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文献名1大本七十年史 上巻
文献名2第4編 >第4章 >3 海外への発展よみ(新仮名遣い)
文献名3宣伝使の欧州派遣よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-02-22 11:29:20
ページ785 目次メモ
OBC B195401c4432
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本文  文書による海外宣伝は、それなりの成果をあげたが、人類愛善会の各国支部が結成されるようになる直接的な理由としては、西村光月の欧州派遣とその活動をあげねばならぬ。王仁三郎から、欧州派遣の命をうけた西村宣伝使は、人類愛善会が設立された翌々日、すなわち一九二五(大正一四)年の六月一一日に、郵船白山丸で神戸港を出発した。その目的は、八月一日より六日までジュネーブで開催される第一七回万国エスペラント大会に出席するためと、あわせて人類愛善の趣旨にもとづく海外宣伝にあった。西村は渡欧のために、京都府庁にたいして海外渡航の手つづきを申請したが許可されなかった。それは大本にたいする警戒が依然としてつよかったからである。そこでにわかに東京の住人として外務省に手つづきをしたところ、出発の二日前にはじめて許可された。出発する間ぎわまで、西村やその周辺の人々は、ひそかにしかもねばりづよく努力したのである。
 西村が大会に出席したところ、ただちに副議長に指名されることになった。西村は麻の白地カスリの着物に紋付羽織袴で出席し、満座の注目をあつめた。そのおりに西村は大本の特別講座をひらいて聴衆にふかい感銘をあたえた。そしてジュネーブに一ヵ月余滞在してエス文の「大本教祖伝」を発行した。これは日本人が、エス文の書籍を欧州で出版した第一号であったともいえよう。九月一日からパリで第二四回万国平和主義者の会議が開催されることをきいた西村は、仏文による宣伝パンフレット一〇〇〇部を用意して、同会議に出席するためにパリにむかった。
 ジュネーブでは大本の後援者・共鳴者が続出して、ドイツ・フランス・ロシア・オーストリア・スペイン・ルーマニア・ハンガリー・チェコスロバキアなどの諸国から招待されている。出口王仁三郎著の『エス和作歌辞典』もすこぶる好評であって、各国の代表委員が政府当局にみせるといって、各自がもちかえるというようなありさまであった。
 この万国平和会議はソルボンヌ大学で開催されていた。元来この平和会議は、五年ごとにひらかれる世界各国の平和主義者の会合で、政府の代表者はひとりも出席していなかった。九月四日は午前も午後も出席者の間において政治問題が論議され、午後になると討論は激化してきわめて険悪な状態になった。そのとき西村光月は「平和はこのような有様では到底こない。平和は宇宙の大元神を認めてすべてをこれに託するにある。そしてこれにいたる道程として各国の思想家や宗教家が相提携する必要がある」とのベて、愛善運動の精神を披瀝したという。
 九月五日は平和会議の事実上の最終日でもあったから、経済および軍備撤廃などの問題について白熱した討議があり、あわせて、一年前から懸案になっていたエスペラントの採用について、イード語使用者との間に討論がなされた。イード語の賛成者はわずかにひとりであって、他は全部エスペラントの採用に賛成した。この会議には日本人いや東洋人として、西村光月ただひとりが出席したのも注意をひく。この会議中に、西村は渡航の船中で、英訳した人類愛善会の規約を老判事アイケンにみせたところ、非常に感銘して早速仏文に訳してくれた。これが英語以外の外国語に大本関係の文献が翻訳された最初のものであり、これを契機として、ひきつづきハンガリー語・ポーランド語・独語など一二ヵ国語に訳されることになってゆくのである。
 この平和会議が機縁で西村はパリにとどまることになり、ルウ・デ・パウギラード街四番地のストラスブルグ・ホテルの一室に欧州宣教の本拠をおき人類愛善会欧州本部を設置した。そして一九二六(大正一五)年一月から月刊エス文「国際大本」”Oomoto Internacia”(タブロイド判四頁、のち八頁)をパリで発刊し、五〇〇〇部を印刷したのである。これには、タイトルの横に宇宙紋章がすりこまれていたので、いっそう光彩をそえることになり、読者の喝采をはくしたという。
 さらに人類愛善の立場から、大本主義と人道主義との鼓吹のために、一九二六(大正一五)年六月一日からは日本式ローマ字新聞、旬刊「日本人」”Nippon-zin”が発刊されることになった。この編集には神戸からきていた岡延太郎が援助した。欧州在住の日本人は、比較的にあたらしい思想をもつものがおおく、よく世界の情勢に通じ、内地の日本人よりも容易に大本主義を理解することができたようであった。また日本人のみならず、ハンガリーをはじめとする各国に熱心な日本語学習者がいたので、読者層もひろがった。
 一九二五(大正一四)年秋、英・仏・独の外相があつまって、いわゆるロカルノ会議がスイスのロカルノ市においてひらかれたが、同じ会場の「正義の殿堂」で一九二六(大正一五)年四月三日から六日までエスペラント中央委員会が開催された。欧州におけるほとんどの国々より委員がつどい、東洋代表としては西村宣伝使がひとり出席した。この会合には三〇余人の出席者があり、万国エスペラント協会の指導者エドモン・プリヴァー博士会頭のもとに、プログラム中の四二ヵ条以外に、ラジオ・商業・諸種の統計・新聞雑誌・夏期大学・大会・会議・科学出版物等々に関する協議がなされた。西村は、この会議では、「大本」ということをしいて口にはしなかったが、すでに一般にしられていて相当の収穫をおさめたと本部に報告している。
 西村宣伝使のこうした活動のなかで、注目すべきもののひとつに、ドイツの新精神運動団体であるドイツ白旗団(ワイス・ファーネ)との提携を促進したことがある。
 西村はこの年の五月一四日にパリを出発して、一五日の午後には、南ドイツのプフリンゲンにあるドイツの新精神運動白旗団本部を訪問した。同団の機関誌「白色旗」の編集人オー・ケイ・シュミットは、すでに「へロルド・デ・エスペラント」誌上で大本の紹介記事をよんでいたし、シュミットから大本海外宣伝課にあてた一九二五年七月一日附での長文の手紙には、大本の運動についてなみなみならぬ関心が示されていた。この手紙には、物質文明を超越して、近代人の退嬰的な傾向を克服し、実生活においても精神面においても不幸な分裂を救済するためには、「内的外的ともに統一されたところの完全なる人間」をつくることを主張していた。それはインドのヨガや日本の禅のような、「背後意識」や「無意識性」への追求にそそがれている。白旗団本部は、団長シュヴァイツェル博士の住宅の一部があてられ、そこで十数人の事務員がはたらいていた。博士はよくこえた老人であったが、シュミットはまだ二三才の育年で、同誌の発行についての全責任をおってその編集に尽力していた。西村はエスペランチストでもあるシュミットと会談して、左記のとりきめをおこなった。

