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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第7編 >第5章 >2 二代苑主の昇天よみ(新仮名遣い)
文献名3招魂祭と遷柩よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ927 目次メモ
OBC B195402c7523
本文のヒット件数全 4 件/出口栄二=4
本文の文字数3203
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本文  一九四八(昭和二三)年一月、初代愛善苑主瑞霊真如聖師の昇天があり、いままたわずか四年にして、二代苑主の急な昇天にあった信徒の衝撃はおおきかった。瑞祥館においてはただちに緊急参務会がひらかれ、道統を継承される三代教主(教則の改正により苑主を教主と改称)の発表手続きを協議するとともに、葬祭執行に関して、喪主出口直日夫人、祭主出口伊佐男、葬祭執行委員長出口貞四郎、同副委員長大国以都雄・嵯峨保二、その他の執行委員が任命された。また午前九時半、本部奉仕者を緊急招集して東光館で、大国から苑主危篤とのみ一応の発表があった。さらに午後一時、在住信徒および本部奉仕者に、あらためて苑主の病状経過と昇天のもようを総長より詳細に発表した。地方の各機関長へは急電を発し、審議会の緊急招集をおこなった。あまりに突然のことで、ききつたえた信徒はおおいにおどろき、かつ悲しんだ。
 苑主の病状については一時憂慮されたが、その後の経過が順調であって、あるいはちかく快復されるものと信徒は楽観していた。本部も経過は順調とのみつたえていたが、容体があやまりつたえられているむきもあるであろうと、「愛善苑」には「経過は次第に順調で………現在のところ非常に喜ばしいご容体にてひたすらご静養いただいています」と発表したままになっていた。春の大祭で綾部・亀岡に参拝した信徒が、二八日天恩郷の祭典をおわって帰途につき、帰りつくやつかぬころに、突然の昇天となった。
 昇天の知らせをうけた綾部の人々の悲しみはふかかった。綾部は苑主の幼少のころからのなじみふかいところであり、生涯の大半を常住され、信徒はもちろん町民との親交もとくにあつかった。したがって、昇天の知らせに全町あげて惜慕の憂愁にとざされた。出口栄二・近松光二郎・梅松苑各課長たちが亀岡から帰苑するのを待ちきれず、町民たちも梅松苑につめかけた。その夕、天王平の開祖・聖師の奥都城および熊野神社へ昇天の奉告をおわったのち、出口栄二の斎主により彰徳殿で昇天奉告祭がおこなわれ、苑主の病状の経過・昇天のもようが発表された。
 亀岡では四月一日、午後七時半から瑞祥館で招魂の祭がおこなわれた。急報でかけつけた各地の信徒、綾部・亀岡の人々たちで館の内外はあふれ、月昭山あたりまで粛然と参列の人でうずまった。斎主出口伊佐男の奏上する霊魂安定詞は心なしかうちふるえ、参列者のなかからおえつの声がもれた。喪主三代教主をはじめ、出口家遺族・親族・各機関代表者・人類愛善会顧問牧野虎次・国際宗教同志会代表・亀岡町長・綾部市長(代理)たちの玉串がささげられ、三代教主の追悼の歌三首を斎主が朗詠して招魂祭はおわった。
 その夜、三代教主はじめ遺族によって納棺の儀がおこなわれた。二代教主の衣装はナヤ型模狼の白羽二重である。この着物は、開祖が在世中は木綿物を着用され、いっさい絹物は用いられなかったので、愛善苑発足後、絹物を新調して二代教主が開祖の霊前にささげられたものであった。柩は、厚さ三・九センチの桧板で作製した長さ一メートル七〇センチ、幅七五センチ、深さ六六センチのもので、二代教主がこのまれていた袷でんち、茶色の被布、鶴の模様がある白どんすの着物、聖師の葬祭のとき喪主として用いられた松の杖、金明水、三代教主がつくられた人形、その他諸調度品などをおさめた。
 通夜は三一日夜から七日の綾部へ遷柩の日までつづいた。全国からかけつけた信徒で、瑞祥館は毎夜はいりきれぬほどで、一時間ごとに神言があげられ神歌が斉唱された。二代教主の容姿は生前とすこしのかわりもなく、むしろいきいきとして、前額中央の小豆大の白毫があざやかにうかび、神々しく感じられた。
