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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第2章 >2 宗教活動の進展よみ(新仮名遣い)
文献名3本部と地方のうごきよみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
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ページ755 目次メモ
OBC B195402c7221
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本文  一九四六(昭和二一)年二月、愛善苑の発足とともに、本部講師の地方派遣も積極的におこなわれ、宣教活動は各地で活発に進展した。宣教の方向としては、敗戦直後の混乱した世相に対応して、「宗教の実践即ち信仰と実生活の一体化に力点をおき、この線にそって講話を行なう」必要性がとくに強調され、講師には「信仰心を根底におき、そのうえにたって、あらゆる分野にわたっての広く深き社会的教養、時局認識」が要請された。
 本部では、四月二三日から毎夜本部での奉仕者にたいする座談会をひらき、桜井重雄を講師として講座をひらいたが、六月二〇日から委員長ほか数人の講師によって、七回で一巡する夜間の愛善苑講話が開設された。さらに一二月一〇日からは天恩郷に新設された道場(西光館)において三日間で一巡する常設講座がもうけられ、一般求道者のうけいれ体制もできあがった。講座内容は「愛善運動の由来・万教同根と愛善苑、神と人・愛善の生活、宗教と文化・信仰と体験」で、受講者は毎日三〇人、五〇人、時には一〇〇人をこえる日もあって、しだいに盛況となった。
 一二月二一日から五日間、講師養成のための第一回特別講座が開催され、全国から七三人が参加した。講座内容は、愛善苑と信仰の確立(出口伊佐男)・宗教と文化(桜井重雄)・マルキシズムについて(京都大学教授恒藤恭)・現代科学と宗教(大国以都雄)・宗教と生活(出口新衛)・日本宗教界の動向(伊藤栄蔵)・世界紅卍字会について(土屋弥広)・キリスト教について(同志社大学総長牧野虎次)・二代苑主の講話などであって、講座内容・講師などきわめて充実したものであった。
 地方にたいしては、「愛善苑」誌の拡張、愛善座談会の開催、支部設置がよびかけられ、愛善苑発足の趣旨を全国的に知らせ、地方組織をつくりあげるため、機関誌「愛善苑」・「愛善時報」を刊行して、まず文書による連絡宣伝がはじまり、つづいて本部講師の地方出張があいついだ。こうした愛善苑の積極的な動きに対応して一九四六(昭和二一)年七月一三日には兵庫県竹田町に木村新左衛門(町長)・枚田弥兵衛(前町長)・足立荘太郎(会社社長)らの尽力によって、もと大本竹田別院あとに愛善苑竹田支部ができ、八月九日には、広田長太郎・西村長之助(町会議員)、木崎良吉(商工会何鹿支所長)ら綾部町有志の手で愛善苑綾部支部が発会した。これらの支部は「愛善苑の趣旨に賛同し其の目的達成に寄与することを目的」(支部会則第三条)として設立されたもので、ひろく地元町民によびかけられた。また九月には亀岡町に、岩崎荘次・中田安次・村上鉄也などの肝入りで愛善倶楽部がもうけられ、愛善苑にたいする地元町民の期待には、きわめておおきなものがあった。
 八月には山陰・山陽の各地で座談会・講演会が開催され、九月には四国、一〇月には北海道、一一月には九州その他で活動が活発となった。この年の一月一日にはもと九州別院の歌碑再建が地元信徒によってはじめられ、五月二〇日に完成した。つづいて聖師の居館にあてられていた鶴鳴殿の再建に着工し、これは一〇月二二日に完成している。こうして新発足以来九ヵ月にして、会員(信徒)七八九九人(北海道一二五五・東北六一七・関東五八五・中部一一七六・近畿二〇三九・中国一八三二・四国四六五・九州一〇六〇)を結集し、「愛善苑」の発行部数も一万四六七九部(北海道四八三・東北一一六二・関東一七五二・中部一七七八・近畿三六二八・中国三五四五・四国六三〇・九州一七〇二)をかぞえるにいたった。
 しかし教線が拡大されつつあるなかで、ついに八月二六日、聖師は脳出血症状で床につくことになった。