一、大本と白旗団とは相互に記事や講演の交換をおこなうこと。
二、新精神運動は独逸にて大本に関する独逸語の単行本を発行すること。
三、新精神運動は大本の主宰する世界宗教連合会に加入すること。
四、たがひに其機関紙に広告を交換すること。
五、新精神運動「白旗団」は大本の支部たること、同時に大本の欧州本部に新精神運動の支部を設けること。もって協同一致の宣伝をおこなうこと。

 このとりきめによって、大本と白旗団との関係はかたくむすばれることになり、白旗団はドイツ文の大本宣伝冊子「新精神運動大本」(菊判三四頁)を発刊した。初版は一万八〇〇〇部印刷された。そのうち一万部は新精神運動の団体やドイツおよび外国における会員に、二〇〇〇部を全ドイツの新聞・雑誌社におくった。これをうけて約五〇の新聞や雑誌がそれを紹介した。こうして、世界宗教連合会に白旗団はくわわることになったのである。なお西村はとなりの町ロイトリンゲンにおもむいて二〇日には大本に関する講演をなし、つづいて五月二三日にドイツのミュンヘン市で開催された全独エスペランチスト大会のまねきに応じて、これに参加した。大会は旧市役所の大会堂でひらかれ、参加人員は約四〇〇人にのぼった。その大会で市長や知名人の歓迎の辞、各地方代表員の挨拶のあとに、西村光月も挨拶した。その翌日には西村はミュンヘン放送局から幹事のコッホ氏と共同放送をおこなっている。材料はゲーテ原作の「イフイゲニーオ」で、そのドイツ文をまえもって各々エス語と日本語に訳しておき最初にその自国語と日訳文を放送して、どのように両国語がことなったものであるかをあらかじめしらしておき、ついで両人がエスペラント文を放送して、日本人もドイツ人もエスペラントの発音においてはほとんどかわりのないことを示すという趣向をこらしたものであった。こうした西村の不断の努力はその後もつづけられる。
 二五日にはレストラン・ワグネルを会場として午前八時より大本講演会が開催された。下院議員がエスペラントについて講演した後、西村が登壇して約四〇分にわたる講演をした。聴衆は三〇〇人をこえ、大学教授や牧師そのほか多数の知名人が列席した。この会合を介して、「国際大本」の購読者も多数できた。フランケ博士のいうところによれば、ドイツの当時の政情ははなはだ不安であって、国家主義が擡頭しつつあり、エスペラント運動のような国際的なものについては、せいぜい二〇~三〇人ぐらいしか出席しないであろうと思っていたとのことであった。
 二六日はプレヒトルの招待をうけてドイツ国境ブルガウゼン市に旅行した。同市の古城は独逸で最長の規模をほこる城塞でかこまれており、ダニューブ河をへだてて、オーストリアに面しているところにある。さらに西村は、八月一日から英国エジンバラ市に開催された第一八回万国エスペラント大会に、マヨール、サムソン両人とともに出席した。この大会でも大本講演をなし、また帰途ロンドンにたちよって大本の宣伝をおこなった。八月六日発行のロンドンの「デーリー・へラルド」紙およびエジンバラの「イヴニング・ディスパッチ」紙は西村の写真と彼の訪問の記事を掲載し、とくにへラルド紙は、第二面の冒頭に「エスペラント共通語をもちいる世界的宗教大本、エジンバラ会議に派遣された日本紳士」と題して大本を紹介し、西村の談話をのせている。そのなかで、西村はつぎのように語っている。

