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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第4章 >3 王仁三郎らの保釈よみ(新仮名遣い)
文献名3保釈にいたるまでよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-10-19 03:13:54
ページ618 目次メモ
OBC B195402c6431
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本文  王仁三郎・すみ・伊佐男にたいする保釈願は、これまで幾たびも提出されたが、すべて却下され、また中野岩太・大宮守子や頭山満をはじめとする、各方面からの保釈運動も結局実現しなかった。しかし八月五日に高野裁判長は王仁三郎には保釈金五〇〇円、すみと伊佐男には各三〇〇円ずつの保釈金て、保釈を決定した。ところが検事は被告らの保釈はみとめられないとして、大審院検事総長あてに抗告の手続きをとった。保釈にたいする検事抗告は「稀有」のできごとであった。そこで六日に、林・清瀬・富沢の三弁護人は、司法大臣岩村通世・松坂検事総長と面談し、保釈を正当とする理由を具申した。
 八月七日に高野裁判長は田村・土井の両陪席判事と協議し、ついに三人を保釈出所させた。一九三五(昭和一〇)年一二月八日に検挙されてから満六年八ヵ月ぶりでの出所である。大阪拘置所(昭和16・11・19、大阪北区刑務支所を改称)では所長以下職員らが、三人の保釈を心からいわって見送った。午後三時四〇分出所した三人は、かけつけてきた信者数人にむかえられて真砂町のさぬきや旅館で休息し、出迎えの弁護人にあいさつののち、新聞記者に会見した。それより大阪駅から汽車にのって、午後六時四〇分に亀岡駅につき、自動車で中矢田農園の出口直日宅におちついた。三人を迎えた家族をはじめ信者たちのよろこびは多言するまでもない。この年、王仁三郎は七一才、すみは五九才であった。関係弁護人は連名で、一五日に大審院第三刑事部あて「保釈決定に対する抗告申立に関する反駁書」を提出した。
 ここで、大阪での未決勾留中における三人の生活をふりかえってみよう。その人柄にうたれて看守のあつかいも親切であった。一九四〇(昭和一五)年の八月一二日の朝、王仁三郎は心臓病を急発してたおれ、脉搏も一二〇となり、脉搏に結滞がおおかったので、大阪北区刑務支所から病気重しとの電報が亀岡の留守宅にとどけられた。弁護人たちはおどろいてさっそく保釈願を出したが、この保釈願も翌一三日午後には危険の域を脱したとして却下された。しかし、そのときから王仁三郎は病監にうつされ、八畳敷の部屋に一人寝起きすることになり、室内での自由をゆるされることになった。
 二代すみは、五畳じきほどの雑房に入れられた。おおいときには四、五人もの女がつぎつぎとかわって収容されてきたので、話相手ができ、にぎやかでかえって楽しかったという。差入れ弁当なども半分ずつわけ与えられたりするので、みなは、すみを日ましにしたうようになり、肩をもんだり、たたいたりして「おばあちゃん、おばあちゃん」といたわった。またすみは、せまい獄屋にあってもわが家のようにおおらかにふるまって、看守からも非常に親しまれた。未決勾留中、すみによってつくられた歌として、「こころはひろく」と「まつりだいこ」がある。これは大阪拘置所の教誨師川吉卓爾がかきとめていたものを、昭和二二年に吉川から手紙でしらせてきたものであるが、これによっても未決における、すみの風格をうかがうことができる。つぎに「こころはひろく」を紹介しておこう。

うきよはなれしひとやのすまひ ねるもおきるもあゆむもたつも せまいへやうちこころはひろく けふもいちにちりやうかんさまの ほんをよんだりおはなししたり かはいすゞめをからかつてもみたり すてたくさばなもういちどひろて みづにうつしてたてよこながめりや いけたしやうぶがいとしほらしく けふのひとひのよきともよ あすはむすめがくるとのたより あれもいひたいこれきゝたいと かみをむすんでしやうぶにくゞりや 二つ三つ四つ五つ六つむつかしのよに うきよはなれしひとやのすまひ ねるもおきるもあゆむもたつも せまいへやうちこころはひろく(『出口澄子歌集』)。

