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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第5章 >2 事件の解決よみ(新仮名遣い)
文献名3戦争の終結よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-02-24 10:49:52
ページ659 目次メモ
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本文  ついに一九四五(昭和二〇)年の酉年、戦争終結の年をむかえた。「鬼畜米英」・「打ちてし止まん」のかけごえにもかかわらず、日本の敗北は日ましに顕著となってきた。国民の内部にも軍部への不満がたかまり、東条内閣は一九四四(昭和一九)年の七月一八日に総辞職した。東条内閣から小磯国昭内閣(小磯・米内内閣)へとかわり、小磯内閣もなすところなく、一九四五(昭和二〇)年四月五日にこれまた総辞職した。そしてさきの侍従長であった鈴木貫太郎が内閣を組織した。聖師によって冗談のように「ソロモン戦からソロソロ負けて、小磯づたいに米内に入る、小磯米内国昭わたす」、「日本は鈴木野になる」、「日本はなごうは鈴木貫太郎」と信者にかたられているが、第二次世界大戦はいよいよ最終の段階をむかえる。
 この年の一月に大本営は、戦争指導大綱として「本土決戦」「国体護持」を決定し、「国民総武装」「一億玉砕」のスローガンをかかげて、国民大衆をなおも戦争へとかりたてようとした。三月一七日には東京から一二〇〇キロの硫黄島が陥落、米戦略爆撃隊B29による本土空襲は日常化し、聖師の言葉どおり七月までには国内主要都市の大半がじゅうたん爆撃の洗礼をうけて焼きはらわれた。三月一〇日東京にくわえられた爆撃で、全市の東半分が一夜で廃虚と化してしまった。五月二五日の爆撃では宮城内の一部が炎上し、伊勢神宮も災禍をうけた。大阪は四回の空襲で七五%が焼土と化した。こうして終戦時までには「焼失家屋三〇〇万戸、被災者一五〇〇万人、死傷者八〇万人」の犠牲がでた。一方二月三日マニラに突入したアメリカ軍は、四月一日ついに沖繩本島に上陸を敢行し、六月二二日には沖縄における日本軍は玉砕した。また、欧州においては五月八日にドイツが無条件降伏した。
 アメリカは六月には、「一一月一日南九州に上陸、一九四六(昭和二一)年春(三月一日を予定)には関東平野に上陸、四六年末または四七(昭和二二)年に作戦完了、投入兵力五〇〇万をもって上陸作戦を決定」していたといわれている。
 連合軍内では日本本土上陸作戦とともに、日本占領の方針をたて、一九四三(昭和一八)年一一月のカイロ宣言、一九四五(昭和二〇)年二月のヤルタ会談、さらに七月二六日にはポツダム宣言を公にした。国内でも「和平工作」がひそかにつづけられており、天皇は六月二二日、最高戦争指導者会議構成員に終戦の意志を表示したといわれ、七月にはソ連を仲介に和平交渉のこころみがおこなわれた。しかし陸軍は本土決戦に狂奔し、三月には国民義勇隊の結成が決定され、六月二三日には義勇兵役法が公布された。だが国民の不満は日ましにたかまりつつあった。当時の政府がとした「民心の動向」に関する報告をみても、「局面の転回を冀求するの気分」があり、「指導者にたいする信頼に動揺を来し」、さらに庶民層には「農家においても諦観自棄的風潮あり、指導知識層には、焦燥和平気分底流」しつつあったことがわかる。また国民生活の見通しもくらく、「今後国民食生活は強度に規制せられたる基準の糧穀と、生理的必要最小限度の塩分をようやく摂取しうる程度となるを覚悟せざるべからず……局地的に饑餓状態を現出するのおそれある」状態で、実際に国民は栄養失調で、もはや戦争を継続しうる段階ではなかったのである。
 八月六日には、広島に世界最初の原子爆弾か投下された。九日には長崎にも投下され、さらに同日、ソ連が対日宣戦を布告した。そして、ついに八月一五日の終戦をむかえるのである。
 その日、鈴木内閣は総辞職し、一七日に東久邇宮内閣が成立した。三〇日にはマッカーサーが厚木に到着し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が設置された。九月二日、東京湾上のミズリー号艦上で降伏文書の調印がおこなわれ、「天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ……連合国最高司令官ノ制限ノ下ニオカルル」こととなり、「金甌無欠」「神聖不可侵」をほこった天皇制権力は崩壊した。二二日アメリカ政府ははやくも初期の対日占領方針を発表し、日本の民主化、非武装化、軍国主義の根絶、基本的人権の確立、経済の民主化・非軍事化をあきらかにした。その第一弾としてGHQは、一〇月四日日本政府にたいして、「政治、信教並に民権の自由にたいする制限の除去」を指令し、明治・大正・昭和の三代にわたって民衆の自由を抑圧してきたすべての法令や制度が事実上撤廃された。歴史は急転回し、世はまさにおおきくかかったのである。