釈迦、キリスト、マホメットはそれぞれ偉大なる予言者であった。しかし現在の教団では、あはれその教は最早権威を失ひ、無視されてしまった。そして宗教の名に於ていろんな罪悪が行なはれている。大本は世の立替を標榜しており、宗教を国際的に組織せんとしている。大本人は全人類が出口王仁三郎氏の周囲に蝟集する日が来ることを信じている。王仁三郎氏は大本の教主であって亀岡に陣取っている。彼も亦他の改造先駆者の如くに迫害を免れることは出来なかった。そして六ヶ月入牢した。奇蹟家王仁三郎教主は、大本を開いた出口なお(養母)の後を嗣いだのである。この両人とも霊感者であって、王仁三郎氏は山中で神より「人類の救済」を告げられたといふことである。大本エスペラントが世界的となるやうに、また宗教も世界的たることを主張している。

 西村光月の精力的な宣伝の旅はさらにつづく。八月下旬に、いったんパリにひきあげたが、九月七日にはふたたびパリを出発して、チェコスロバキア国の宣伝の旅にたち、同国のおもだった町村を巡回して大本を紹介した。各町村では、講演会や或いは幻灯会をもよおし、グロッタワでは聴衆のもとめによって謡曲「隅田川」などをうたったりした。
 一〇月二四日、首都プラハ市を、チェコスロバキアにおける最後の講演地とした。西村が入国して以来、この日までの四八日間の、講演回数は三〇回にたっしている。彼はその後、「チェコ国宣伝旅行─見聞及び感想─」を本部によせているが、そのなかでこうかいている。

将来大本より更に多数の宣伝使が欧州に来らるるとも、少くとも二ヶ年は滞在する覚悟をもって出発されん事を希望致します。そして欧州へ来る宣伝使はエスペラントの外、英、独、仏語の一つを学習して居ると好都合であります。尚其外宗教史、哲学史、東西文明史、東西歴史等の大略を習得して置く必要があって、ただエスペラントが少々出来る位では、赤恥をかかぬまでも不便を感じ、多少馬鹿にされる事があるのは、小生の経験上から申し上げて置く次第であります。殊に日本、支那等に関する風俗習慣乃至政治実業界の趨勢等を知悉してをれば一層便利であります。

 欧州本部がパリに設置され、一九二六年一月からは「国際大本」が発刊されていたが、その発行部数は五〇〇〇であって、購読者は約五〇〇、その他は無料配布されていた。とおく南米ブラジルからの購読者もあり、アフリカの奥地をのぞくほかは全世界にゆきわたっていた。最初は英文・仏文・独文などを挿入していたが、欧州の国際関係上、このましからぬ感情をひきおこしたり、あるいは不平を申しこまれたりしたために、全部エスペラントのみによることにした。
 なおブルガリアうまれの青年シシコフは、秘書として一九二六(大正一五)年八月から前後六ヵ年間、西村と同居して編集の実務に最も忠実に勤務したことも忘れるわけにはいかない。
 「国際大本」の編集には、前記のシシコフのほかにグレンカムブ、マヨール及びヂュヂェフなどが、逐次交替で尽力した。寄稿者のおもだった人々は、マーチャン卜、カール、アイナール・ダル、ユリオ・バーギ、ゲオ・ハルセフ、シュミツなどであった。英文の「大本とはなにか」の編集はマヨールがてつだった。また同文をフランスの言語学者に仏訳してもらって発行したこともある。『霊の礎』はマヨールの助力をえて全訳を完成したが、これはリヨン市のサンデリオンが好意をもって大版のプリント刷で数百部印刷してくれた。
 他方、人類愛善会の支部はスイス・フランス・イタリア・チェコスロバキア・ドイツ・ブルガリア・ハンガリア・ポーランド・ペルシア・スペインなどの各地に設立された。欧州宣教の第一期をおえて、西村は本部とのうちあわせのために、一九二七(昭和二)年一一月八日、いったん、シベリア経由で帰国した。

〔写真〕
○神武館に海外宣伝部がもうけられた p785
○欧州宣教の開始 白山丸船上での西村 p786
○紋付羽織袴は注目をあつめた 現地画家のえがいたもの p787
○国際大本 日本人 p788
○ロカルノ市でのエスペラント中央委員会 左端が西村 p789
○海外でも大本の宣伝パンフレットが自費出版された (上)大本と地上天国 円内はチェコのプノレケルト (下)日本における新精神運動大本 円内はドイツのシュヴァイツェル p790
○ドイツのブルガウゼンの古城 左端が西村 p792
○チェコのエスペランチストとともに p793
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