始者ザメンホフ博士の鎮霊祭がおこなわれたとと、さらに王仁三郎みずからが一九二五(大正一四)年一〇月一六日~一七日、京都市においてひらかれた第一三回日本エスペラント大会の第二日に、山口会館で講演をなし、また一九二七(昭和二)年一〇月一六日、福岡市で開催された第一五回エスペラント大会に臨席し、来賓として一場の挨拶をしたこと、またはじめ有志によって発行されていた「ヴェルダー・グローロ」(緑の光)を一九二五(大正一四)年から「ラ・ヴェルダ・モンド」(緑の世界)と改題して、これをエスペラント普及会の機関誌となしたことなどである。こうして各地に講習会がもよおされ、大本の分所や支部に百有余のエスペラント普及会支部が設置されるにいたった。
 エスペラントの採用とあいまって、ローマ字についても強い関心がよせられるようになる。
 大本が日本式ローマ字を採用するにいたった動機は、一九二三(大正一二)年一〇月三日、本部の外山豊二が大阪の大黒実から、ローマ字に関する一通の手紙をうけとったことに起因する。その後大黒のかわりに、京都の斎藤強三が一〇月一七日に来綾した。その晩、エスペラント支部の講師や幹部その他の有志があつまって、日本式ローマ字についての斎藤の講話をきき、ただちに綾部ローマ字会が組織され、出口宇知丸・外山豊二・山口利隆・辻勝英・安達尊国・小高英雄の六人が世話役となった。
 一一月一〇日の大本秋季大祭の夜には、村瀬伝一郎の「日本式ローマ字に就て」という講話があり、翌一一日には、王仁三郎によっても、エスペラントとローマ字の必要性が力説されて、つぎのようにのべられた。

此頃大本にエスペラント語やローマ字を採り入れたことに就て、色々な批評をするものもありますが、自分は大いに此国際語を勉強して、早く世界に神様の道を弘めねばならぬと信ずるからしてエスペラントを奨励しているのである。また日本国内に於ては進んでローマ字を採用して、今後は「筆先」も凡てローマ字で発表する考えである。

 こうした王仁三郎の言葉は、ローマ字への学習に拍車をかけた。同月一三日にはみろく殿で二日間にわたってローマ字講習会がひらかれ、講師には京大生の西村博がなり、受講生は七五人にのぼった。さらに一二月二日からもローマ字講習会がひらかれ、イ組は山口利降、ロ組は外山豊二がうけもった。
 こうして「神の国」誌には、エスペラントの学習講義と同時に、筆先のローマ字書きが掲載されるようになる。
 エスペラント普及会とならんでローマ字普及会が設立せられ、各地に講習会が開催され、また支部が設置されていったことはいうまでもない。そしてその機関誌としては「言葉の光」(Kotoba no Hikari)が発行された。
 なお王仁三郎は一九二七(昭和二)年八月から翌年七月までの一年間にわたり、ローマ字研究のため、百人一首の替え歌をつくって、ローマ字でそれを「明光」(大本発行の月刊の芸術雑誌)に発表した。そこにも王仁三郎のなみなみならぬ関心と熱意が見出されるのである。

〔写真〕
○京大在学中の高見元男大正9年ころ p695
○くりかえし講習会がひらかれた p696
○少年少女をまじえたエスペラン卜講習会の参加者 p697
○記憶便法エス和作歌辞典 p698
○エスペラント劇もさかんにおこなわれるようになった 1926─大正15年春季大祭 p698
○福岡市での第15回エスペラント大会 二列目中央の和服姿が王仁三郎 p700
○言葉の光 緑の世界 p701
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