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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第6編 >第5章 >4 大本事件の性格とその意義よみ(新仮名遣い)
文献名3第一次大本事件よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ694 目次メモ
OBC B195402c6541
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本文  第一次大本事件は、一九二一(大正一〇)年二月一二日の未明、当局が武装警官二〇〇人を動員して大本を襲うたことを契機として、社会的におおきく報道された。しかし当局による大本への干渉は、その以前よりすでに開始されていた。
 一八九二(明治二五)年に発祥した大本は、丹波の地域的な宗教としての形成の歩みをつづけていたが、一九一七(大正六)年のころからは、丹波の大本から日本の大本へと全国的に飛躍して、にわかに社会の注目をあつめるようになった。筆先の精神にたち、民衆生活に密着する大本の急速な発展を、国民思想の動向に警戒の目をひからせていた当局は、みのがさなかった。
 一九一九(大正八)年から、当局による大本にたいしての調査と警告がはじまる。権力は、大本の立替え立直しの叫びと、それにつながっておこなう鎮魂帰神の社会にあたえる影響に注目し、日米戦争や天変地異の予言的宣伝は、社会の公安秩序をみだすおそれがあるとみなした。そしてそれらのなかに、皇室にたいする不敬にわたる言論ありとみなして、その条項を指示して自粛ならびに禁止を示達してきた。そこで出口聖師は、当局との不要な摩擦をさけるために、役員信者にむかって注意をうながしていたが、一部のものはなお予言を流布した。当時世上の人々が「予言の大本」と呼称したように、その予言信仰に心酔する者が、まだあとを断ってはいなかったのである。当局は、その後さらに内偵をすすめて、神示の教典であるとする大本の神諭に目をつけ、国家神道の神観に抵触し、当局にとって神諭の文字の不穏とおもわれる箇所を抽出した。こうして大本は、社会の安寧秩序をみだし、不敬な思想をもつ「邪教」であると断定されたのである。しかも検挙には大がかりな検挙隊を編成し、あたかも暴徒の集団を包囲するがごとき方法によった。当時の教団の責任・指導の位置にあった教主輔出口王仁三郎、大日本修斎会総裁浅野和三郎のほか出版責任者吉田祐定の三人は拘引され、本宮山神殿は破却、開祖の墓地は改築させられた。
 第一次大本事件の弾圧の背後には、明治政府以来の一貫した、国家権力による宗教統制の施策がよこたわっており、権力が公認した宗教以外は類似宗教団体として、「信教の自由」を完全にうばい去ろうとする当局の方針があった(上巻五二三頁)。当局は大本に「不敬」の烙印を押し、「反国家的」な団体(川村警保局長談)として、一挙にその解体をはかろうとしたのである。
 当局は、言論機関に、大本にたいする攻撃材料を提供し、虚構怪奇な記事をかきたたしめて、あえて取り締まらず、大本の崩壊を促進するために手段をつくした。大本の信仰の中心であった三体の大神をまつる本宮山の神殿が伊勢神宮に類するものであるとし、また憲法制定以前の太政官達に違反するとしてこれを破却し、京都府の認可した大本開祖の墓地が御陵に類似したものであるとして改築を命じたことなどには、その暴挙のほどが如実にものがたられている。言論機関は事件を歪曲して誇大に報道し、大本を国民各層から離反させようとした。それほどに大本の力はおそれられていた。とくに大本が大阪の梅田に「大正日日新聞」を経営して、当時の言論機関が「一政党若しくは資本家の機関又は奴隷」となり「堕落せる」ものとして、言論界の立替え立直しを断行すると大々的に宣言したことが、当局や言論界を狼狽させたこともみのがせないであろう。
 当時の日本においては、「不敬」という烙印は、相手に致命的打撃をあたえるものであった。ところが信者たちは、「不敬」「邪教」の名を負わされながらも、大本の信仰を放棄しなかった。いな、むしろ弾圧のなかに信仰の結束はかたまっていった。それには、大本事件の到来がはやくから信者たちにしめされており、「神の仕組」として、神諭にもとづき予知されていたこともあずかって力となっている。「悪く言われてよくなる仕組」との信仰的な覚悟は、かねてからかためられていたのである。したがって第一次大本事件では、神諭の文字を自己流に解釈していた一部の信者が、離脱していったにすぎない。
 出口聖師と浅野は不敬罪・新聞紙法違反、吉田は新聞紙法違反で起訴され、予審をへて公判に回付されたうえ、第一審では三人とも有罪を言いわたされた。とくに聖師にたいする「懲役五年」は、不敬罪として最高刑であり、重刑であった。そこには当局の意図するところがよみとれるのである。
 しかし、激動のなかにあっても、冷静に大本教団のいとなみはつづけられ、この事件を契機として、内面的な信仰のほりさげがおこなわれていった。
 これまで唯一絶対の教典であった神諭のほかに、瑞霊によるみろく胎蔵の教えとしての『霊界物語』が、本宮山神殿破壊のさなかから口述発表され、神諭にならぶ教典としての完成がすすめられた。『霊界物語』は信者を育成教化するあたらしい教典として、実をむすんでいった。かつての鎮魂帰神は禁止され、天変地異や戦争などの予言的言説はかげをひそめて、偏狭な排外主義的色彩はしだいに色あせていった。『霊界物語』によって神諭の真解がなされ、真の大本の姿がかたちづくられてゆく。民族の特性をふまえつつ、人類愛善精神にもとづく国際性をもった宗教として、立教本然の姿が顕在化してくるのである。なおまた、これまで「皇道大本」と称していた名称も、「大本」とあらためられて、皇道は天皇の道だという社会の猜疑と非難を避けることになった。事件以前の大本信者のなかには、一見奇異な風俗をよそおう傾向かあったが、そうした面影もだんだん姿を消してゆく。
 このように第一次大本事件は、大本にひとつの画期をもたらした。第一審での有罪判決から第二審の控訴院へ、さらに大審院へと継続され、事件の審理は約六年間にわたった。この間に大本では、過去の反省と教内の刷新がおこなわれ、あたらしい出発への準備をととのえるのである。
 他方出口聖師は、事件の解決をみないままに禁をおかして、蒙古入りをなし、世界宗教連合会の提唱についで人類愛善会を発足させ、エスペラントを採用して外に大本の教えをのばそうと努力した。やすむ間もない破天荒の聖師の活躍によって、国内において邪教視された大本の教えは、むしろ外において世人待望の宗教としてうけいれられていったのも皮肉といえよう。ここにも多様な歩みをもつ大本の性格の一端を、はっきりとうかがうことができる。事件によって大本は萎縮しなかった。大本は内面的にも外面的にも成長の素地をかたちづくり、国際的に発展の道を開拓していったのである。大本の神示にもとづく信者の根づよい信仰意欲はもえあがり、国家権力による弾圧のなかでさえ、信仰の灯は消えなかった。そこでは、むしろ本格的な大本の地場がつくられてゆく。
 第一次大本事件は、大正天皇の逝去によって、一九二七(昭和二)年五月一七日免訴となった。こうして当局が意図した大本抹消の目的は、ついにはたされなかったのである。しかしこの事件は未解決として、その資料は当局の手にのこされ、一方このころから、民衆運動を抑圧するための思想弾圧法制定への動きが、本格化してくるのである。

〔写真〕
○第二次大本事件で授与された警官功労記章 受賞者が感激のあまり功労賞に象どり知友に贈った文鎮 上は裏文字 下は表 p696
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