 この間、聖師の信者にたいする教示と指導はつづけられていた。聖師の言葉はすでに、「火の雨がふる。火の雨とは焼夷弾だけではない。火の雨は火の雨だ」「新兵器の戦いや」「東洋に一つおとしても、東洋が火の海となるような大きなものを考えている」として信者らにかたられていたが、昭和一九年の春、面会におとずれた広島の信者にたいし、「戦争は日本の敗けだ。広島は最後に一番ひどい目にあう。それで戦争は終りだ。帰ったらすぐ奥地へ疎開せよ」と疎開をいそがせたという。また、「広島は戦争終末期に最大の被害をうけ、火の海と化す。……そのあと水で洗われるんや、きれいにしてもらえるのや」とも伝えられていたが、広島は八月に原爆をうけ、九月には二度も大水害にみまわれたのである。
 終戦についても、聖師ははやくから信者につたえていた。アンケートによれば、昭和一八年長野の信者が、「二〇年八月一五日に留意せよ。皆神山は安全地帯でB29の不安はない」と聖師からきかされているし、昭和一九年には「来年のわしの誕生日(旧7・12、新8・19)のあとさきになると、政治上・軍事上・経済上、日本に重大なことがある」ときかされていた信者もある。なお「昭和二〇年葉月(八月)なかば、世界平和の緒につく」ともきかされているが、昭和二〇年に入ってからは、こうした事例はさらに顕著となった。荒廃した国土、虚脱と混乱、そして飢餓のなかになげだされた日本国民の苦しみは、信者のうえにものしかがってきた。しかし信者は聖師の力づよい言葉によって、将来にたいする希望と勇気をあたえられた。
 海外、ことに「外地」にのこされた信者の苦難はさらに深刻であった。聖師はソ連の参戦と満州・樺太の占領をはやくから予測していて、一九四三(昭和一八)年一一月、満州の部隊に入隊する信者の子弟らは、三六もの拇印をおした腹帯をあたえられ、「日本は敗ける。ソ連が出て一週間もしたら大連まで赤旗か立つ。そしたらすぐ道院へ行きなはれ」と教えられていた。昭和一九年の一月には東満総省長であった三谷清のもとへ、内地の信者から「今、日本は必死になって南の方ばかり見て戦っているが、不意に後から白猿に両眼を掻きまわされると、三谷さんに伝えなさい」(『三谷手記』)との聖師の伝言がつたえられていた。敗戦によって台湾がうしなわれることもすでにつたえられていた。空襲の激化によって海上輸送が杜絶し、敗戦によって在留邦人が孤立化することは朝鮮、台湾や樺太などから面会にくる信者にたいしては、つとめて帰国をすすめた。
 やむなく現地に残留する信者には、「どんなことがあっても、必ずまもってやる」とはげまし、「今度は大変なことになるが、神様が万事好都合にして下さるから、神様におまかせして、何事も神ながらでやるように」と懇切にみちびかれた。ソ連参戦後の満州(中国東北)は文字どおり阿鼻叫喚の巷であった。男子は手あたりしだい貨車につめこまれてシベリアにおくられ、のこされた家族は住む家をうばわれて路頭へなげだされた。飢えと凍えと迫害のため数おおくの生命がうしなわれ、絶望感がうずまいていた。信者とても例外ではなかった。しかし信者の胸には聖師の言葉が力づよく生きていた。ひたすら聖言を信じ、神への祈りをふかめることによって、希望と勇気はうしなわれなかった。信者にとって聖師の言葉はそのままが教えであり、すくいであり、生命であったのである。
 そのころ中国人の間では日本人への反感がつよく、日本人と接触し交渉をもつ者を好漢視する傾向があった。そのなかでも道院・世界紅卍字会の態度はかわりがなかった。そのため大本信者や日本人難民で、その手厚い庇護をうけ、難をのがれた者がすくなくない。一例をあげておこう。当時奉天(瀋陽)には北満からの難民二〇万人をくわえて約四〇万人の在留邦人がいたといわれ、衣食住はおろか一日の生活さえ保証できず、毎日一〇〇人近い死亡者が続出するのをどうすることもできないありさまであった。そこで一九四五(昭和二〇)年一〇月、信者の横尾猛虎らが、危険をおかして道院をおとずれ救済を依頼したところ、さっそく現金二〇〇万円と高梁五〇〇トンがおくられてきた。その後居留民会後援会に世界紅卍字会の連絡室をもうけて救済がつづけられ、就職や孤児の世話までもしたという。この事実は「週刊朝日」(昭和40・7・23日号)の「読者のイス」欄への投書にもうかがわれる。

〔写真〕
○戦意喪失をねらった米空軍は民衆にもようしゃなく爆弾の雨をふらした 東京 p659
○日本の敗色はおおうべくもなかった 全国各地に撒きちらされた降伏勧告のビラ p660
○終戦 新聞報道とラジオ放送をきく人々 p661
○大正末期における出口王仁三郎の染筆 p663
○信仰こそわか生きる力 信者の胸にかたくいだかれていた聖師の染筆 p664
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