 あけて一九四七(昭和二二)年の一月七日(旧一二月一六日)には綾部と亀岡で開祖生誕祭がおこなわれ、ついで二月四日の節分には、鶴山山上の祭典につづいて、彰徳殿で、事件後はじめて正式に節分の祭典が執行された。本部からは「宿泊設備の準備お世話も不可能であり、帰途の切符入手も見込みがたたないので、つとめてご遠慮ねがいたい」と通達されたにもかかわらず、参拝者は約一五〇〇人、殿内立錐のよちもなく、綾部・亀岡の信徒は殿外で礼拝した。すみ子夫人の先達による神言奏上は最後までひとりでつづけられ、おわって甘酒の接待、豆まきの行事がとりおこなわれた。豆まきは新発足後からはじめられたことで、すみ子夫人によって「神様が世に出られるお祝に撒かして貰ふのですから、白豆を撒かして貰ひます。これを拾って帰って世界中に蒔いて下さい。この豆がどんどん出来たら世界中に愛善が広まる」と語られている。開祖がはじめて神饌された鏡餅を、「あられ」として餅にいれて搗きつぎ節分に神饌するならわしは、大本事件中にもひそかにつづけられていたが、新発足後もつづいておこなわれることとなった。
 四月二三日には、本宮山麓の旧弓場(現要荘)を改修して祖霊社を復活した。祖霊社復活の祭典後、委員長より「予言にのみとらわれる信仰、なすべきをしない時節まちの信仰、現実社会を無視せる神がかり的信仰」をきびしくいましめ、新憲法のもつ絶対平和の精神を体して活動するようによびかけられた。また「愛善苑は大革新された大本」であり、「棄つべきは棄て改むべきは改めて大本の根本精神に立ち帰」るよう、新発足の意義がかさねて強調された。
 委員長は五月以来「新日本建設と愛善苑」という演題で全国遊説をつづけ(四章三節)、本部講師も全国各地に出張して宣教も本格化した。この年一月以来亀岡の道場受講者は一三〇〇人、四月二三日現在の各府県における連絡事務所は二六、会合所はすでに二〇二ヵ所に達している。六月一六日には、すみ子夫人・直日夫人はそろって弥仙山に参拝し、信徒二〇〇余人が同行した。
 八月二七日は旧七月一二日で、聖師はこの日第七七回(満七六才)の誕生日をむかえた。月宮殿や天声社の破壊の跡は本部奉仕者・地元信徒の手によってかたづけられ、天恩郷の月の輪台で盛大に祭典をおこなうことになった。当初本部からは「喜寿慶祝祭」として発表されたが、聖師の言葉にもとづき急拠変更して、このときから聖師の生誕祭を「瑞生祭」と称することになったのである。参拝者は約四〇〇〇人にたっしたが、列をなして、月の輪台から瑞祥館の門内をくぐり、すみ子夫人からおさがりの餅をいただき、月宮殿跡に参拝した。その間庭前から、瑞祥館で静養中の聖師に面会がゆるされたが、一般信徒としてはこれが最後の面会となった。二八日には小幡神社・瑞泉苑・高熊山の参拝がおこなわれたが、地方からの参拝者は、地元の協力で町内各会議所・学校・信徒宅に分宿した。
 この日委員長は、日本の立直しと愛善世界の実現のために、瑞生祭後は「愛善生活運動」を展開するむねを発表した。委員長はまず「平和日本の新建設はまず国民の心の武装をとくことによって始まる。とらわれた心、われよしと排他の心を改めないかぎり、人類社会に真の平和はあり得ない。宗教は心のよろいを捨て魂の美しい光をあらわしめるものである。この美しい光を愛善の精神という。お互にわれよしの生活を改め、万人とともに生き、万人とともに楽しむ生活、世のため人のために生きる生活、更に進んでおのずから神とともにある生活、これが愛善の生活である。愛善の生活は祈りに始まる。その祈りは利己的であってはならない。神の御心のままにみちびかれたいとの愛善の祈りでなければならぬ。まことの祈りには常に感謝がともなっている。祈りの心はそのまま実践とならねばならぬ。感謝と祈りと実践によって生活はおのずから愛善化される。愛善の生活を会員みずから実践し徹底し、進んであらゆる社会生活を愛善化する」(「愛善苑」昭和22・9・15)と愛善生活運動の根本理念をのべ、「愛善生活の実現」「郷土の愛善化」「生産増強運動」「会員の倍加」を指示し、とくに青年が運動の第一線にたつことを要請した。