 極度に物資の窮乏していた聖師の葬祭のときとはちがって、霊前には美しい生花がかざられた。ことに綾部へ遷柩するについては、特大の新調された霊柩車を大阪よりとりよせ、自動車をつらねて遷柩することとなった。
 四月七日午前八時、綾部へ遷柩の奉告祭が斎主出口伊佐男によって執行され、喪主・遺族・各代表の玉串捧呈があって、霊柩は瑞祥館門前で白木の霊柩車にうつされた。喪主三代教主は霊璽を捧持し、祭主伊佐男がつきそって乗車し、神灯は土居重夫・石田卓次らが捧持した。先駆車は遷柩責任者の大国らが乗り、つぎに神灯捧持の車・霊柩車・霊璽捧持の喪主・祭主・出口家遺族・教団代表・報道関係者と遷柩の自動車の列はつづき、地方代表および側近者たちはバスにのってこれにしたがい、午前九時半に月照山前を出発した。これらの自動車は京都からとりよせられた。
 苑内はギッシリ奉送者が堵列して、徐行する霊柩車に別れを惜しみ、東光苑では亀岡保育園の園児たちが手を合わせて見送っていた。自動車は横町から旅籠町へ、北町・安町・河原町・茶屋ノ前に出たが、町内では町民が弔旗をかかげ敬虔な態度で見送った。町内を出ると速度をはやめ、八木・園部を通過のあいだ、沿道には信徒および町民の多数が見送っていた。天気は快晴で観音峠をのりこえたが、丹波路は春の陽気で、舗装していない道は砂ほこりがたち、速度を出すことをつつしんだ。須知・桧木山・梅田・莵原を通り、一二時すぎ千束支部の上田信一宅前に霊柩車を休め、昼食することにした。支部の信徒たちは霊柩に供物をささげ、のりとを奏上し、霊柩のそばからはなれなかった。綾部総本苑からは、出口栄二・吉田春治・米川清吉ほか大本協賛会代表大槻五郎・四方源太郎。みろく会代表浜田朋志・福本源之助・多幾光太郎らが千束支部まで出迎えていた。少憩後沿道の信徒の迎送するなかを、福知山市土師をへて綾部の市外で車列をととのえ、本町通から本宮坂をのぼったが、綾部市内は市民の懇請によって最徐行した。各戸に弔旗をかかげ、町民は粛然と堵列していた。ことに二代教主と親しかったものや、鶴山織の家庭内職によって援助をうけていた婦人たちは、地に伏して泣きくずれた。
 午後二時一五分、霊柩車は亀岡を出発して約五時間かかり、梅松苑にやすらかに到着した。すでに生花で美しくかざられていた彰徳殿に安置されると、ただちに本宮山上で霊柩安着の奉告祭がおこなわれ、ひきつづき彰徳殿の霊柩の前で、綾部安着ののりとが奏上された。この夜から三晩、綾部での通夜がつづけられた。
 九日はちょうど十日祭にあたる。彰徳殿につめかけた全国各地や在住の信徒、市民たちで満員である。午後七時、斎主出口伊佐男・副斎主出口栄二ほか二〇余人の祭員によって祭典はすすめられ、喪主三代教主・遺族・親族・各代表などの玉串捧呈が一六〇人にもおよんだ。祭典をおわって総長から一時間にわたり、二代教主の昇天前後の模様、三代教主の道統継承と今後における教団の方針について講話(「愛善苑」昭和27・4)があった。この夜の通夜は、かねてにぎやかなことをこのまれた二代教主の気持をくみ、ことあるごとにうたわれていた「若松さま」の歌や、二代教主の手になる「愛善踊り」の音頭、青年会音楽部の伴奏による愛善歌の合唱などではなやかな通夜となった。また、側近者たちにより思い出の座談会がひらかれ、在りし日の「二代さま」がしのばれた。

〔写真〕
○突然の悲報に信徒はおどろき かつ悲しんだ p927
○招魂祭 4月1日 信徒は庭の内外にあふれ遷柩の日まで通夜がつづいた 亀岡天恩郷 瑞祥館 p928
○遷柩奉告祭 4月7日 瑞祥館 p929
○霊柩 4月7日 天恩郷をたたれる霊柩 瑞祥館門前 先導は大国葬祭執行副委員長 p930
○霊柩 綾部にかえる 本宮山での霊柩安着奉告祭 p931
○霊柩は亀岡から綾部へ…… 前頁右から 千束支部で小休止する霊柩車 車をつらねて丹波路をひたすらはしる葬列 綾部でのかなしき〓 p931
○……参列の人々は彰徳殿とその広場をうずめつくし最後のわかれをおしんだ p932
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