 伊佐男はあいかわらず規則正しい生活をつづけ、六年八ヵ月を膝ひとつくずさず正座して読書三眛にふけったので、看守たちはこのようなことは刑務所につとめて以来はじめてだといって感嘆したという。こうした三人三様の未決の生活は、拘置所内でもたえず話題になるほどであった。
 検挙されて以来第一審中は、王仁三郎らにたいする信書は遠慮されていたが、第一審の判決があってからは、信者の面会や信者からの信書もおおくなり、また子や孫だちからも毎日のように手紙や絵をかいて送ってきたので、三人にとっては日々のたのしみがふえた。のちに当時を回顧した聖師の歌には、〝愛とし子や知るべの人の送る文に我よみがへる心地するなり〟と詠まれている。
 王仁三郎らが大阪北区刑務支所にうつった一九四〇(昭和一五)年四月ごろからは、国民の経済生活も目にみえて窮屈になっていった。昭和一六年の四月には米の家庭配給割当は一日一人二合三勺となり、生活必需物資がすべて配給割当となった。出口家や信者はそのなかを工面しては差入れに心をつかった。なかには米を工面しては差入屋にはこんだ信者もあったが、王仁三郎らへの差入弁当は、米飯三口分くらいしかなかったという。また差入れたメロンが手もとにとどいたときには、うすい一片になっていたというようなことがありがちであった。拘禁生活の不潔・不自由さは前述のとおりであるが(三章一節)、六年八ヵ月にわたるこうした拘禁生活によって、すでに老境にたっしていた王仁三郎とすみの身体はいつしかそこなわれていた。保釈出所した翌八日、亀岡の上原久一医師によって王仁三郎は高血圧、すみは脚気と診断されている。
 第二審の公判廷における三人の印象について、関係者からつぎのように回想されているのも興味ふかい。係検事であった平田奈良太郎は、「公判で一番感心したのは、王仁三郎さんと伊佐男さんの頭のいいことです。王仁三郎さんは古事記・日本書紀をほとんど暗記しておられた。霊界物語もみな頭にあった。高野裁判長もあれには感心していた」、田村千代一は「この事件は私にとっても非常な経験になりました。被告一人々々がみなその人間性というものをあらわして、一寸も悪いととをしたという気がないから、実にほがらかです。始めから無罪を信じているかっこうで、のんびりしていました」と述べている。土井一夫は「出口王仁三郎、すみ、伊佐男の三人の方は六年八ヵ月も勾留されていて体力が衰えないのですね。実にほがらかだし、信仰に徹している人はちがうと思いました。なにか悪いことをしたという精神的負担があれば、あれだけの長期間で、あれだけの体力を保つことはできません」、書紀であった豊田真三は「一審で有罪の判決をしているのだから、二審の判決があるまでは一応邪教としてみます。邪教といわれながらあの人たちの元気のいいのと行儀がいいのには感心しました。伊佐男という人は朝の九時に法廷に入って来たら、あの木の椅子にすわってそのままです。午後一時から始まって夕方の五時までやるのに、あの修行はわれわれにとうてい出来ません」と、それれぞ述懐している。

〔写真〕
○保釈にも圧力がくわえられた p618
○気をつよく おおきく こまやかに……その天性は苦難のなかで光をはなっていた 二代すみ子の未決での歌 p619
○迫害にもめげず成長する子や孫の姿をしのび再会の日がまたれた 中矢田の留守宅で子どもたちがかいた絵手紙 下左は当時の中矢田農園 p621
○声をあげてわらい いたわりあうのも幾年ぶりであろうか 中矢田農園にくつろがれた聖師夫妻 p622
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