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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第2章 >4 弾圧の嵐よみ(新仮名遣い)
文献名3海外へも波及よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ458 目次メモ
OBC B195402c6242
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本文  大本弾圧の嵐は海外へも波及した。当時、樺太・台湾・朝鮮・関東州・南洋群島は「外地」とよばれ、国内同様に治安維持法が適用されていたか、とくに台湾・朝鮮は現地事情の複雑さもあって、治安対策がきびしくおこなわれていた。一九三六(昭和一一)年二月二五日にひらかれた全国特高課長会議には、朝鮮・台湾各総督府の警察局事務官、樺太庁・関東局各警務部の警部らが列席して大本にたいする取締りを協議し、三月一三日の団体解散および建物破却の処分は、各行政官庁の手をへて「外地」でも断行(「大阪朝日新聞」)されたのである。
 樺太でも警察への呼出し、押収などはあったが、台湾は大本の宣教がはやくからひらけ、さかんに宣教がおこなわれたところであっただけに、その取調べは内地同様きびしかった。昭和一一年二月初めには、台湾法院の書記か京都にきて、特高課長の杭迫らと大本の検挙取調べにつき協議し、綾部・亀岡を視察している。そして、三月破却命令の発令とともに、台湾別院(台北州草山)は建物・歌碑などをのこらず破却され、土地も売却せられた。基隆別院(基隆)の土地・建物はとりあげられ、歌碑はこわされたうえ他に搬出された。台湾におけるはとんどの信者が家宅捜索をうけ、関係物品は押収・焼却された。幹部やそれに準ずるものは警察に出頭を命じられて取調べをうけ、転向を強要された。なお検挙されて拷問をうけたもの、神書を隠匿した疑いで三週間も留置されたものなどがあった。台北では死亡間もない新霊の霊璽や、祖先を祀った厨子までも押収されるという非道の処置があった。しかし、各信者宅のご神体は木下主会長らの臨機の措置によって偽物と取りかえ、押収をまぬがれたという。主会長はじめ幹部たちの指導・連絡の適切さもあって、信者の信仰的動揺はあまり見うけられなかった。
 南洋にはポナペ、サイパン、パラオの諸島に支部があり、ポナペ島では昭和一〇年一二月に出口聖師の渡島があるというので、特派宣伝使や信者一同が喜んでその日を待っていたが、無線電信で第二次大本事件が起ったことを知り、落胆し心配した。翌一一年三月には、当局から支部の解散命令があったので、関係者はつぎつぎとポナペを引きあげた。しかし神書・神具などが押収された程度にとどまった。サイパンでは警察の取調べがあり、ご神体が押収された。
 朝鮮では共産主義運動や、民族独立運動への取締りがきびしく、ことに独立運動の主流として注視されていた朝鮮の宗教者や有力者が人類愛善運動に共鳴しつつあったので、当局ははやくから大本の動向を注視し、大本信者の一部を要注意人物としてあつかっていたところもあったほどである。日本人の信者のほかに朝鮮大にも信者や多数の愛善会員があり、朝鮮各地で家宅捜索や押収がおこなわれた。そして取調べのうえ転向を強要した。事件直後、朝鮮人の有力な会員二、三人が「人類愛善新聞」を配布して逮捕されたり、また亀岡の本部で奉仕しており、事件後強制帰国させられていた朝鮮の朴文浩青年が平壌で検束され、はげしい拷問をうけて衰弱し、ついに帰宅後間もなく帰幽した。さらに朴に関連して半年間勾留されたという平壌の三宅カネなどの犠牲者も出た。事件の起った一二月八日夜には、そのころ朝鮮巡教中であった出口貞四郎(三千麿)を清津支部にむかえ、さらに九日夜には羅津で座談会をひらいた。その夜はじめて事件を知り、貞四郎はいそいで帰国の途についたが、その途中で検挙された(前述)。この座談会に関係していた信者の小林正雄は、当時羅南警察署の次席であったが大本信者にたいし寛大な措置をとった関係から、その後左遷された。