 瑞生祭の前々日の八月二五日には、第三回全国協議会がひらかれた。この会議で協議員選出の地区を教区とあらためて、二〇教区(北海・奥羽・東北・北関東・南関東・北陸・静岡・東海・和歌山・近畿第一・近畿第二・三丹・鳥取・島根・岡山・広島・山口・四国・北九州・南九州)とした。そして協議員を審議員、協議会を審議会とよぶこととし、第一回の審議会を一二月六日に開催することにした。また八月二六日には会員章(信徒章)が制定された。中心の紫色は主神を象徴し、その外丸の白色は宇宙を表現し、周囲の緑色は平和と希望をあらわしたものとされた。九月からは会費制が廃止されて入会金制となり、入会金は五〇円となった。愛善生活運動の展開によって、本部講師・地方信徒はくるしい食糧・交通事情をのりこえて、連日奔走した。瑞生祭後三ヵ月あまりの間に、各講師の話を聴いたものは全国で約二万人、そのうち出口委員長は地方へ四一日出張し、その間講演会・座談会を開催すること七二回であって、その受講者は八三〇〇人におよんだ。
 愛善生活運動の活動は、ながいあいだの冬枯れの野に春陽がおとずれ、若草が一どに萌えだしたような清新な精神の光にみちあふれていた。その叫びは、敗戦直後の荒廃した民衆の耳目をそばだたせた。委員長の「新日本の建設と愛善苑」の講演は、全国いたるところで大きな社会的反響をよんだ。この年の九月には、京都の同志社大学神学館において、京都愛善青年会主催、国際宗教同志会の後援で、「愛善苑を聞く会」が二日にわたって開催された。本部からは委員長以下講師が出講して、「新時代の宗教」「神観・人生観」「愛善苑の性格」「愛善生活の提唱」について熱弁をふるい、聴衆にふかい感銘をあたえたが、こうした会合は一般の要望にこたえて各地で開催され、愛善苑の主張は共感をよび大衆のなかに滲透していった。
 本部講師の出張も、地方の要望に応じきれないほどであった。講師たちは、戦後における旅行の非常に困難ななかで、不眠不休の活躍をつづけた。地方信徒もふるいたち、これに呼応して真剣に活動した。
 新発足満二年の一二月八日には天恩郷で新生記念祭を挙行したが、この日までに愛善苑入会の手つづきをして、本部にとどけでた会員(信徒)数は一万九〇〇〇人、県支部は一(島根)、府県連絡事務所は四〇、会合所は三三六ヵ所となった(会合所の未設置は福井県のみ)。なおこの一年間に道場講座を受講した修行者は四〇〇〇人をこえている。また、「昭和二十年十二月八日が愛善苑として新たに生れ出ようとする第一声の日であった」ことをながく記念するため、この年より毎年一二月八日に新生記念祭をおこなうこととされたものである。
 新生記念祭典のあと委員長は「信仰の向上徹底」「愛善生活運動の徹底」をかさねて強調したが、このとき、「祭祀の尊重」があらためて指示された。

〈祭式〉 ご神体は、一九四二(昭和一七)年八月聖師の保釈出所以来、聖師によって「神」「大天主太神」のご神号が短冊に染筆され、随意信徒にあたえられていたが、一九四六(昭和二一)年六月に月山富士が完成してからは色紙に月山富士をえがいて下付し、ご神体としてまつらせていた。
 祭式については、新発足を契機として、簡素で過去の形にとらわれない新しいあり方がもとめられ、昭和二一年一〇月一八日の委員会では、とりあえずつぎのように決定された。「真神ノ表現 苑主ガ示シタ大天主太神トス(大和言葉ノ表現ハ「おほもとすめおほかみ」トス。但シ「ダイテンシユタイシン」デモヨイ)。御神号 (イ)苑主及同夫人ノ直筆トス、(ロ)亀岡及綾部ニテ下ゲ渡スコト、(ハ)紙ハ白無地短冊型トス。御神体ノ祭ノ形式 (イ)お厨子デモヨシ、表装シテモヨシ、(ロ)従来ノモノハソノ侭デヨシ。礼拝ノ形式 (イ)会員ニ強ヒナイコト、(ロ)現代ニ即シタ日本民族古来ノ神道形式ヲトルコト。礼拝ニ就イテ (一)祭服 (イ)本部祭典ニテハ装束ヲ使用シナイ、(ロ)葬祭ニ於テハ装束使用ハ自由ニス。(二)祝詞(イ)天津祝詞ハ従来通リトス、(ロ)其ノ他ノ祝詞ハ研究シテ基準ヲ作ル。(三)礼拝(イ)標準ハ従来通リトス」(『議事録』)。そして同年一二月八日には、神前礼拝用の「のりと」(あまつのりと、祖霊のりと、現代かなづかい)が刊行されて、ひろく信徒にわかたれた。なおこのときのご神号奉称は「おほもとすめおほみかみまもりたまへさきはへたまへ」「至聖先天老祖まもりたまへさきはへたまへ」「かんながらたまちはへませ」と、それぞれ二回ずつとなえることとされた。