 満州(中国東北)では、「建国」以後も日本の治外法権がつづけられていた(昭和一一年七月一日に一部撤廃されたか、警察・司法の法規の適用をふくめた完全撤廃は昭和一二年一二月一日から実施された)。そのため日本からの指令により、在満の大本信者にたいして、団体の解散や、ご神体その他の破却、ならびに棄教や転向が要求された。そのころ奉天省警務庁長の三谷清や、奉天の元商工会議所会頭であった手塚安彦はじめ、信者のなかには有力者がおおかったので、弾圧は比較的ゆるやかであった。したがってご神体や神書などをかくした者がおおく、立川奉天署長立会いのもとで焼却したご神体はやはりにせのものであった。事件で検束されたものはなかったが、二・二六事件のときには特派宣伝使の鈴木六一郎が検束された。しかし、二・二六事件には関係のないことがあきらかになって一週間で釈放された。大連では支部長村山盛吉が病床で尋問をうけ、図書をわずかに押収されたていどであった。
 台湾・朝鮮・満州などでとくに注目されることは、第二次大本事件以来、日本国内と呼応して現地の諸宗教にたいする取締りが一だんときびしくなったことである。朝鮮では一九三六(昭和一一)年六月、大本と関係のふかかった普天教が検挙された。翌年五月にひらかれた仝朝鮮各道警察部長会議では、あらためて「類似宗教の指導取締」が指示され、「宗教類似団体取締法規」の制定が要望された。台湾でも土俗宗教に対する内偵査察が強化されている。満州においては、当時「新興国」として民心を収攬するための国策もあり、また道院・世界紅卍字会・在家裡・在理教・ラマ教・万国道徳会などの有力団体が大本と提携していた関係もあって、諸宗教にたいする統制工作があらためて検討されつつあった。昭和一一年四月二日の「中外日報」はそのことについて、「大本一掃を契機として在満の所謂新興宗教に対する対策は目下考究中であるが、国際都市大連市警察署では、近く専任の宗教係を置き各地警察署と連絡をとり、苟くも社会風教を紊る虞ある宗教団体に対しては容赦なく弾圧を下すことになった」と奉天からの通信を報道している。
 また昭和一一年一二月には、第二次大本事件担当の鈴木検事が満州にゆき、「由来満州国の紅卍字会と大本教とは一時合併の軌道に上ってゐた程極めて密接な関係を持続して宗教条約さへ締結されてゐるとまで取沙汰され、従って満州国における大本教の勢力は決して侮り難いものがあり」(中外日報)として視察をおこなっているのをみても、満州における大本勢力の一掃が考案されていたことが推察される。
 天津では事件一〇日後の一二月一八日、天津分院長であった北村隆光が検挙され、日本から来た警察官二人に付添われ京都へ護送された。そのとき同分院にいた米川清吉が同行して帰国し、当時綾部の月光閣にいた出口すみ子に面会して、その強い信仰的態度に勇気づけられた。米川はその帰路に朝鮮・満州における信者を訪ねて綾部からの連絡をなし、天津に帰って松田・池田・今村・黒田たちと相談のうえ、これまでどおり愛善日語学校をつづけることにした。上海ではご神体の焼却が命じられ、その一部が押収された。なおヒリピンのマニラでも信者の家宅が捜索されている。
 メキシコでは事件後積極的な宣教をさしひかえられたが、大塚良郎らの指導により、仝信者の信仰がつづけられた。ブラジルでは第二次大本事件のことが「ブラジル時報」「日伯新聞」「聖州新聞」など現地の新聞で報道されたが、その後日本内地からおくられてきた石田卓次(北海主会長)の手紙によって、事件のおよそを知ることができた。サンパウロの日本領事館から「活発な宣教活動は差し控へるやうに」との警告があったが、ブラジル政府からはいささかの干渉もなかったので、石戸や近藤などはこれまでと変りなく宣教活動をおこなった。
 なお欧州その他各国における宣教は、事件により一時中止するのやむなきにいたった。

〔写真〕
○海外でも家族の写真から神床を切りとるほどきびしかった そこには当局のおろかさと狼狽ぶりがうかがえる 台湾 p458
○聖師の巡教をねがう信者の努力もむなしくなった 南洋宣教の拠点であった開栄社 ポナペ島 p459
○連絡はとだえたが南米での宣教活動はたゆみなく継続された 弾圧をつたえた現地の新聞 p461
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