 しかし、教勢が進展し信徒の数も増加してくるとともに、祭祀の形をととのえ、信徒への指導も積極的におこなわれるようになってきた。一九四七(昭和二二)年四月二三日からは本部祖霊社を復活して、各家の祖霊をあらためて本部祖霊社に鎮祭し、毎月三・一三・二三日を例祭日とさだめて、全信徒の祖霊の祭祀がおこなわれることとなった。
 ついで同年一二月六日の第四回定時審議会には、祭祀尊重についての具体策として、「昭和二三年度の大祭行事として綾部で節分大祭・開祖三十年祭・祖霊大祭を、中祭行事として亀岡で瑞生祭・新生記念祭をおこなう。小祭行事として本部・分苑・会合所・各信徒宅で月次祭を、また各信徒宅では祖霊月次祭をおこない、また本部および信者農家では豊稔祈願祭・田植祭・新穀感謝祭をおこなう。祭式作法を制定し、講習会をおこなう。祭典用祝詞および礼拝用として日拝詞を制定する。その他神歌の斉唱、八雲琴の採用、讃美歌の制定」などが提案され実施されることとなった。神歌の斉唱は、この年の六月、あらたに刊行された出口聖師の道歌集『愛善の道』によってはじめられており、またこの年の瑞生祭からは、祭典の奏楽として八雲琴が復活されている。年もおしつまった一二月一〇・一一日には第一回の祭式講習会が綾部でひらかれ、地方での祭式指導もおこなわれることとなった。

〈造営〉 宣教の活発化にともない綾部・亀岡両聖地の整備もすすめられていった。綾部では、一九四七(昭和二二)年の節分祭には彰徳殿に神床が新設され、また北側の増築工事も完成した。六月からは開祖三十年祭を翌年にひかえ、地元信徒によって開祖奥都城跡の清掃がはじめられ、一一月一五日天王平の整備起工式がとりおこなわれた。
 一方亀岡では、修行者が増加したため、本部事務所を建築することとなり、七月一六日地搗きをおこなって以来工事は急ピッチですすめられたが、二階建延一七五・五坪の建物が一二月三日完成したので、本部諸機関は道場内の仮事務所から新事務所に移転した。そのほか修行者用の食堂兼宿舎、倉庫、製瓦・製材工場も完成した。一〇月末には、食糧難のため亀岡町民に貸付け耕作させていた東光苑の一二〇〇坪が大本に返還され、一一月には、綾部梅松苑と亀岡天恩郷に和歌山県から献納された梅苗五六七本が植えられた。
 こうした聖地の再建整備は、終戦直後の交通難・食糧難のなかで、地元信徒をはじめ参集した地方信徒の手によっておこなわれたものであった。その数は昭和二二年七月現在で、島根・茨城・静岡など全国三一の府県から三五九人延二二四三人にもたっしている。「当時は食べるものがなく、大根や菜っぱはよい方で、芋・南瓜やごぼうのくきなど食べられるものはなんでも千切りにしてほうりこんだ米つぶのすくない雑炊でした。……覚悟していった私らでも、帰るころでなくてはうまいと思えなかった」と回想されているように、これら地方からの短期奉仕者の受入れには非常な苦心がはらわれたのである。とくに米は配給制で取締りがきびしく、運搬が容易でなかった。しかし農村の信徒は、聖師の保釈出所以来監視の目をくぐって、自家保有米を中矢田農園へ、本部へとおくりとどけたのである。大口としては茨城・石川・島根・三丹などからであったが、米の集荷・荷づくり・切符の手配・運搬が信徒の協力によって組織的におこなわれ、小グループの輸送隊が編成されてくりかえしはこびこまれた。島根からは茶箱につめて一度に五俵~一〇俵分もおくられてきたことがあり、石川県小松からは信徒が交代で一二〇数回も亀岡との間を往復し、六石余を献米したということである。

〔写真〕
○会員章 昭和22~33年 p755
○……同時に特別講座も随時ひらかれた 第1回の受講証 p756
○昭和21年12月から年中無休の道場講座を開設した 亀岡天恩郷西光館 p757
○出口王仁三郎聖師 昭和20年12月 74才 p758
○病気静養の聖師にかわって挨拶されるすみ子夫人 瑞生祭 西光館 p759
○地方での愛善講演会や座談会もひんぱんにおこなわれた 上は出口伊佐男委員長の講演 下は京都の同志社大学での講演 p761
○第1回新生記念祭 亀岡天恩郷 西光館 p762
○月山富士 出口王仁三郎染筆  p763
○本部では祖霊祭祀を復活し祖霊社をおいた 綾部梅松苑 現要荘 p764
○本部事務所が新築された 亀岡天恩郷 現鳳雛館北側 p765
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